ASAKA通信

ノンジャンル。2006年6月6日スタート。

「精神」「アンサンブル」(参)

2010-08-26 | 参照

「自分の状態変化を参照しながら、次の変化を自己調整しつづけるシステム」
 →「精神(ベイトソン)」「非線形システム」→「発達」→「創発」


(佐々木正人『アフォーダンス―新しい認知の理論』94年岩波)より

情報は多重にピックアップされる。……知覚システムが冗長に情報をピックアップしていることが、一つの感覚器官が障害を受けても、私たちがこの環境で生き抜くことを可能にしている。

知識を「蓄える」のではなく、「身体」のふるまいをより複雑に、洗練されたものにしていくことが、発達することの意味である。(ごく限られたシステムのふるまいしか持たない赤ちゃんは、わずかな情報にしか対応できない)

発話を理解することは、記号を解読することではなく、知覚の問題である。……「聴くシステム」は音の流れから「意味」をピックアップしている。……自ら「発話する」ことも、他者の発話を知覚することと共通の知覚的スキルにもとづいているだろう。なぜなら、発話することは「自分の声を聴く」ことであるからだ。そして、書物など言語を表現したあらゆる媒体から意味を読み取る基盤も、他者の声を知覚するシステムが提供しているだろう。文字で書き記されたものの中には、聴くシステムが利用する、発話に実在する不変項が埋め込まれているはずなのである。

ギブソンとほぼ同時代に生き、アメリカが生んだもう一人の「認識論のエコロジスト」であるグレゴリー・ベイトソンは、「精神の物象化というナンセンス」を攻撃して次にように言っている。
「きこりが、斧で木を切っている場面を考えよう。斧のそれぞれの一打ちは、前回の斧が木に切りつけた切り目によって制御されている。このプロセスの自己修正性(精神性)は、木ー目ー脳ー筋ー斧ー打ー木のシステム全体によってもたらされる。このトータルなシステムが内在的な精神の特性をもつのである」、
「ところが西洋の人間は一般に、木が倒されるシークエンスを、このようなものとは見ず、『自分が木を切った』と考える。そればかりか、〝自己〟という独立した行為者があって、それが独立した〝対象〟に独立した〝目的〟を持った行動を成すのだと信じさえする」、
「精神的特性を持つシステムで、部分が全体を一方的にコントロールすることはありえない」、「システムの精神的特性は、部分の特性ではなく、システムの全体に内在する」、
「調和的に働く一つの大きなアンサンブルにこそ、精神は宿るだ」と。

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「フラット化の亢進」「ネタ化の不可避性」(参)

2010-08-21 | 参照

(見田宗介『社会学入門ー人間と社会の未来』06年岩波新書)より

個性化の競合の帰結する没個性化は、近代社会の基本的な逆説の一環である。「現代人は少しずつ常に興奮している」という表現で柳田が見ているものは、この社会の打ち消し合う「おどろき」の相殺、これが招来する夢の漂白、感動の微分ともいうべきものだった。
(→ウェーバー「脱魔術化/魔のない世界」)


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「直接性」と「準拠系」(参)

2010-08-06 | 参照

(河野哲也『善悪は存在するか~アフォーダンスの倫理学』2007年講談社)より


「生物学的および心理学的観点から見て、意味とは、ある欲求との関係における諸価値の評価である。そして欲求とは、その欲求を体験して生きるものにとって、一つの還元しえない、またそのことによって絶対的な準拠系なのである」(J・カンギレム『生命の認識』02年法政大学出版局)

公平性と普遍性に則った従来の倫理は、個別の人間関係のなかで生きている人間の現実から離れる……相互的な人間関係のなかで相手のニーズを察して、それに応答してゆくケアリングこそが人間本来のあり方であり、道徳や倫理の基盤なのである。

人間にとって共感能力は根源的である。共感能力は、共同注意や共鳴動作のような模擬的な身体能力に基礎を置いており、私たちはこの能力によって、他者の行動を潜在的な自分の行動として利用することができ、言語をはじめさまざまな文化的行動を身につけることができるのだ。

ケアの倫理が恐れているのは、この直接応答する責任を負っていないような関係を人間の関係性の中心に据えてしまっては、道徳の基盤が掘り崩されてしまうのではないかということである。

法化された状態、すなわち、人間の個別性が捨象され、人間関係が直接性を欠いているような状態においては、道徳の意味づけ(共感あるいは互酬性によって生じる意味)が弱まり、その代わりに道徳的・倫理的命法の指令性だけが浮き彫りになる……。


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