ASAKA通信

ノンジャンル。2006年6月6日スタート。

「先生の授業」

2013-12-29 | Weblog


          「強い風が吹くとき、鳥は空を飛ぶことができません」
          「はい」
          「風が吹くのは空気があるからだ。空気がなければいいのにな、と愚かなカラスは考えます」
          「ヘンな奴だな」
          「ヘンなのは人間も負けていません。ほかの人間さえいなければ、自由なのにと考えたりします」
          「好きなことできるでしょ」
          「そう思うでしょ。だけどちがいます」
          「どうしてですか」
          「自由でありたいと願う感情は、ほかの人たちといることから生まれます」
          「はあ」
          「もしほかの人たちがいなければ、自由を求める感情は生まれません」
          「どうして?」
          「たぶん、本当は一緒にいたいから」
          「イヤなのに一緒にいたいって?」
          「イヤっていうのは、ちがうように一緒にいたいということの言い換えだと思います」
          「どんなふうに?」
          「空気がないとカラスは空を飛べない。たぶん風が強すぎるためでしょう」

 

 

コメント

「ニーチェ」

2013-12-27 | Weblog

 

 

 

コメント

「SOCCER16 ~プレーの産出力」

2013-12-25 | Weblog


                  科学的思考の風土では、未発見の事実と絶えざる変化が勝利者なのである。              
                                ――G・ベイトソン『精神の生態学』佐藤他訳


       自然に刻印された淘汰の形式はシンプルである――創造性を捨て去るだけでいい。

       経験的に確定した情報と戦略の内部でしか動けないプレーヤーは、淘汰されていく。
       諸変数の処理は定式化されてプレーヤーの中で完結し、プレー生成の作動は停止する。

       「原因-結果」「刺激-反応」――線形的に記述できる予測可能性の内部から、
       新たなプレーイメージとプレーが産み出されることはない。

       「ムリだ」――既知の内部で思考が完結するとき、不可能の地平が聖域化される。
       思考と運動のパターンはフォーマット化し、プレーの出力は閾値内に収束していく。

       聖域化された不可能の地平を破り、プレー生成の新たな地平を開くためには、
       予測可能性に埋め尽くされた内部に、不連続なゆらぎやノイズが導かれると同時に、            
       プレーヤーは自由エネルギーを解放するカオスを体験しなければならない。

       定型的な運動と不連続のゆらぎが交わると、カオスが発生して閉じたループが破られる。
       プレーを構成する無数のパーツはいったんシャッフルされて、新たな構成へ向かう――

       プレーヤーに内在するポテンシャルの発露、その契機としてカオスの体験がある。
       カオスの出現と同時に可能と不可能の境界はゆらぎ、プレーは解体の危機を迎える。

       聖域化した可能と不可能の境界のゆらぎ――それは未知の変数=「他者」によって導かれる。
       「私」の統覚を不安定にし、予測可能性のフレームを破って動くもの、それが「他者」である。

       「私」と「他者」のプレーは相互にせめぎあい、反照しあい、響きあう中から、
       カオスの不安定なゆらぎが生成され、プレーを創発する非空間的な位相が開かれていく。

       未知の未知性、他者の他者性、みずからにとって異質なプレーに開かれているとき、
       カオスの体験は肯定され、享受されて、プレーの新たな可能性が立ち上がっていく。

       サッカーの風土では「未発見の事実と絶えざる変化を受けいれる者が勝利者となる」――.

       すべてのプレーヤーがゲームへ向かう彼岸には、サッカーが創発するファンタジーがある。
       ファンタジーが出現に向かうとき、プレーヤーたちはいつも必ずカオスの淵を駆けている。

 

 

コメント

「SOCCER 15 ~ プレー・イメージ」

2013-12-23 | Weblog


     もし包括的存在の諸細目をこまかにしらべるならば、意味は消失し、
     包括的存在の観念は破壊される。…またピアニストは、指に注意を集中させるときには、
     動作が一時的にそこなわれることになろう。部分をあまりに拡大してしらべるならば、
     パターンとか全体相が見失われることになる。
                           ――M・ポランニー『暗黙知の次元』佐藤敬三訳
        

ソレについて直接語ることができない、あるいは禁じられているのでもなく、
ソレについて語ることで、ソレを含む全体が構成するコンテキストが変質し、
それなしでは生きられない体験の直接性や意味の統一性が失われるもの――
精神の再帰的な特性に馴染まない、いちど限りの体験の一回性と共にあるもの――
例えば、プレーという運動の形成。

プレーのスキルを改善していくとき、めざす運動イメージの形成は鮮明なほうがいい。
しかし一方、イメージ形成が主題として全面化すると、運動の自立性を損なうことが起こる。
イメージの細部や精度へのこだわりは、イメージに向かう意識の仕事を全面化させ、
プレー形成という身体にまかされた自由度や自律性を浸食し、損なうことにもなる。

実現したいと願うプレーイメージを可能なかぎり鮮やかに描くと同時に、
身体の自由度を保持したまま、その可能性を開くようにイメージと結び合わせるには、
意識によるイメージ形成を身体の背後に位置づけ、運動への介入を避ける必要がある。

――みずからが生きるコンテキストのなかで、コンテキスト全体について言及することは、
――別のコンテキストを開いて、渦中のコンテキストの外へ出ていくことを意味する。

例えば、そんな現象に似ている。

――愛について語りすぎるとき、語るという営みが愛という営みとは別の位相を開いて、
――語りすぎる人間の存在は、愛の直接性やコンテキストから遠ざかることになる。
――ここから再び帰還するとき、語りはどこかでみずから消えていく過程を歩んでゆく。

 

コメント

「ハンナ・アレント/interview」

2013-12-22 | 参照


*(English subtitles)

By 1931 I was finally convinced the Nazis would come to power.
I was always arguing with other poeple about it.
But I didn't really concern myself with these things systematically
until after I had emigrated.

I would say February 27, 1933. The burning of the Reichstag and
the illegal arrests that followed the same night.
The so-called protective custody.
Poeple were taked to Gestapo cellars or concentration camps.
What began then was monstrous.
But it has since been overshadowed by later events.
It was an immediate shock to me.
From that moment on I felt responsible.
I was no longer of the opinion one can be a bystander.
I tried to help in different ways.
The event which made me decide to leave Germany.
I've never mentioned it, it was so trivial...

In the end, I did not leave in a peaceful way.
In a way it was gratifying.
I was arrested and had to leave illegally.

At least I'm not innocent. Nobody could say that.

I realized what I expressed time and time again in the sentense:
If one is attacked as a Jew, one must defend onself as a Jew.
Not as a German or a world citizen.
Or an upholder of human rights.

――How do you see Europe now?
――What has been lost for ever?

I don't long for that.

The decisive day was when we heard about Auschwitz(in 1943).
At first we didn't believe it.
My husband and I said the Nazis were capable of anything.
We didn't believe it because militarily it was unnesessary....
That was the real shock...It was as if an abyss had opened.
We had the idea that amends could be made for everything else.
Amends can be made for almost anything at some point in politics.
But not for this.
This ought never to have happened.
I don't just mean the number of victims.I mean what happened to the corpses.
I need not go into detail.That should never have happened.
Something happened to which we can never reconcile ourselves.

My thoughts after 1945 were as follows:
Whatever happened in 1933 is really unimportant
in light of what happened after that.
The disloyalty of friends, to put it bluntly for once...
If someone really became a Nazi and wrote articles about it,
he did not have to be loyal to me personally.,,
As far as I was concerned, he'd ceased to exist.
But they were not all murderers.
There were people who fell into their own trap.
Nor did they desire what came later.
It seem to me there should be a basis for communication
 precisely in the abyss of Auschwitz.43;57
That was true in many personal relations.
I argued with people. I'm not very agreeable or polite.
I say what I think.
Somhow things were set straight with a lot of people.

The greatest experience was one of devastation.

([the book on the Eichmann trial in Jerusalem])
First of all, let me say in all friendliness that you have become a victim
 of this campaign.
Nowhere in this book did I accuse the Jewish people of failing to
resist persecution. Somebody else did that.

But I really thought Eichmann was a fool.
I read a transcript of his police hearing.
3600 pages in all, I read it very carefully.
I laughed countless times. I laughed out loud.
People were offended by this. I can't do anything about that.
But I know one thing.
I'd probably still laugh 3 minutes before certain death.
That, they say, is the tone of my book.
That the tone is predominantly ironic is true. That completely true.
The tone is really the person.
When people reproach me with accusing the Jewish people
that is a malignant lie and propaganda.
The tone is an objection against me personally. I can't help that.

―Did something get lost which you regret?
Yes, you pay dearly for freedom.
The Jewish humanity signified by their lack of homeland was something
very beautiful. You're too young to remember. It was very beautiful.
This standing outside of all social connections,
the complete open-mindedness. I experienced it in my mother.
She also exercised it in relation to the entire Jewish community.
That had a enormous amount of charm. You pay for freedom.

I said that this humanity has never survived the hour of liberation
by so much as 5 minutes. That also happened to us.

The venture  seems clear to me. One exposes oneself to the light of the public.
As a person. Although I'm of the opinion one must not appear and act in public
self-consciously.
Yet I know that in every action that takes place a person is expressed
by his action and his speech.
Speech is also a form of action. That is one form of venture.
The other is we start something.

We weave our strand into a network of relations. what comes of it we never know.
We all need to be able to say: Lord forgive them, for they know not what they do.
That is true of all action. Simply and concretely true, because one cannot know.
That's what is meant by a venture.
I'd say this venture is only possible when there is a trust in mankind.
A trust which is hard to formulate.
But one which is fundamental. A trust in what is human in all people.
Otherwise sucha a venture is impossible.

 

コメント

「新・サルの惑星」

2013-12-21 | Weblog


  「サルの惑星化」が、すでにあらゆる分野で顕在化している――
  集団ザルが支配する国は不幸になる、という歴史の法則が反復されつつある。

  集団ザルの文明は、「支配-隷属」の関係パターンがフラクタルに積み上がる構造をもつ。
  統治の全コマンドは、規律・制御・位階・目的・手段、総じて線形的価値序列のコードに準じ、
  人権ならぬサル権に勝る愛国と忠君を至上命題に、自己犠牲を喜びとするよう配下に要請する。

  集団に埋め込まれることで自足した集団ザルには、共通するある行動特性がある。
  集団外で生きるサルの自由さはストレスであり、脅威に映り、同時に嫉妬する。
  外部を見下し、否定し、凶暴になることで、これらの不安を埋め合わせる行動が際立つ。

  集団ザルの文法では、集団的価値は一匹の実存より上位に位置する。
  集団から独立的であろうとする「狂ったサル」は厳罰に処すべきである――

  みずから信じない日の丸印の歴史教育をベースに、配下ザルの痴呆化と隷属化が図られる。
  思想警察ザルと密告ザルを育成して、裏切りには極刑の法制化で応え、さらに常備軍を組織し、
  近隣との緊張を高め、常態化させることで、内部的統制と強権の正当性を担保していく。

  情報の一元管理、権益の一極集中、サル権の極小化、階層の固定化、一般福祉の解消など、
  教育、文化、政治、産業、経済、金融、学問、報道など、文明のあらゆる分野において、
  「サルの惑星」化プロジェクトが着々と進行している――

 

コメント

「ぼくの好きな先生」

2013-12-18 | Weblog

 

 

 

コメント

「SOCCER 14 ~ プレーのクロック」

2013-12-15 | Weblog


       相互に支え合う前提の織りなす、果てしなく複雑なネットワークの中に捕らわれて生きること、
       これはすべての人間に共通の宿命だろう。逆にいえば、変化が起こるためには、
       この前提網の内部に、様々な弛緩と矛盾ができることが、どうしても必要だということである。

                                                ――G・ベイトソン『精神と自然』(佐藤良明訳)

 

「さっき-いま-これから」――
プレーヤーの内部ではクロックが時間を刻んでいる。

クロックが刻まれると同時に、固有の時間座標が生成し、
一つひとつのプレーはそこに連続的にマップされていく。

さらに連続的にマップされるプレーのシークエンスは、
統一的なプレーの組織化のモードとしてキープされる。

組織化のモードは意識下深くプログラムされ、
通常、プレーヤーの意識の水面に浮上することはない。

固有のクロックを刻むプレーヤーが別のプレーヤーと出会うとき、
相互作用を開始して、ふたりは関係のループを形成していく。

よびかけと応答が連続するプレーの相互作用のループにおいて、
クロックとクロックは相互のズレを消去するように接続され、
それぞれのセルフ・チューニングを介して、同期していく。

複数のクロックが重なる地点には、第三のクロックが創発し、
すべてのクロックを制御するメタ・クロックとして機能しはじめる。

第三のクロックは制御のコマンドを投げてプレーの組織化を方向づけ、
さらに、それをマップする共同的な第三の時間座標が立ち上がる。

プレーは第三のクロックが投げるコマンドに従って自動化され、
第三の時間座標には逸脱を禁じるプレーの閾値が設けられていく。

あえて、ゆっくり、動く――

第三のクロックが投げるコマンドを裏切るように、
プレーとプレーの接続面に不連続のクサビを入れてみる。

切れ目なく接続連鎖するプレーとプレーのシークエンスに、
あえてゆっくり動いてクサビを入れると、ノイズが混入する。

ノイズはプレーの接続面にランダムな亀裂やスキマを生み、
第三のクロックが投げるコマンドにランダムネスが導かれる。

ランダムネスはゆらぎとしてプレーのシークエンス全体へ波及し、
自動化したプレーの組織化のモードが反省的にフィードバックされる。

このとき第三のクロックが指定する組織化の地平とは別の、
未知の組織化の地平が予感され、その可能性が探索され始める。

あるいはクロックのコマンドを裏切り、いつもとちがうように動いてみる――
すると同じようにフィードバックが起こり、修正のコマンドが走る。

混入したノイズは時間座標をランダムなゆらぎへ導き、
これがプレーヤーにフィードバックされ、
新たなプレーの組織化の地平、その可能性のスキマが開かれていく。

 

 

コメント

「津軽じょんがら節 /上妻宏光」

2013-12-12 | 参照


                  ただ時により事に應じて、感情徳を現はすべしとなり。
                  方便の愚は正、無方便の智は邪、といへり。
                  聖人には心なし、人の心を心とす。聖人には言葉なし、人の言葉を言葉とす。

                                                ――心敬『さゝめごと』

 

 

コメント

「おぼくり ええうみ/ 朝崎郁恵」

2013-12-11 | 参照

           

                     

               

            

      暗きより暗き道にぞ入りぬべき はるかに照らせ山の端の月    和泉式部『拾遺』

 

 

 

 

 

コメント

「狂風のシグナル」2013

2013-12-10 | Weblog


           ――河本英夫『システム現象学― オートポイエーシスの第四領域』

            内在的生は、基本的に生成関係にかかわるはずである。
            だが生成関係での事態の解明は、基礎づけ関係とは本来なんの関連もない。
            というのも、どのように基礎づけ関係を明示しようとも、必要とされているのは、
            形成運動を行なう回路を現実に探り当てることであって、
            根拠からの配置で事態を説明することではないからである。

            ことがらを経験できないものは、情報として配置することしかできない。
            この場面で行為と知とがまったく疎遠になり、いっさいの経験の動きのない、
            わかった風な言葉だけが夥しく発話されるだけになる。
            体験的行為と結びついていない言葉は、ただちにたんなる立場へと転化する。

 


回帰すべき場所はどこか
めがけるべき未来はどこか

話は、じつは単純さ
そんなものはどこにもありえないのさ

なにもないということがすべての背景だ
なにもないガランドウというわけさ

なにもないという、この朗らかな真実が
俺たちの本当のふるさというわけさ

いったいどういうことかわかるか

この上ない風通しのよさにおいて
鼻歌がよく響くということさ

この清らかな真実において
なつかしさの原郷が広がっている

無-意味、無-価値、偶然の戯れ
おお、木の葉のように
風に吹き飛ばされる存在の心もとなさよ

それはただ、意味を求める弱虫の人間たちが分泌する
固有の感情だけに由来している

「本当か!」

然り。本源において
拝跪すべきどんな存在も絵空事である

みずからを捧げるべき
どんな対象も理由も意味をもたない

その了解の果てに
ガランドウには気もちのいい風が吹き抜ける

愛する理由はいらない
憎む理由もいらない

いつも、すでに、あらゆる場所で
それは、ただ訪れる

「本当にそうか!」

然り。それが俺たちの生の核心だ
訪れの疑えなさにおいて
そして、その未規定性において

いつも、すでに俺たちは
ガランドウのなかを歩いている

回帰を拒むことにおいて
未来を語らないことにおいて
ふるさとは清らかに保ちつづられていく

「この酷薄さに堪えられるか!」

然り。ブタだけが愛を語り、倫理を語り、善を語る
カバだけが正義について、未来について僭称する

愛も倫理も善も正義も未来もただ生きられるだけで
語ることで生まれたことも生まれてくることもない

ただ生きられることの延長において
未規定の現在が一つの必然に転位していく

「拝跪する感情もそうではないか!」

然らず。されど倒錯された必然
ヘンタイとしての人間の歴史があり
そのエサは至るところに撒き散らされている

だれかが、みんなが、そうするという理由だけで
だれかが、みんなが、そうしないという理由だけで
一人の人間はみずからの生存を瓦解させることができる

その恐怖に堪えきれず
人間は目をつむり
おのれならざる「なにか」に向かって跳躍する

エサは撒かれる
ブタはすり寄る
ブタは喰らう
ブタは丸々と肥る

おもうツボで
仕上げは人間のとんかつだ

「それを喰らうのはだれだ!」

共喰いさ。エサはどんな形にでも変幻する
Aに代入されるB、Bに代入されるC

無限に変幻するとんかつゲームにおいて
その中心はいつも空虚である

いつみても、どこをみても
差し押さえを喰らいながら
空虚なゲームが展開していく

このありえなさにおいて
人間のふるさとには固有の陰影が加えられる

ブタのエサは至るところに溢れている
振りかえればいつも
だれかが据膳して待っていることだろう

平和とはいえないな
ツラの皮を厚くしながら
文化が序列を配して卑俗を見下している
そういう定式が出来上がっているということさ

ブタ主義、カバ主義がまかり通る土地柄だ
自然は受けつけないシロモノということさ
どん詰りには逆上だけが待っていることだろう
崩壊は必然だろうよ

正義と正気を語る者たちが
全体において狂った算段で裁きを繰り返す
その基本は不信ということだろう

裸体のむせびがすり替えられたということさ
微笑めばなにかが返ってくると
どうもそういう仕掛けになっているらしい

わかっていただきたい紳士たち
かなえていただきたい淑女たち
そして、わたしにおまかせなさいの頓馬たち

この凸と凹のコンビネーションが
いつも同じ風景を構成している

絶えずなにかを拝んでイノチをすり減らす者と
絶えずエサを撒いてイノチをかすめとる者と
時に応じて攻守入れ替わりながら
死の種を配分しあっていく

そうした常套に制御された土地の光景が
ガランドウには鮮やかに映し出されている

愛の裏側。平和の裏側。正義の裏側。戦争の裏側。

閉ざされた視覚に支配された
みせかけの安寧とみせかけの争いの外に
ぐつぐつと燃え盛る紅蓮の炎が見える

「だれがそれを見ているんだ!」

貴様が見ろ。ガランドウの先に
大地を焦がし、空を染め上げ
いつも冷たい灼熱が舞っている

訪れるものはいつも
俺たちの存在を迅速に染め上げていく

まなざしが交叉すると
電撃が走り
なにかが壊れ
なにかが点火する

押し寄せる情動の高波に耐え切れずに
こころは結界を破られる

「おお」

愛なのか憎悪なのか
正体を確かめるまえに
俺たちにはいつも届いていた

エネルギーの凝集において
愛も憎悪も一つの感化にほかならなかった

求めることにおいて
求めないことにおいて

高鳴る心臓の拍動は
いつも同じ強度を刻んでいく

俺たちをいま照らすものが
希望なのか絶望なのか

こころは問うより早く
新たな結界を生き始めていく

俺たちは希望を決断して希望することはできない
俺たちは絶望を企画して絶望することはできない

俺たちの心臓に近接した場所に
俺たちの生の前線があり

絶対の速度においてそれは
俺たちの現在を照らしていく

善人であることも悪人であることも
知っていることも知らないことも

俺たちは俺たちの前線を決して追い越すことはできず
俺たちはそれを追いかけることだけができるだけた

俺という存在は俺という生の前線から
俺において事後的に抽出され
俺の思惑をこえて俺自身を生き抜いていく 

聞こえるものは頌歌なのか悲歌なのか
未来へ向かうのか過去へ向かうのか 
欲望としてか献身としてか

俺たちはほんとうは
なにも答える必要がなかった

俺たちはいつも生の前線から
俺たち自身を告げられ

すべての時制が織り上げる
未決の現在へ誘われていく

俺たちは世界への着生を告げられ
生存の可能性と危機が同時に開かれる

いまを灼熱の光で焦がしつづけている
永遠に未踏の清らかなふるさとがある

俺たちにとっていつもそこが
新たな結界への入り口をつくっている

そして、そのことをただ知ること
事実を事実として受けいれることにおいて
なつかしいふるさとの地平が開かれ――
終わることのない意志が立ち上がっていく

 

コメント

「SOCCER 13 ~ ゲーム価値」

2013-12-07 | Weblog


             ゲーム一般に対する信頼、そしてサッカーの普遍的な価値は、
             ゲームの展開に一喜一憂するゲーム当事者とは別の視線――、
              ゲームの外からゲームを見守る視線によって支えられている。

             ピッチ上のゲームがフェアに展開するためには、
             ゲーム展開を外からチェックし、その逸脱の修正を促す、
             いわば脱ゲーム的なまなざしと理念を必要とする。

             この脱ゲーム的まなざしと理念は、特定の集権的存在というより、
                            ゲームそして特定の集権的な権威の形成に先行して存在する、
             ゲームを永続的に享受したいと願うすべての人びとの集合的合意――、
             いわば「一般意志」(ルソー)として抽出することができる。

             ゲームとゲームの価値は、ゲームを創発し、
             ゲームに先行して持続している意志が支えている。

              ピッチ上のゲームがフェアに展開し、健全に享受されつづけるとき、
              「敵/味」というチーム対抗的なまなざしとは別に、
              脱ゲーム的なサッカーのまなざしと理念=一般意志が作動している。

              サッカーそのものに、サッカーを記述する動機は存在しない。
              サッカーの本質を記述し、新たなゲームを開く力は、サッカーの外側から訪れる。
              そのことは、シンプルな一つの命題によって記述される。

              サッカーは楽しい――

              サッカーを愛する人びとはいつも、言葉が担うメッセージとして、
              暗黙のメタ・メッセージとして、そのことを交換しあっている。

 

コメント

「Poem INVICTUS、 ネルソン・マンデラ」

2013-12-06 | 参照


               Out of the night that covers me,
               Black as the pit from pole to pole,
               I thank whatever gods maybe
               For my unconquerable soul.       ――William Ernest Henley  

 
                              As I walked out the door toward the gate
                              that would lead to my freedom,
                              I knew if I didn't leave my bitterness and hatred behind,
                              I'd still be in prison.    
                                                                   ――Nelson Mandela


 

コメント

「メタファーの用法」

2013-12-04 | Weblog


        「空を飛ぶ鳥の航跡を数式で近似的に表すことはできますが、それは鳥ではない」
        「まあね」
        「チョコレートは愛ではない。愛という言葉も、愛ではない」
        「うん」
        「世界という言葉は、世界ではない」
        「御意」
        「ところが人間の世界では、愛のブーケが愛そのものだという信憑が生きられる」
        「よく使われる」
        「葡萄酒とパンは、キリストの血と肉ではない」
        「当然」
        「ところが葡萄酒とパンをないがしろにすると、ひどい罰が下ることも起こる」
        「昔の話ね」
        「進行中です。しかも頻繁に」
        「どこで?」
        「例えば、国歌斉唱を怠ると、愛国が足りないとみなされる」
        「国旗を燃やすと血をみることもある」
        「そう」
        「なにが言いたいの?」
        「この種の倒錯が嵩じて、つまり観念が現実を支配しはじめるとシステムが歪みます」
        「システムって?」
        「生命というシステム」
        「それが人間という生き物の現実でしょ。もともと歪んでいる」
        「そう。それゆえ相互的全否定や、総破壊的な悲劇もくりかえされる」
        「そういう特性を否定するの?」
        「否定しません。できないし」
        「じゃあ」
        「同時に、人間が創りうる豊かさの源泉であり、ファンタジーの源泉でもある」
        「でしょ」
        「しかしこの特性が権力側で独占的に極まると、システムエラーが深刻化して危険です」
        「どうして」
        「シンボル操作がめちゃくちゃ恣意的になり、妄想が一人歩きします」
        「いまそうなってる?」
        「このことを一人の人間の在り方として考え、そこから演繹してみてください」
        「具体的には?」
        「デモをテロという。コンテキストが壊れて、メタファーの錯乱が起きている」
        「病んでいるわけか」
        「重篤です。緊急に軌道修正しないといけない」
        「どうやって治せばいい?」
        「排除や隔離と別に、治すとすればケアが必要といわれている」
        「ケアって」
        「病気の自覚のない人間には、自覚をもってもらう必要がある。それが第一」
        「とんでもなく難しいな」
        「うん。メタファーの健全な活用には、原則があります」
        「どうぞ」
        「メタファーが、どんなコンテキストで使われているか未規定ならカオスを招く」」
        「たとえば?」
        「一例ね。―なの花が月のでんきをつけました―これは、小学校2年の女の子の俳句です」
        「いいね。夕ぐれの菜の花畑があざやかに目に浮かぶ」
        「仮に、この句から俳句というコンテキストをはぎ取ると、この子は気が狂ってるかもという見方もないではない」
        「まあね。いきなり言われて戸惑う人間もゼロじゃないかも」
        「しかしこの言葉には〝コレハ俳句ダ〟というメタ・メッセージが貼りついて、きちんとコンテキストを指定している」
        「傑作だとちゃんと評価できる」
        「そう。こうしたメタ・メッセージがコンテキストを定め、メタファーのやりとりが健全に保たれる」
        「それがないわけね」
        「要するに、メタ・メッセージを交換するメタ・コミュニケーションが、作り手と受け手の間に成立している」
        「それが消えてる」
        「はじめから対話をするつもりがないようにみえる。トンデモ解釈が堂々まかり通っている」
        「聞く耳もたぬ唯我独尊。ご本人は日本で一番の強者のつもりなのかな」
        「はい」
        「バカ?」
        「否定はしません」
        「要するに、民主主義というコミュニケーションのコンテキストが為政者の中から消えているわけね」
        「きれいに消滅しています」
        「深刻だね。もともとないのかな」
        「かもしれない。生まれてからずっと、国民とは別のコンテキストを生きている可能性がある」
        「権益かな。家業、商売としての政治とか」
        「その線が大きい。権益追求のツールとして、民主主義の基本単語をちょっとは齧った」
        「じゃあ、病気じゃないね。確信犯なら」
        「だけど病気だと思います」
        「なぜ?」
        「例えば、詩人は既知のコンテキストを一時的にカオス化して、誰も知らないコンテキストを創発する」
        「うん」
        「そして、コミュニケーションのステージに着地して、きちんと帰還できる」
        「いったん離脱しても、ランディングサイトが見えているわけね」
        「かの人びとにとって、いまや帰還できる場所はどこにもない」
        「デモをテロと呼んだのは、狂っているからか」
        「妄想とカオスがおつむを浸食しています」
        「う~ん」
        「テロと発言することの収支計算ができていない。明らかです」
        「収支計算できるほど立派な悪党ではないわけね」
        「悲鳴が聴こえます」
        「追い詰められているわけか」
        「ストッパーが外れて、自分が何しているか、どっち向いてるか見えなくなってる」
        「破滅的なランナウエイに向かっている」
        「スーパーエゴの指令、という誇大妄想もあります」
        「アメリカね」
        「そう」
        「それで、ケアの方法は?」
        「わからない。アル中なら、行くところまで行ってもらうという方法もある」
        「いいの?」
        「いずれにせよ、彼らの方法には未来はない」
        「被害は甚大かもよ」
        「メタファーの遊び場をキープすることです」
        「どういうこと」
        「同じことですが、ランディングサイトを大切にする」
        「はあ」
        「結果として、テロと呼ぶみなさんの悲鳴を拡大させ、内部崩壊の強力な手助けをする」
        「うん」
        「そのためにはこちら側の自覚と意志がポイントになる。一緒に狂ってしまわないためにね」

 


 

コメント

「短い弧~目的合理性」(参)

2013-12-02 | 参照


                   芸術、夢、その他の現象から孤立した、
                   単なる目的合理的性は必然的に病的であり、
                   生に対して破壊的であるということ、
                   そしてその破壊性の源は、
                   生というものが意のままにならぬ回路の
                   システマティックな合体のうえに成り立っているのに対し、
                   意識はそれらの回路のうち、人間の目的心が誘うことのできる
                   短い弧の部分しかとらえることができないところにある、
                   というのが私の論点である。

                ――G・ベイトソン「原始芸術のスタイル、グレイス、インフォメーション」佐藤他訳

 

コメント