ASAKA通信

ノンジャンル。2006年6月6日スタート。

「YELL」 20200831

2020-08-31 | Weblog

 

ことばは遠いかもしれない

「知らないな」

見たことも聞いたことも
ましてや触れたことなんかない

そうあなたは言うかもしれない

遠いことばのまま
ひとつだけ伝えたいことがある

「光源はこちら側にある」

求めても求めなくても
言い聞かせても言い聞かせなくても
心はつねに〝世界〟をスケッチしている

世界を色づけ、世界の姿を浮かび上がらせる
ひとりの生、ひとりひとりの心に現象する
この世に、ただひとつの光源として

心のカーソルは光をたずさえ、思うよりはやく
すでに駆け出し、世界を描き出していく

世界がこっちを照らすのではない
光の源は向こう側には存在しない

季節を悲しむ心、呪いたい心
それはただあなたの心だけに現象する

自然は関知しない、社会も関知しない
関知しないものの側に
あなたの生を決める権利は存在しない

すべてのはじまりの場所を離れないでいること

離れないでいることで、外から訪れる理不尽な記述に
ぼくたちは「NO」と迎え撃つ拠点を確保することができる

すべてはそこでだけ、描かれ、修正され
よりステキだと思える世界の姿へかたちを整えていく
この世に、ただひとつの光の源において

 

 

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「スキマを開く」 20200830

2020-08-30 | Weblog

 

「人生はつくるものだ、とANGOは言った」
「あたりまえじゃん」
「そうだけど、ちゃんと言うとね、そのまえにやるべきことがある」
「なに?」
「まずは壊す作業がいる。いったんチャラにしてからはじめる」
「壊すって何を?」
「身に付いた常識や通念とか、世の中が疑わない価値観とか。じぶんのなかでね」
「なぜ?」
「つくる方向をまちがわないために」
「よくわからない」
「ちょっと考えてみようか」
「いいけど」

 

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「セッション」 20200829

2020-08-29 | Weblog

 

あとから聴こえてくることがある
心を襲う時間差攻撃

セッションは起きていた
意識することなく、そのつもりはなく

ふいに、気づきが与えられ
こみあげるように告げられる

聴かれないかぎり、ただ消え去るだけ
はじめからなかったもののように

ひとりでは奏でらない〝音楽〟
二重奏、二重記述

スコアに書き留められない
どちらにも属さない無音の旋律

季節が重なり
多重の記述へと変位していく

二度と起こらないものが
二度と起こらないものとして

新たな音を響かせ、かたちのないスコアを更新していく

   *

セッションが奏でる音は
個と個の外に鳴り響く

きみは何者か、そう問うことで演奏の腕は止まり
プレーは別のプレーへと移行する

セッションの原則を踏み外せば音は消える

プレーヤーはみずからを超え出るように
それを聴き、奏であい、セッションを生きている

幸せなセッションが生きられるように

問うこと、語ることがノイズとして混じらないように
守っておくべきセッションのコードがある

 

 

 

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「2020夏」 20200828

2020-08-28 | Weblog

                   https://www.youtube.com/watch?v=yZruvVBARO0

       *

  空ぶりのバットのむこうにいわし雲   (小四男子『現代こども俳句歳時記』)

        *

バッターボックスの中で、一人の少年は夕暮れの光景に見とれていた。
「おい、試合に集中しろ」。コーチの怒鳴る声がした。
 少年はビクッとしたがすでにピッチャーは振りかぶっていた。

ベンチに戻っても三振した恥ずかしさが消えなかったが、
いわし雲の浮かんだ夕焼け空はすごくきれいだった。
夢はプロ野球選手だが、からだは自然が投げるシグナルにも応答する。

生命の創発に沸き立つ少年のからだの奥深くで、
世界が奏でる不協和音の調べが鳴り響いている。

プロの強打者になることを夢見る少年にとって、
野球は大切な世界の一部だがすべてではない。

     *

おとなの、親の、教師の、学校の、世間のバカが伝染らないように。
社会に、この世界に、差し押さえを喰らった生の時代を終わらせるように。

ひとりの生が、ひとりひとりにおいて生きられるように。
たたかうべき相手(本質)をまちがわないようにしよう。

そのためには既存のどんなゲームともちがう、
新しいゲームの発見と合意だけがそのことを可能にする。

 

 

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「関係企投、関係のエロス」 20200828

2020-08-28 | Weblog

 

世界生成のただ一つの場所としての実存における関係企投。

本源的に、関係対象のもつ生成性に向けてまなざしをフォーカスさせている可能性。

〝この相手!〟という選択性、指定性が定められる基底には、
相互の生成性をかけ合わせる二重記述をとおして、
新たな世界生成と生の享受可能性の拡張をめがける予期が潜在している。

すなわち、関係のエロスとして予期が立ち上がるとき、
〝この相手〟という選択において湧き立つ二重記述の可能性が直観されている。

たとえば、生殖──身体物理的な二重記述への本源的誘因、性としての人間。
新たな存在の生成に向かう二重記述への欲望の絶対的衝迫性。

二重記述──そこに開かれる〝第三の視覚(位相)〟。

〝あの人ではなく、この人〟という動かしがたい選択性、指定性。
その抗いがたい誘因において、沸き立つ実存の関係欲望の本質、その絶対性。

二重記述、すなわち関係することで拡張し、豊饒化し、肥沃化し、
生成的に立ち上がる新たな「ありうる(存在可能)」への予期。

こうした生の展開可能性への動かしがたい直観が、
関係世界における〝関係可能〟に絶えず実存のまなざしを凝視させている。

 

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「社会体を生きる」 20200827

2020-08-27 | Weblog

 

     *

記述の体系としての一つの社会体、共同世界。
個と個を結び合わせる関係項、確定されたことばがそこにはあふれる。

しかし社会体が用意し、個に示す確定項の系によって、
人間的生の全域が記述されつくされることありえない。

──子は母を生むことができない

記述されないものへの感知から新たな創発への予期が立ち上がる。
この領域へのまなざしを失うとき、
世界は一般解、確定された記述命題で埋め尽くされることになる。

一般解、記述命題によって埋め尽くそうとする関係世界。
もちろんそのことにもたしかな理由と根拠がある。

しかしこの理由と根拠には、ひとつの留保が必要である。
合意と承認──そのことの意志と自覚がなければすべては自明化し、
動かせない前提として心深く沈められていく。

すなわち、完全記述、〝全問正解〟を僭称する社会的構成の屹立。

現実論理の本質──現実の一つの局相を絶対性として切り取る世界記述の一形式。
社会体を生きるかぎり、社会体が用意した記述の系について学び、身につけることは、
人間がつくるゲーム世界を生きるプレーヤーとして必須の条件を構成する。

しかしそれがすべてではない。
記述の可変性、変化しうることのうちなる根拠を見失うとき、
リアルを構成する一切は確定されていく──現実論理の泥沼

意識的判断がどうであれ、そのことに内なる Backstegeは耐えることができない。
Backstageの内なる声を素直に受けとめるとき、ある種の〝倫理〟が立ち上がる。

絶対性を帯びてつねに確定記述、世界像の確定項へ向かおうとするものに対して、
つねに記述の書き換え可能性「ありうる」を見失わずに確保するには、
人間的価値の生成性の起源、人間的実存の本質へのまなざしを必要とする。

このまなざしの本質を知ることは、すなわち記述を確定させないという内的〝倫理〟と一つでありうる。

「記述のスペースを開けとけ」

あるいは、

「スキマがないと死ぬ」

 

 

 

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「1994 キレイな月が」 20200826

2020-08-26 | Weblog

 

月が出ているよ、と身近なだれかがいう
久しぶりに月をみたような気がする、とあなたが応える

意味をもちながら意味をもたない
ただ言葉を交換することだけが何かであるような
風景の隙間に織り込まれたかそけきひととき

「どこかで同じ月を見ているだれかがいる」

はるかな祖霊たちにつながる
なつかしい記憶の感触に付き添われ

だまし絵のように
あなたの輪郭を曖昧にぼかし

風景との境界を消し去るように
秘蹟のように現象した刹那の時間

    *

ニンゲンとニンゲンの闘争と
その帰結としての蓋然的な和解や憎悪があり

だれもがその道で演じる非情や計略や
一切が勝敗へと換算されるゼニやもろもろをめぐるせめぎあいがあり
駆け引きがありつづけた

それはコスモスの本質の顕現において
必然化された絶対の関係性として
ニンゲンの歴史の運行と存続にかかわる
究極のガバナンスに准じるものであったのか

はたしてそれらすべての営みたちが
最後の最後に欲しがったものが何であったのか

    *

キレイな月は前触れなく
ニンゲンを訪れ

不可触の光とこころがまじわる
世界のもう一つの所在を告げた

消えゆく時間のあわいに
ただ一方的な訪れとしてだけ
許された偶然の邂逅

そしてその訪れの回数だけ
光のカケラを積み上げられた

さらにもう一つの光景が
静かにあなたを呼んでいた

 

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「自由について」 20200825

2020-08-25 | Weblog

 

「自由は壊れやすく、失われやすい。自由には使わない自由もある。
予備の、未使用の自由の領域。この領域は無限の広がりがある」
「使わない自由かあ」
「世界のカタチや生き方を固定すると、自ら可能性を捨てることにもなる」
「他人にもそれを求めたり、強制したりとか」
「そう」
「なぜだろう」
「ひとまず現状で安心とか、変化することの不安や恐れもある」
「面倒くさいとか?」
「面倒と感じるか、楽しいと感じるか。面倒と感じる人間が多い社会なら変化は起きにくい。
現状維持で、可動域を限定する方向に動く」
「自由が消えて、可動域が固定されるとロボットに近づいていく?」
「うん。もう一つあるかな。
自由ということの本質を知るには、自由を行使して生きる経験が必要だと思う。
未使用、未経験のままじゃ、ほんとうの価値や意味がわからない、絵に描いた餅になる」

 

 

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「Backstage、セッション」 20200824

2020-08-24 | Weblog

 

わかること知ることと世界が一致すると、世界はやせていく。

理解のポケットに世界を収めてしまうと消えてしまう生成的位相がある。
ある一つの世界記述「世界はAである」が刈り込み、回収しつくす世界像、
あるいは「果実(パイ)の有限性」をめぐる競合ゲームが決して教えない、
もう一つの生の位相がわれわれには配備されている。

ある特定の意味、価値の確認、認証ではない。
価値的、意味的な収束点、世界記述の一致点へ向かう関係行為ではありえない。

有限な果実(パイ)を分配すること、あるいは分かち合うことでもない。
競いあい奪いあって雌雄を決することではさらさらない。

相互にリンクを伸ばして、結ばれ、一体化することでもない。

うちなるBackstageがほんとうに望んでいるのは、
世界を「crystal」のように完結させることではありえない。

そこには「無限性」にかかわる感受性が動いている。
歌えば歌うほど、踊れば踊るほど、果実の種子が蒔かれる。

費やせば費やすほど、使えば使うほど、蕩尽すればするほど、
与えれば与えるほど、歌うほど、踊るほどに、
新たな果実が受胎し、芽吹き、沸き立ち、拡張し展開する人間的生の位相がある。

「それより一緒に踊りませんか?」

そう切り返され、うちなるBackstageが反応する。
相互の非知性、未知性を資源として与えあう位相、
新たな多重記述へ誘う、未規定性へ開かれたセッションへ。

 

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「nineteen、舟歌」 20200823

2020-08-23 | Weblog

                                                                         https://www.youtube.com/watch?v=RI9sXe_eI7I

 

「現実を知れ」と諭したおとなたちは、
現実を出力する人間世界の背景についてはほとんど無知にみえた。

あるいは「現実」と呼ばれるものから逆算するように
みずからの人生を規定し、ほかの人間にもそれを求めているようにみえた。

「単純な写実をめざすなら地球に表紙をつければそれで済む」
そうつぶやいた男がショパンを天才だと語った。

そして、そのまぎれのない証明として〝舟歌〟を聴いた。
それはいつでも帰還すべき場所を照らすもののように思えた。

 

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「時間」 20200822

2020-08-22 | Weblog

                                                                              '(細田守監督『時をかける少女』)

 

                 https://www.youtube.com/watch?v=vC0Qt1lvLq8

 

現在が考える「過去」、現在が考える「現在」、現在が考える「未来」
すべての時制は「いま、ここ」において現象している。

われわれのうちなるBackstageは、時制を分泌し
世界を時間化することでみずからの経験を構成している。

願っても願わなくても「時間」は構成される。
そしてすべての時制は〝情動に濡れている〟。

後悔、希望、なつかしさ、よろこび、いかり、かなしみ。
多色の情動と溶け合うように時間は経験を彩り、変移していく。

われわれが生きる時間には、もう一つの位相がある。
「客観的時間」、すなわち多重の時間記述から生成する関係項としての時間。

線形的に単位化され、配列され、情動とリンクを外れ、
無機的に、デジタルに、「過去-現在-未来」を刻む〝時〟。

実存における時間、客観としての時間──人間的時間は、かくして二重化され、
ふたつの時間の共同、せめぎあい、弁証法的展開として動いていく。

固有の生という人間的実存のあり方が必然的に生成する時間。
そして、集合的営みが要請し、共同化された二次的生成としての時間。

集合的営みを可能にする二次的生成物としての「客観的時間」。
客観的時間を参照項として、その規定性を受け入れることで、
集合的ゲームのプレーヤーとなること。

みずからの生の主体性を失わないでいるためには、
つねに、「客観的時間」の規定性をいったん解除して、
時間の生成的本質を捉える視線、原理的思考を確保しておく必要がある。

なんのためにか?

客観的時間が人間的生の全域を埋め尽くすとき、
われわれは時間のみならず、世界経験の本質から外れ、
「個」としての独立性を見失うことになる。

 

 

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「みんなの学校」 20200821  2013

2020-08-21 | Weblog

 

ピッピッピッピッと分列行進の笛の音が頭の中で鳴っています。

実直で折り目正しい小国民を輩出しつづけた伝統のドリルは、
若い世代の再生産メソッドとして大切に受け継がれてきました。

   「隊列を乱してはいけません」

イヤでイヤで仕方がない心の悲鳴を打ち消しながら、
〝気をつけ〟の姿勢のままオトナになってしまう子どもがいます。

成長のための大事なエクササイズだと真面目に信じながら、
 〝全体止まれ〟の獅子吼に魂を抜かれてしまう子どももいます。

   「これからは個性を育む教育が大事です」

じぶんが何を語っているのか本当はわからないままセンセイたちは、
伝言ゲームに似た上意下達の言葉を子どもたちに浴びせました。

誰が信じているかわからないコードを懸命に埋め込むように、
センセイはこわもての顔を作って一杯笛を鳴らしたのでした。

   「みんなちがってみんないい」

ちがっていいと同じがいいという相矛盾するメッセージが、
同等のレベルで語られると子どもの心は引き裂かれます。

引き裂かれた心は出口を求めて探索を開始しますが、
行進ドリルの現実は列から外れることを許しません。

   「いま笑ったヤツ、一歩前に出ろ!」

脳ミソに分列行進のアンカーが埋め込まれるのでしょうか。
心臓がドキンと鳴ってからだがピクピクッと反応します。

〝進め、止まれ〟の号令で校庭を一周二周と行進するごとに、
精神の淵をアンカーは深く深く降りていくようです。

   「あの子がいると列が乱れる」

沈んだアンカーはやがて子供たちの関係にも割って入ります。
センセイ不在でも機能するよう行進のコードは身体化します。

より深くアンカーを沈めて行進スキルに習熟した子供たちは、
隊列の順位を上昇して次世代のセンセイとして選抜されます。

   「全体駆け足、はじめ!」

うまく行進に参加できない子供たちは一人夜空を見上げたり、
語られることのない詩の世界を開いて自らを守ったりします。

伝統の行進ドリルに記述されたコードやプログラムでは、
魂の動き回るスペースとして狭すぎると感じるからです。

もう充分ですね。

どうころんでも結果はみえているようです。
疲れきった街、ひとびとの姿、すさんだ人と人の関係
いろいろなことがそのことを示しています。

〝詩の世界〟はだんだんと失われつつあります。
ぼくたちがいつでも帰還できる生きてゆくための拠点
その光景、スペースはどんどん過疎化し消えようとしている。

ぼくたちはなぜか立ち止まって空を見上げます。
わけもなく懐かしさの感情がそこに由来するからでしょうか。
自然の広がりのなかに、ほんとうのふるさとを告げられるからでしょうか。

青い空、流れる雲、月明かり、星のきらめき、風と光のささやき
ことばが教えるより先にぼくたちの心は動いていきます

なぜか目をそらすことが難しいシグナルがそこに明滅する
かたちのない、けれどだれもがそこに何かを探している
なにか、この世の〝ほんとうの幸い〟がひそんでいる
そんなまぼろしを感じるからでしょうか

レンゲ畑で大の字に寝転がったり
草笛を吹いて春の小道を一緒に歩いたり

ゆらぎ、まよい、ためらい、立ち止まり
笑い、悲しみ、そうした自分を何度もふりかえりながら

トンボを捕まえたり、石ころを蹴ったり、
河原の草をちぎって、鼻歌を歌い
冗談の出来を笑いあったりしながら
ゆっくり、楽しく歩いて行きましょう

外れて歩けばいい、ひとりでもいい
それがどうしたというのでしょう
隊列の外にはかぎりないシグナルが明滅しています

ただひとつのことがあたりまえのことになると
ひとつでないことがあたりまえのことでなくなる

ひとりで歩く、ふたりで歩く、みんなで歩く
道を外れて歩くことを笑わないようにしましょう
道草、寄り道、はぐれ道、そして、けもの道もある

たまには、いつでも、道草して帰りましょう
楽しく、おもしろく、ステップを踏んだりしながら

宮沢賢治先生ならそう言う気がします、きっと

 

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「関係のエコロジー」(参)

2020-08-20 | 参照

 

「ぶつかりあういくつかの存在が、
複雑な学習やコミュニケーションをなしうる有機体である場合には、
それらのシステム全体は、均一状態か体系的差異化に向けて
いずれにしてもより単純な方向へ-急速に変化する。
それはいわゆる組織化にほかならない」(G・ベイトソン「精神の生態学」佐藤訳)

「最低限必要なのは、われわれ自身の複雑さと相手のシステミックな複雑さとを認め、
二つが一緒になって、精神という共通のネットワークと必然としての神秘的要素とをたずさえた
ひとつの包括的システムをなしている可能性をさし示すような新しい見方である」
(G・ベイトソン『天使のおそれ』星川淳訳)

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「スキマを開く」 20200819

2020-08-19 | Weblog

                                  https://www.youtube.com/watch?v=PBRQmzGkJXs

 

あえて、ゆっくり、うごく──

忙しければ忙しいほど、あえてのんびり、ゆっくりと
急かされれば急かされるほど、あえてスキマを開くように

発車のベルがなっても小走りしない
思いついたら寄り道して帰ろう

決められたコードとは別のコード進行がある
世界が示し指定する可動域を広げるように

閉じていく心とからだがみずから分泌する処方箋
不安、あせり、いらだち、怒り、自責する心

けれど、どんなに迅速に展開する状況のなかにあっても
プレーとプレーのつなぎ目は存在する

切れ目のないようにみえる生の時間のなかにも
経験をトレースするまなざしはキープされている

ここにあるものは、つねに、ここにないものと連れ立っている
存在可能──すべては生がたずさえる空隙、スキマにおいて現象する

転換、転位、修正、書き換えが現象する内なる聖域
生の展開可能性をみずから見失わないように

 

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「あおぞら侍」 20200818

2020-08-18 | Weblog

       ──れん姫(『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ アッパレ!戦国大合戦』)


教える──ほんとうはそんな偉そうなことじゃない。
けれど、知っておいたほうがいいことがある。蛇足かもしれない。

じじいでも、ばばでも、赤ん坊と一線に並ぶ。
そんなことがある。
生きることの主題は〝わたしにとって〟それぞれに等しく現われている。

「きょう、いま、あす、どう生きるか」

言い直したほうがいいかもしれない。

「どう迎え撃ち、どう生きるか」

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