「問い」をたずさえながら
おとなは試されている。幼い子どもとの付き合いの中で、いつも実感させられたことです。そして子どもとの付き合いから学んだことも少なからずあります。
「なに」「なぜ」「どうしたら」。子どもは無数の固有の問いをたずさえながら生きている。世界の不思議さ、わからなさは、そのままみずからの生きるかまえのわからなさ、不安でもあり夢や希望でもあるような〝未決状態〟の毎日を生き抜いているとも言えるかもしれません。そして、次々に沸き上がるさまざまな問いにみずから〝回答〟を探しながら書き込んでゆくプロセス、それが成長であり、広い意味での学びということかもしれません。
かつて読んだ本の次のような一節が浮かびます。「子供たちは、我々以上に、表層の生活と深層の生活とを合わせもっているものだ。表層の生活はごく単純だ。なにがしかの規律で片がつく。だが、この世に送り出された子供の深層の生活は、創られたばかりの世界が奏でる不協和音の調べだ。子供は一日一日と、地上の悲しさ美しさをひとつ残らず、その世界に納めていかねばならぬ。それは内なる生命が払う巨大な労苦だ」(L=F・セリーヌ『ゼンメルヴァイスの生涯と業績』菅谷暁訳)
子どもの日々の生活の本質に触れる言葉と言えるかもしれません。しかし「巨大な労苦」でもあるけれど、同時に「歓び」でもありうる。いまではそんなふうに感じます。
常識=全問正解ではない
子どもが抱く問いに対する〝回答〟は、一面では世の中にあふれています。少し飛躍していえば、歴史的におとなたちが積みあげたさしあたりの〝回答〟の集積としての現在の社会がある。そしてこの社会に適応して生きていくかぎり、社会が提示するさまざまな〝回答〟を学んでいかなくてはいけない。常識、通念、モラル、倫理、さまざまなルール、そして複雑な社会のしくみについて、身につけるべき学習メニューはあふれています。しかし子どもの固有の問いに向かいあうことで、おとなとしてとても大事だと思える反省が働きます。
それは一言でいえば、子どもが抱く純粋な問いのすべてに対して、この社会が「全問正解」を用意しているわけではないということです。無視されたままの問いや筋ちがいの〝回答〟もあるにちがいありません。さらに広げていえば、おとな自身も自ら抱く問いに対する「全問正解の社会」を生きているわけではない。いまだ解の見出されない問い、問われざる問い、放置されたままの問いとともに生きている。
礼を尽してバトンを渡す
そして次の世代へ託される難しい課題もたくさんあります。自分たちで答えられなかった問いに答えてもらう、そのリレー先としての子どもという存在。そのように考えることもできそうです。
その意味でおとなのふるまい方として、すべてわかった風な、したり顔して子どもに接するのではなく、自分たちで答えられなかった難問を託す相手として、子どもには礼を尽くして接する必要があるだろうとも思います。
そのために次のことが大事かなと思います。第一には、みずから考える力を子どもから奪わないこと。おとなが用意した「解」やその解法の学習とは別の、みずから立てた固有の問いを追究できるような学びの体験を積むこと。抽象的な言い方をすれば、子どものそれぞれの生の固有性を、一般性あるいは常識や通念で埋め尽くして台なしにしないこと、となるかもしれません。
「その次を教えて」と、答え以上におとなの応答そのものを求めるように子どもの問いは続きます。そんな時には「自分はどう思う?」と切り返すことも大事だろうなと思います。
もう一つは個性を社会の中でどう生かすか。「個性を大切にする」「みんなちがってみんないい」といったやや紋切り型の言葉があります。うつくしい言葉ですが、一人ひとりがちがうのは当たり前のこととして、そこからどうすれば「ちがう者」同士がそれぞれのちがいを生かしながら生きられるか。そのための生きる知恵や技術を実際の経験から学んでほしいなと思います。