現実言語の本質洞察が明らかにするのは、
発語(テクスト)とその了解の間の関係には
そもそも「正しい受け取り」(一致)ということ自体がありえないこと、
つまり、そこには正しい了解の「不可能性」(断絶)があるのではなく、
むしろただ、「信憑関係」だけが存在するということである。
──竹田青嗣『言語的思考へ』
もし小学生に戻るとしたら
正しい答え(解・真)をほのめかしながら
アクセスのヒントをちりばめ
面白おかしく、あれこれ寄り道しながら
みんなのフォーカスを一点(解・真)に集めていく
探偵小説みたいで、ゲームとしては面白いかもしれない
けれど、一つの解に閉じることで読みの多様なルートは消える
いくら面白くても生きることには役立たない読み方だと思う
そんなやりかたとは別の授業を受けたい
なぜそう思うかははっきりしている
解が一つならそこにたどりつく思考のルートは一つしかない
解を研き鍛え上げる契機がそこには存在しない
ひとりの教師が抱く理想、理念、ロマンと切り離された
ひとりひとりの意見、感想を自由に表明できるフリースペース
それを一番の価値として
考えもしなかった思考、感じたことのない感じ方に開かれた構え
ひとことでいえば相互の異質さを語り合い認め合う〝よい関係〟
それを身をもって経験し学びあえる教室、であればいい
*
正解(解釈)は一つではない
ほんとうに学ぶとは、第一に、それを知ることにあると思うな
ひとりひとり、感じるもの、よいとわるい、ほんとうとうそ
身につけた感受性のかたち、価値のかたちがあって
固有のしかたで世界を経験しているひとりひとりがいる
テキストを読むとはこの多様性に出会うことを意味する
ひとりひとりの感じるもの、考えるもの、価値のかたち
つまり自分の読み方をみんなに披歴して感想を出し合う
そこにテキストを読み合うことの大切な意味がある
けっして一つではない正解の多様性、多数性を生きている
テキストを読み合うことでそのことへの気づきを手に入れる
そのことをつぶさに知る、つぶさに目撃する場はかぎられている
かっこいい、ばかだな、かなしい、うれしい、かわいそう
たのしい、やめろ、すてき、きれい、きたない
じぶんとはちがうように世界を味わっている
ちがうリアルを生きているいろんな個性が目の前にいる
出会って知るためのレッスンとしてテキストを読みあう
読んで感じたものをコトバにして交換しあう
正解もまちがいもない、感じたまま、思うままを披露しあう
(否定はしないでまず受けとめる、それがこの場での共通のルールだ)
読んで湧き上がるものを臆することなく
それが許された数少ないレッスンの場、そんな学校であればいい
生まれてから身につけた感受性とは別の感じ方をつぶさに目撃する
そうしてはじめてじぶんが感じる世界を広げる手がかりをつかむ
大事な作法──敬意をもって相手の感受性を受けとめる
このことを同時に身につけるレッスンでもある
そうして得られるたいせつな報酬(ギフト)がある
感受性の翼を広げていくための新しい展開の地平の発見
みずからの存在可能、関係可能、「ありうる」への気づき
考えること感じることを表現しあい、他者と連結しながら
考えること感じることを拡張していく契機を手にする
つまり、自分のなかに多様性に満ちた世界を入れてゆく──
受け入れる容器をみずからにあつらえ、大きくしていく
ほんとうに学ぶということのなにより大事な目的がそこにある
数えきれない世界経験のしかたがあることについて
一つのテキストを読み合いコトバを交換することで認識していく
どれが一番の読み方かを決めるのではない
教訓を引き出すのは、二番目三番目のことにすぎない
その前に、なにより学ぶべき大切なことがある
いい直すとこうなると思う
一つの解(真理・正義)を求めてテキストを読み合うことではない
一つの解に向かおうとする求心性のちからをほどいて
じぶんとはちがう世界の読み方をして生きている異者に出会う
そして、世界に開かれていくみずからの遠心性のちからに気づく
このちからを我がものして生きていくためのレッスン
テキストをともに読み合うことが可能な場、関係がありうること
テキストを離れた場所でも展開可能になる思考の作法がある
そのことを深く心に刻んでゆくためのレッスンの場であればいい