───ベイトソン『精神と自然』佐藤良明訳
「すべての革新的、創造的システムは発散する。
逆に、予測可能な出来事の連続は、その予測可能性故に、収束する」
*
展開形の本質──「問い」の連続的生成、自明性から未決への企投的移行。
世界のあらゆる感知「われ感じる」は、つねにすでに、
新たな「ありうる」をめがける生の主題(欲望)に染まっている。
企投の連続的展開において、固有の世界分節の原理も生成的に変化していく。
未規定な展開が接続、連鎖しつづけるゲーム世界のなかで、
すべてのプレーヤーはファンタジーの出現を夢見ている。
ルールやゲームプランの地平を離陸するようにゲームは動いていく。
初期条件の規定性をくつがえす展開からゲームのエロスは生成する。
予測可能、規定可能なプレーシステムの内部で完結しないために、
明らかにしておかなければならないことがある。
「展開予測を裏切ることではじめてゲームの本質は顕現する」
*
インターミッション──プレーとプレーのつなぎ目に開かれる生成の原郷がある。
新たな〝発火〟が現象するために、その間、ゲーム世界は黙らせられなければならない。
ゲームの本質を知るプレーヤーは、世界を黙らせることを知っている。
もしゲーム世界自身がそのことを望むなら、みずから黙ることを学ばなければならない。
*
自然に刻印された淘汰の形式はシンプルである――創発の原郷を捨て去るだけでいい。
経験的に確定された戦略と情報の内部でしか動けないプレーヤーは、淘汰されていく。
「原因-結果」「刺激-反応」――線形的に記述される予測可能性の内部から、
新たなプレーイメージとプレーが産み出されることはない。
諸変数の処理は定型化され、プレーヤーの中で完結し、プレー生成の作動は停止する。
*
公理系における定理の発見、そしてその「正/誤」をめぐる議論に呑み込まれると、
公理系そのものの生成──ゲーム世界の生成性という本質を見失うことになる。
*
「可能-不可能」――既知の内部で思考が完結するとき、不可触の地平が確定され聖域化される。
思考と運動のパターンはフォーマット化し、プレーの出力は閾値内に収束していく。
聖域化された不可触の地平を破り、プレー生成の新たな地平が開かれなければならない。
予測可能性に埋め尽くされた内部に、不連続なゆらぎやノイズが導かれると同時に、
プレーヤーは自由エネルギーを解放するカオスを体験しなければならない。
定型的な運動と不連続のゆらぎが交わり、カオスが発生して閉じたループが破られる。
プレーを構成する無数のパーツはいったんシャッフルされて、新たな構成へ向かう――
プレーヤーに内在するポテンシャルの発露、解発の契機としてのカオスの体験がある。
カオスの出現と同時に可能と不可能の境界はゆらぎ、プレーは解体の危機を迎える。
聖域化した可能と不可能の境界のゆらぎ――それは未知の変数=「他者」によって導かれる。
「私」の統覚を不安定にし、予測可能性のフレームを破って動くもの、それが「他者」である。
他者との関係性、他者に対するかまえがプレーの本質を決定する。
対峙の相手として、しかし同時に、触発の資源として。
拘束として、しかし同時に、創発の契機として。
他者の認知と承認──可能なかぎり、多様で強靭な未知のプレーとプレーヤーに出会うこと。
そのことでファンタジーの出現をこの上ない高みにおいてめがけること。
「私」と「他者」のプレーは相互にせめぎあい、反照しあい、響きあう中から、
カオスのゆらぎが生成され、プレーを創発する非空間的な位相が開かれていく。
未知の未知性、他者の他者性、みずからにとって異質なプレーに開かれているとき、
それは同時に自己の未知性、自己の未知のプレーと出会うことを意味する。
カオスの体験は肯定され、資源として享受され、プレーの新たな可能性、
ゲーム身体の新たな存在可能、「ありうる」のエロスが立ち上がっていく。
ゲーム空間では「未発見の事実と絶えざる変化を受けいれる者が勝利者となる」――.
すべてのプレーヤーがゲームへ向かう彼岸には、ゲームに創発するファンタジーがある。
ファンタジーの出現に向かうとき、プレーヤーたちはいつも必ず「カオスの縁」を駆けている。