Boku No Sukina Sensei - YouTube
(おそらく1年坊主)
「こんにちは」
「こんにちは」
「きょうから学校なんだ」
「きのうから」
「まだ8月なのに?」
「運動会の練習がある」
「そうなんだ」
「何階ですか?」
「ありがとう。4階お願いします」
「学校楽しい?」
「こわい」
「こわい?」
「先生がこわい」
「そっか」
「うん」
「でも、そのうちいいこともあるよ」
「うん」
「じゃあね。さようなら」
「さようなら」
Boku No Sukina Sensei - YouTube
(おそらく1年坊主)
「こんにちは」
「こんにちは」
「きょうから学校なんだ」
「きのうから」
「まだ8月なのに?」
「運動会の練習がある」
「そうなんだ」
「何階ですか?」
「ありがとう。4階お願いします」
「学校楽しい?」
「こわい」
「こわい?」
「先生がこわい」
「そっか」
「うん」
「でも、そのうちいいこともあるよ」
「うん」
「じゃあね。さようなら」
「さようなら」
あなたはやさしく迎えてくれた
しあわせな時間がそこにあった
しかしチーム正義の一員ではないのです
(そうは見えなかったかもしれません)
理由ははっきりしている
ブリッジする契機が見当たらない
和気あいあいの陣地があって
嫌悪すべき陣地の外があって
愛すべき、尊敬すべき、お仲間である人間たちがいて
唾棄すべき、糾弾すべき、お仲間でない人間たちがいて
画然と分けられたソレとソレでない陣地と陣地がある
そう信じることなく信じられたとき
世界は煉獄の風景として開かれてゆくように見える
陣地内にとどまるかぎり、世界の区切りを保持するかぎり
ソレとソレでない陣地をわけるラインがあるかぎり
現実は生死を分ける戦線として構成され維持されることになる
それでは困るのです
どんなに美しい意匠、やさしい言葉に飾られても
あっちとこっちを前提に紡がれるローカルな言葉の群れ
自己完結した関係の快、関係のエロス、ロマネスク
わかりあえる水準だけでわかりあうだけのトンマたちに見えてしまう
あの詩人が夢見た〝広場〟はその外
ブリッジした先にありうるものじゃないかな
異なる陣地と陣地をブリッジして第三のルートを開く
そして、そのことの困難が詩人を言葉へ向かわせる
手に負えない、身の丈をこえている
けれど、この困難を引き受ける以外の生が浮かばない
残された仕事はそのことを示しているようにみえます
昼と夜と──
ともにしおれて壊れないように
あれかこれか
選択を迫るものをしりぞけるように
対立をほどき
ともにささえあうように
あれもこれも
どいつもこいつも
昼と夜を重ね合わせて糸を通し
新たな生地を織り上げるように
全時間耕すために
どちらでもない生の時間をあつらえ
第三領域と名づけてみる
わからないことだらけ
わからない
わからなさだけわかる
うん
おかしい?
へん?
生意気?
全然
でも、そうじゃない方角がわからない
そうじゃないもののかたちが全然見えない
少しもヘンじゃない
どこにも行かなくていい
それでいい、世界を照らすただ一つの場所さ
出発点さ
見えなくていい
見えないものに自分を捧げないほうがいい
見えなさをキープしよう
一歩も動かないほうがいい
動きすぎて自分が消える
迷う場所をまちがえて本当に迷子になる
なにかに、だれか連れて行かれる
思うつぼさ
見えないということが大切な手がかりだ
がっつりその場所をキープする
わかったつもりののぼせ上ったアホども
正義や真実の座席を独占したつもりのクソがいる
だまされないように
たぶらかされないように
いつも負けてしまう
削りあうだけ、ゲインのかけらもないゲームさ
無辜の道連れを集めて滅んでいくクソゲーさ
勝ちも負けもない
そこをキープする
このうえなく大事なことだ
なんのなぐさめにもならないけれど、俺も同じさ
でも確信に満ちて見える
全然ちがう
毒されているな
迷いでは負けない
かっこつけて言うけど
光速で迷いつづけている
すべての出発点さ
生きるすべての場所だ
キープしよう
世界を黙らせる──
そうしなければ生きられない
見殺しにされる生の位相がある
世界は、俺たちは、学ばなければならない
殺しあいを回避したいと望むなら知らなければならない
世界を黙らせ、スキマを開き、相互にスペースを与えあう
生きるためのもてなしの、関係の作法があることを
インターミッション──
〝魂〟が息つぎすることを許される〝域〟がある
このはじまりの地平への帰還を許しあう作法がある
コトバが裏側に回り込めず
回り込もうとすると別のものに変質してしまう
コトバを結ぶことより早く
コトバを結ぶ動機をそこから与えられる
始原のモードはつねに持続している
コトバが世界を切り取って指定する場所への着地を拒み
はじまりの場所への帰還をみちびくルートがある
世界の姿、関係を確定させる誘惑をしりぞけ
そうしてはじめて照らし出される位相がある
情動が所与するものとスキマなく直列した行為モード
関係のモードが出会えない生の位相があり
直列状態を解除することではじめて明かされる始原の場所へ
世界との直列を外して、スペースを開く───
あれはあれ・これはこれ・それはそれ
この世の姿を確定する世界を黙らせる
自明化した関係項、すなわち
俺たちを媒介する「世界」をいったん完全解除する
小さな休止符を日常の楽譜に書き込み
魂に息つぎするスペースを与えあう
そうしてはじめて俺とおまえは本当に出会うことができる
そうして一切が始まる場所へ帰還するルートがある
「自己」という資源を惜しみなく投下する
この相互性から導かれる地平がある
世界を記述する視覚と視覚が重なり
そこではじめて〝起爆〟する
転調、変換、移行、新たな音の生成
経験のモードが次々に変化する
変化しながら連続的に再投下されていく
使えば使うほど
味わえば味わうほど
歌えば歌うほど
世界のしばりがほどかれ
第三の視覚が言葉の包囲を砕いていく
互いに「自己」であるかぎりにおいて
出会い、交わり、生成するアンサンブルの宇宙
〝無限性〟と呼ぶにふさわしい
そういう関係のかたちがある
「ひとつの意識というのは、形容矛盾である。
意識は本質的に複数からなるのである。
意識には複数形しかない」(バフチン)
「わたしは、最初、他人をとおして自分を意識する。
からだが母の胎内(身体)ではじめて形成されるように、
人間の意識も他者の意識につつまれて目覚めるのである」(バフチン)
意味生成の震源としての「自-他」関係。
触発は、関係感情の湧出として意識を直撃する。
意識は〝いのち〟を吹き込まれると言ってもいい。
プラスの強化とマイナイスの強化、
二つのちからせめぎあう関係場から、「意味」が立ち上がる。
意味は関係をめぐり、つねに、その確かめと更新を主題としている。
──竹田青嗣『言語的思考へ』242
発語の本質的動機としての表現的「意味」……
「意味」はあくまで実存的主体の関係企投をめぐる世界との関係意識として生起する。
つまり「意味」とは、世界の内なるさまざまな存在者(諸事態)をめぐる、
絶えざる可能性、情緒受容、事態了解、判断、関係づけ、
留保、選択、決断等の意識として生み出され、
この主体における「意味」生成を起点として発語という関係企投が行われる。
そして発語された言語、つまり「言語表現」はまたこれに対する受容主体の了解企投を作り出す。
──マイケル・ポランニー『暗黙知の次元』佐藤敬三訳(1980)
知的であろうと実践的であろうと、外界についての我々のすべての知識にとって、
その究極的装置は身体である。
我々が目ざめているとき、外界の事物に注目するためにはいつも我々は、
その外界の事物と我々の身体との接触について我々がもっている感知に依拠している。
我々がふつうはけっして対象として経験することはなくとも、
いつも我々が発する注目の出発点をなすもの、
また注目が向けられている外界というかたちをとって間断なく我々が経験しているもの、
それはこの世界の中で我々の身体をおいてほかにはありえない。
言いかえれば、我々は身体内のこれらの過程から、
外部の事物の諸性質へと注目しているのである。
それらの諸性質とは、身体内の過程が我々にたいして意味するところのものである。
身体内の経験が外界の事物についての知覚へと移行する現象は、
意味が我々から遠ざかる移動の一例である。
記録係はバックステージにいる
カーソルが届かないデスクトップの裏部屋
オペレーションの全貌は見えない
見えないが忙しく作業を継続している
生きる全時間、全航跡をモニターしてトレースする
この作業はループしながらそのつど編集し直される
俺たちはこの作業の成果を「記憶」と呼んでいる
望んでも望まなくても
日々、刻々、作業は厳格に継続されている
なんのための作業なのか──
明示されないがメッセージは明らかだ
記録係のいとなみの全体が告げている
刻まれたメモリのページをめくる
ただページをめくる以上のこと
(記録だけならサルでもできる)
全時間、全航跡 全波形
メモリすべてをブリッジせよ
残らずブリッジしたうえで
新たな生の地位を拓いて生きろ
けっして追い越すことができない
心臓に近接した生の前線があって
〝いまここ〟を告げる作動がある
向かう先はどこか
頌歌なのか悲歌なのか
未来なのか過去なのか
考えるよりはやく
世界への着生は告げられ
新たな結界の入口が示され
誘いの、複数の、輻輳しあう
終わらないシグナルが明滅している
「チーム正義」の一員ではない。
その意味について語れば、こんなことになる。
ゲロを吐く理由と言ってもいい。
*
お仲間内でよい人よい子であることが価値的マックスであるとき、
お仲間の外はどうでもよいアホ、クズ、ゴミの集まりにみえる。
しばしばそんなことが起こる。
ゴミの存在を前提にした関係構造はどんなに拡大しても
世界の全域(普遍)に到達することはできない。
そこにいる居心地よさにのぼせ上がって普遍的価値を名乗る。
ゴミたちも同じ論理構造に従って生きていることに気づこうね。
この心的なかまえ、構造的な同一性に気づかなければならない。
*
たとえば、うつくしい理念的結晶としての「9条-護憲」
現実に着地できない、手足のない幽霊でしかないカルト化したうつくしさ。
われわれはこの宝の持ち腐れの現実を生きている。
この宝には実用化の取説も、持ち腐れの現実を刷新する方法も記載されていない。
あの「うつくしいナントカ」と同じ抽象レベルにとどまっている。
*
「正しいのはどっち」という二項的問いに絡めとられるとき
第三項が生成する巨大な思考領域が消失する。
右か左か。正義か悪か。加害者か被害者か。イケてるかイケてないか。
たとえば、「人権」という第三項が生まれる位相はそれとは別の位相にある。
*
世界に価値的な「こっち/あっち」を分ける透明な切れ込みを入れる。
「こちら」側にはミソもクソも一緒くたにした「よい人」たち。
「あちら」側にはミソもクソも一緒くたにした「わるい人」たち。
それぞれの陣地を確定して、罵倒し合うゲームに没頭しているあいだに。
一切を呑み込む獰猛なキャピタリズムの嵐にもろともさらわれてしまう。
そういう想定は非現実的とはいえない。
*
善い人はますます善く、悪い人はますます悪い。
善と悪をバインドして、最後には、敵のせん滅を望むのだろうか。
そうではない?
ただの子どもの遊びにすぎないようにもみえないでもない。
子どもは時としておとな以上に残酷にもなれる。蠅の王。
*
のぼせるだけならいいけど、自画自賛、普遍を名乗るのはNGね。
それで破滅したクニがあり、これからも、
とりかえしのつかない惨劇に世界を導く根本的理由がそこにある
*
「普遍的価値」を語りながら、部族的心情でしかない倒錯性。
サヨ、ウヨ、リベ、エトセトラ、無数のの部族社会、部族言語。
自然、子ども、弱者、9条、人権──
部族存続のツールに転用されるもの(用材化)。
脱部族化してはじめて出会えるほんとうの使用価値、
脱部族化してはじめて出会える理念の本質を学ばなければならない。
*
「平和」(非戦)へのナビゲーションは、希望や倫理や理想理念の競合ではなく、
敵味方を串刺しにする合意、一般意志として構築された「法」を必要とする。
この共同構築作業において問うべきではない項目系列──
個の生き方、趣味、思想信条信仰、価値観のちがい
いいかえると、「法」が貢献対象とする一切だ。
*
「いい人だ」ということはわかる。
けれど、「よい人-わるい人」という位相とは別の、
「法」だけに可能なナビゲーションの位相、関係的な原理がある。
*
私闘も公闘も不可避的に起こる生活世界の中で、常時、
人権概念を携えその具現として日常を生き切ることはできない。
オフサイドラインは常に破られる。
ただ「法」のみが常時それを具現し人と人との関係に適切なナビゲーションを与える力をもつ。
倫理や道徳では代替不可能な「法」の関係的機能がある。
*
単なる希望の表明、ロマン、理想理念の連帯は「反」自体を拠点化する。
人格、品格、無知蒙昧、不正を告発し攻撃することだけでは変化は生まれない。
むしろ火を注ぎ強化する。
人格、趣味、価値観、思想信条のちがいを不問にする「法」(ルール)の思考にたどりつけない。
*
権力=悪、反権力=善の古典的図式を捨てなければ、
いつまでも対立の概念(造反有理)しか出力できない。
暴力原理の抑止、再配分と一般福祉、外交(国防)といった役割付託のメニューと意志が消える。
政治(権力)の正当性の根拠から本質的な批判を構成できず、
普遍化(世界化)の道に乗り出すことができない。
*
身内、仲間を殺されて黙っている人間はいない。
しかしそれが全面展開すると地獄が生まれる。
唯一、第三領域の言葉、第三領域の合意項、すなわち
「法」によるナビゲーションだけがそれを抑止する可能性をもつ。
*
そこにたどりつけないということは、結局、
関係意識、関係態度の全般が「お仲間とそれ以外」という構造に収まることになる。
そこにたどりつくには、感情と行動の直列状態をいったん解除しなければならない。
解除してはじめて出会うことになる思考の主題がある。
第一の条件──「理想理念」の多数性、多様性に直面すること。
第二の条件──相互的な承認以外に、この酸鼻な現実の克服の解法がないことの原理的認識。
「もう少しだけそばにいてほしい」
*
未踏の音をめがけ、相互のfeelを重ね合わせる
そうしてセッションがはじまる
feelとfeelは交わり
カクテルの音を構成する
単独のプレーでは実現できない
奏でられる音はプレーヤーのあいだに鳴り響く
コントロールする特権的な主体はいない
この位相にリンクするとき一つ問いが消えている
「きみは何者か」
出自、思想信条信仰、存在を確定する世界視線
問いのすべては消えていく
問えばプレーの腕は止まり
セッションの位相はただちに消失する
相互の存在を確定するように視線が動くとき
プレーは別のプレーへと移行する
セッションの内側にあるために
それぞれのプレーの主権は保持されている
なにものにも捧げられない独立した個と個がいる
このセッションの原則を踏み外せば音は消える
消えるだけではない
確定されたスコアに従うだけの個に成り下がる
あいだの位相が生成するただ一つの条件
独立した主権者としてプレーヤーがそこにいる
プレーヤーはみずからを拡張するように
音を聴き、奏で、セッションを生きていく
だれにも、なにものにも捧げられることのない
幸せなセッションが生きられるように
一切は不問に付される──
この位相を理念としてキープすることはできる
問うこと、語ることがセッションを殺さないように
守るべきセッション・コードがある
わかってもらっちゃ困んるんだよ
善人づらが気色悪いんだよ
わかるわかる、いいねいいね
仲良しコンクールかよ
ゲロしていいか
じゃまくさい、しゃらくさい
消えてくれ
もっとやることあるだろ、おとなだろ
オレたちをネタにメシ食うんじゃねえよ
うっとおしい
存在がじゃまなんだよ
てめえの仕事があるだろ
ネタにしてゴマかすな
すべてを外してくれ
外れてくれ
自由、人権、正義
ここだけのネタじゃねえか
それどころじゃねえだろ
戦争を止めて見ろ
バカか
わかられてたまるか
──カール・マルクス「ヘーゲル法哲学批判序説」1844年(城塚登訳)
宗教は、抑圧されたものの嘆息であり、非情な世界の心情であるとともに、
精神を失った状態の精神である。それは民衆の阿片である。
民衆の幻想的な幸福である宗教を揚棄することは、
民衆の現実的な幸福を要求することである。
民衆が自分の状態についてもつ幻想を棄てるように要求することは、
それらの幻想を必要とするような状態を棄てるよう要求することである。
したがって、宗教への批判は、
宗教を後光とするこの涙の谷(現世)への批判の萌しをはらんでいる。
それゆえ、真理の彼岸が消えうせた以上、
さらに此岸の真理を確立することが、歴史の課題である。
人間の自己疎外の聖像が仮面をはがされた以上、
さらに聖ならざる形姿における自己疎外の仮面をはぐことが、
何よりまず、歴史に奉仕する哲学の課題である。
こうして、天国の批判は地上の批判と化し、
宗教への批判は法への批判に、神学への批判は政治への批判に変化する。