ASAKA通信

ノンジャンル。2006年6月6日スタート。

経験のモード

2017-07-25 | Weblog

       https://www.youtube.com/watch?v=Saziu2WcFww


「知」はそのままでは新たな経験のモードを形成しない。
メモリに情報を刻み、設問群に対応する「解」を増やしていくことはできる。
ここでは経験のモード(知的いとなみ)の形式的同一性は維持されたままである。

「知」の量的拡大において経験のモードは変化しない。
変化しないことが線形的な量的拡大を可能にする条件でもある。

ある生きられる経験のモード選択がデフォルト化しているとき、
「知」の獲得は選択された経験のモードを強化することになっている。

いいかえると、このとき学習(知の獲得)は、
経験のモードの妥当性を補強するものだけを選ぶように展開していく。

 ***

「知」そのものは経験のモードのあり方を決する〝最終の法廷〟を構成できない。

「知」的にどんなに上昇しても経験のモード(ゲーム)は変化しない。
ある経験のモード(ゲーム)が求める「知」はすべて、
必然的に、ゲームの枠組みに収まるように選択されるからである。

経験のモードを書き換える条件は「知の獲得」そのものとは別のところにある。
いいかえると、経験のモードが書き換わる動機はゲームの外からやってくる。

それは単に、サッカーを選ぶかベースボールを選ぶかということではなく、
新たなゲーム創発の可能性を秘めた「ゲーム選択の位相」として訪れる。

経験のモードチェンジはプレーモードの全面的な書き換えとして展開する。
その契機は、ただゲームの多様性と多数性との出会いを起源として現われるように思える。

ゲーム選択の位相が消えると、プレーヤーが生きるゲームは一つになる。

 

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エントロピー

2017-07-11 | Weblog

      https://www.youtube.com/watch?v=5X4xjmk0KzA


神、全知、最高善、真理、絶対の正義。それらはクリスタルのように完結している。
ゆるぎない物質的な存在のありかたに似ている。
それが指定する関係のルールはただ一つである。
第二法則的からみればつねにエントロピーの増大に晒されている、とも言える。

ゆらぎ、ためらい、迷い、とまどい、はにかみ、はじらい。
それらはつねに自己完結しえず、みずからへの問い携え未決状態を生きつつある。
新たなフォーメーションの創発をめがけ負のエントロピーを探索している、ともいえる。

 

 

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〝普遍性〟とは。

2017-07-08 | Weblog


「私たちが芸術をもっているのは、 私たちが真理で台無しにならないためである」(ニーチェ)


世界に透明な切れ込みを入れて、
「正義/不正義」「善/悪」「真理/虚偽」という二項に分割し、
「正義」「善」「真実」という〝普遍的価値〟の側にみずからポジショニングする。

そこで言明される「正義」「善」「真理」はそのまま普遍性をもつことを意味するわけではない。
なぜなら、「正義」「善」「真理」はさまざまな内実を伴って並立あるいは乱立するから。

しかし、「世界に透明な切れ込みを入れる」というふるまい自体には普遍性(原理性)がある。
みずからが、なかまたちが「普遍的価値」の側にいるという確信の意識が、
みずからとなかまたちの生に正当性(意味)を与え、それが生をよく支えるから。

このことは、共同体をまとめ上げるために要請される正当性の原理とも言える。
この〝普遍性〟は依然として現実を駆動するものとして生きている。

ここから、並立あるいは乱立する〝普遍的価値〟同士(各種共同体間)の対立が極まるとき、
その決着を求めて暴力原理(パワーゲーム)が顕在化する。このことにも普遍性(原理性)がある。

暴力原理の帰結は、無数の歴史上の惨劇であり、これからも帰結することになる。
正義、善、真理、愛という〝普遍的価値〟が一つであるなら、惨劇は収束する。

しかし〝普遍的価値〟の多様性と多数性が生み出す矛盾を解消するために、
「神」の系列に属する絶対項を仮構することは歴史を反復することにしかならない。

 

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