https://www.youtube.com/watch?v=zVOqiXfpotk
見たものは見たのであり、感じたものは感じたのであり、経験したものは経験したものである。
すべてのはじまりでありつづける情動生起──意識の恣意を超えて意識に訪れる〈世界〉。
「だってそう感じたのだもの」
この経験の位相において内的に所与される世界の諸相はそのまま唯一つの現実であり、主観にとっての〝真理〟、ただ一つのリアルを構成する。すべては〝わたしにとって〟という位相において端的な〈世界〉の訪れがあり、〈世界〉は感じられ、目撃され、味わわれ、触発され、そのまま〈世界〉にまみれて生きている「わたし」がいるだけである。
この経験の位相において「客観」は存在しない。客観が生成する理由も存在しない。本質的には、個と個を結ぶ関係項(関係子)としての客観。
この第一次の過程のまま生が直進可能であれば、訪れとしての〈世界〉の姿は揺るがず、「わたし」はただ〝わたしにとっての世界〟に直面して生きるだけである。ここでは「わたし」の内的経験として現象する〈世界〉はそのまま「世界」である。
しかしこの第一次の過程として示される〈世界〉をそのまま維持し、直進することはできない。
〈世界〉の現われは一つではない──そのことを告げる存在、他者がいる。
「おれはそう感じない」
〝わたしにとって〟現われる世界のまま、すなわち「主観」にとっての〝真〟のまま直進すれば、かならずクラッシュが起こる。お互いに直進を許さない関係として「主観」と「主観」は出会う。
出会いには意味がある。出会うことで生まれる「関係の快(エロス)」がある。同時に、承認の相克性──相互に承認を求め、要求しあう関係として相克的関係を生きる「関係のゲーム」が展開してゆく。
関係項の生成──この相克性の克服へ向かう集合的試行、その累積プロセスにおいて、必然的に「関係項」(言葉、客観・真理の諸形態、社会構成)が生成する。そして、その失敗と成功の、悲劇と喜劇の、地獄と天国の、歴史的展開としての「社会システムの現在形」がある。
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一次過程と二次過程は、循環的な相互規定的関係にある。しかしこの関係のゆがみをただす位相は、ただ一次過程を生きる実存の側にある。しかしそれを果たすためには条件がある。二次過程をカッコに入れて、その生成性を捉えるまなざしを必要とする。二次過程の生成の起源であり、起源でありつづける一次過程。二次過程にはこの一次二次の関係構造を糺す動機は内在しない。