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ASAKA通信

ノンジャンル。2006年6月6日スタート。

「ゆっくり、つくる」(コメント)

2013-06-16 | comment

 本日サッカーの試合を観て感じたことと少し重なりました。

 うまいと感じる選手はどんな動作や激しい局面でも、
 独特の間合い、「タメ」(ゆっくり感)があるように感じました。

(この「うまい」と感じる理由の基底には、そのプレーを観る側に、
 選手のゲームする喜びや享受する洗練された姿への共感がある気がする。
 生命的共感(?)――直接生産と結びつかない、ただ「観ること」に、
 これだけの資源を惜しげもなく投入する動物は人間以外に存在しない。

 この一見非生産的なゲーム観戦という行為において、
 人間というシステムはどんな報酬をそこから引き出しているのか。
 「観ること」で、何を求め、享受し、何が変化していくのか。
 「うまい」と感じる選手・プレーへの憧れや期待、特別な敬意へと転化する
 行為としての「観ること」――
 そこに埋め込まれた基底的な志向性は、じつは一流選手のプレーだけでなく、
 ふだんの日常的な他者との関係でも常に持続しているようにみえる。)

 「タメ」があることでプレーの選択肢が自然に開かれて、
 そこに創造性のスキマができている、そんな感じでしょうか。

 逆に、チームの決め事や定石に忠実で一所懸命な選手なほど、
 そうしたアソビや自由度が少なく、ちょっと息苦しそうな印象をもちました。


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「知的衝撃波」とエントロピー(コメント)

2013-01-14 | comment


「生命をもたない存在は自己充足的である」(グレゴリー・ベイトソン)

自己充足的であることは、どこか物質に近づくことに似ている。
人間であることは、生命的であることと同時に、
生命的であることを止める倒錯と狂気の自由を獲得することでもあるらしい。

生命の形式が物質の形式を真似ていくとき、存在の主題は量的なものへ移行していく。
そしてすべての生命的存在とその活動は、
物理的衝撃(体罰)とプランによる制御対象となる。

情報を生み、試行錯誤し、フィードバックの回路を回しながら、
主体みずからの状態と、主体どうしの関係のあり方を
書き換えつづけるダイナミクスと生命的よろこびは消え、
すべて物理的量的なものの四則演算による解釈と利用,その効果に移行する。

生命をもたない世界では、みずから変化することに無頓着であり
進化も後退も起きず、誤りを犯すこともない(物質はエラーを起こさない)。
すべてはプランされた軌道を走る物質的運動として配列されていく。

この生命世界から遠ざかる営みのクライマックスには、
クリスタルな結晶化が全面展開する世界が待っている。
これは、第二法則に準じる姿といえる。

こうした事態に抗うことは、端的に「生命でありつづけること」を意味する。
生命とはなにか。情報(負のエントロピー)の産出と変化にほかならない。
物質の自己充足的な存在形式にからはみだしていく、
例えば、まなざしに情報=意味、新たな組織化の契機を見出すような、
みずからのゆらぎにみずからを創発する存在の形式である。
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「らぶれたあ」

2013-01-12 | comment

『さんにゴリラのらぶれたあ』へのコメント
http://ameblo.jp/sanni1132


かつての『らぶれたあ』の直接の読者として――、
学校でのいきいきとしたドキュメントを、
親子で一緒に読むのは毎日の楽しみでした。

子どもには重要な役割が与えられます。
先生の生のメッセージを親に届けるメッセンジャーの「ぼく」。
教室の出来事を一つの物語として、家に運び、学校と家庭をむすぶ任務を果たす。
そんな役割を、子どもは楽しく演じていたように思います。

親にとっては、親子が直接対面しあうベタな関係に、
一息入れるように、先生の子どもへのやさしい視線が入ることで、
こちら側に子どもに向けるまなざしに視差が生まれ、
子との関係をふりかえるきっかけを頂戴していたように思います。

いまの社会は、『らぶれたあ』の世界が、どんどん『1984』的世界に侵食されつつある、
といったら大げさでしょうか。

昔も管理好きの先生はいましたが、そのカウンターとなる先生も同居している、
というのが少し前までの学校にあった雰囲気だったような気がします。

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「アート」(美学)としてのジャーナリズム

2012-11-06 | comment

(The Journal・田中良紹の「国会探検」/「政治はアートである」)へのコメント
http://www.the-journal.jp/contents/kokkai/2012/11/post_322.html


逆説的ですが、いま(田中氏のいう)『「大衆」を相手にしないメディア』を本気でつくったら、
一人勝ちは確実なように思います。

ほんもののジャーナリズムに飢えている多数の成熟した人びとが、戻ってくるはずです。
本気で取り組めば、ネットジャーナリズムは吹き飛ぶかもしれません。

(旧式のビジネスモデルは、すでに見透かされています。
現体制のままどんな技巧を凝らしても無駄な抵抗でしょう)

人的資源は、各界にあり余っているのは明らかです。
現状(ムラ人)をガラポンして、総入れ替えする勇気さえあれば、
歴史に名が残るにちがいありません。いまが分岐点かと思います。

結果的に、「人民のメディア」になれば、間違いなく人民が支えるでしょう。
そのほうが毎日気分も晴れやか、やりがいがあるに決まってます。
同窓会にも堂々と出席できるでしょう。
……と、妄想してみました。

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「ただの人」に踊るメディア

2012-10-26 | comment
http://www.the-journal.jp/contents/kokkai/2012/10/post_321.html
田中良紹氏「石原東京都知事辞職の憂鬱」へのコメント


「ただの人」が弄する文学的修辞テクが、ここまでメディアを踊らせる。
背景にあるのは、中身空っぽの教養主義的残滓でしょうか。
お利口さん階層の文芸コンプレックスでしょうか。

表層的コトバ遊びに長けた坊ちゃまの火遊びに付き合わされる国民こそ、いいツラの皮です。

ただ、文学・評論の業界も、一人の作家(人間)を正当に洞察する能力も見識も動機もない、
本質的にはただの「ムラ」ということだけは、あらためて白日化しました。

唯一その意味では、イシハラ的パフォーマンスは国民的学習サンプルとして有意義なのかもしれません。
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「帰還地」

2012-09-08 | comment

(http://ameblo.jp/sanni1132/entry-11349026017.html#cboxへのコメント)


「たかが電気のために」(小出裕章)

ヘンだと思うことを、ヘンだと言える。
ただその一点で、ふつうの感覚を大事にしてほしい、
というのが一人の親としての希望です。

けれども民主国とはいいながら、いまだあちこちに、
「全体制」も「封建制」も「独裁制」も「奴隷制」も点在している。
空気が支配する集団のなかで「ふつう」でありつづけることは、
苦しい局面に遭遇することにもなる。

これに抗うには、実効的な知恵とつながり、
いつでも帰還できる「ふるさと」が要るように思います。

子どもにふるさとを用意するのは大人の仕事ですね。
「さんにゴリラのらぶれたあ」に触発され、触媒されて、
オヤジとしての責任をあらためて感じます。

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2012年8月15日

2012-08-15 | comment
(http://ameblo.jp/sanni1132/entry-11328822903.htmlへのコメント)


前出のコメント欄、とても素敵なエピソードだと感じました。

「逆にマイナスにぼくが傷つけたこともあったかもしれません」

「僕の好きな先生」たちのいる風景が浮かびました。
説教や言説やスローガンの届かない、メタレベルの風景です。
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昭和の体験から

2012-08-13 | comment
(http://ameblo.jp/sanni1132/entry-11326772689.htmlへのコメント)


じぶんの学校体験(昭和時代)をふりかえると、
「ユーモアを大切にしましょう」的な言語空間のイメージがあります。
あらゆるコトバが教育的指導に色づけらてしまう世界=学校です。

この言語空間に一度入ると、
コトバ(ユーモア)は標本化されて観察対象、学習対象になる。
端的にいうと、「死語」(生気を失ったコトバ)の世界です。

子どもたちは、このおかしさに気づいていると思いますが、
この世界への適応を長年強いられ、点数をつけられていくので、
いつのまにか学校的身体に変質してしまう、ということがあるように感じます。

コトバが因数分解される「死語」の世界は
とても機能的で、点数をつける官僚的営みにとっては便利でしょうが、
その代償として、社会から「ユーモア」(コトバ)が失われていく...

そこに、○○○先生の「主戦場」の一つがある。
というのは「盛りすぎ」でしょうか。

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「脱ムラ」

2012-08-04 | comment
(http://ameblo.jp/sanni1132へのコメント)

「原子力ムラ」と同じく無数のムラがありそうです。
「教育ムラ」では、
何が起きても「学校は健全に保たれている」でしょうか。

けれども「脱ムラ」の気運は拡大しているように感じます。
この気運を感じられなければ、親も先生たちも、
子どもたちから置いてけぼりにされるのはまちがいなさそうです。

    *

「なつやすみ つまらない日は ありません」

小学一年男子の俳句です。(もともと「脱ムラ」デス)

こんな子が教育ムラで点数をつけられて、
「ムラ人」として訓練されていくのは悲しい。

大きなムラ=日本で教育を受けて、大人になって、
もう一度「ムラを出る」(子どもに帰る)。
たしか、それが男の成熟だとニーチェが言っていました。



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「なりすまし」「教育の素人」

2012-07-28 | comment
(http://ameblo.jp/sanni1132/entry-11312941385.html#cbox へのコメント)


「教育」の看板をつけた「収容施設」がイメージされます。
こうした「管理」のゴールは何なのでしょうか。

社会人の経験からいうと、
「人事考課」(成績表)が前景化した組織は、
だんだんと愚かなふるまいが加速するように思います。
多くの場合、考えない(無能の)トップがいる組織ほど、
この傾向が強まるように思います。
(最後には沈没=倒産します)

Hさんには、愚かな連中の言葉を「真に受けないでください」と
言いたいように思います。
もっといえば、彼らは自分の成績(数字)以外関心のない、
本当は「教育の素人」(なりすまし)なのですから。

それより「外」へのリンクを無数に伸ばすことを大切に。
「さぼること」も、生きのびるための大事な技術です。
(偉そうに聞こえたらごめんなさい)
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認知的「誤用」

2012-05-28 | comment

(……)
誠に勝手ながら、これでおしまいにしたいと存じます。
最後に、一番の論点をカッコつけて集約すれば、次の一点です。

「集合命題と要素命題は、論理レベルが異なる。」

例えば、【日本人の集合X】=[a、b、c、d、……]があるとき、
「a」についての記述命題(aは嘘つきである)はそのまま、
「X」についての記述命題(日本人は嘘つきである)として、
使うことができないという、ごくシンプルな問題です。

ところが、こうした認知的な「誤用」(a→X)は、
国家間でも、身近な生活圏でも、
対人関係でも、自己認識でも、しばしば起こるようです。
(個人の場合は、【人格X】=[側面a、側面b、側面c、……])

なぜ起こるのかと考えると、
認知コストの低減というボーナスの獲得があります。
つまり、全体性について精査するための、
観察・学習・検証等にかけるコストを節約できる。
このことが、さまざまなボーナス連鎖を生みます。

(そうしないと生きられないという事情があっても、
 マイナス面は甚大である可能性大。)

次長課長河本準一氏の件では、この誤用(悪用)が、
逆向き(X→a)に働いたケースと考えられます。

「生活保護不正受給する一部日本人=許せん」といった、
漠然と醸成された集合命題(空気)が、
特定個人に強引に、作為的に集中的に押し付けられた事例です。

(結果、TVは視聴率のボーナス獲得に成功。
 政治家約2名は支持者獲得インコンプリート、失墜)

これは、世論形成・操作・動員の典型的手法のようにみえます。
これまで数多活用され、少なからず犠牲者を生んでいるでしょう。
おそらく、これからも。

昔、「鬼畜米英」(集合命題)のおかげで、
個別アメリカ人のことを考えなくて済み、憎悪&士気アップ。
そのかわりに、戦争止められず、
「日本人=黄色いサル」というカウンター措定も頂戴した。

その意味からいうと、命題捏造(スローガン)プラス
相互に観察や学習がストップした状態が戦争(対立)を生み出す、
固定化する、という定式が成り立つかもしれません。

広げすぎました。この辺りでおわりにします。
(……)
コメント

「バカ議員 名前はさつき かたやま五月」

2012-05-27 | comment

恐縮ですが、図に乗って、もう一点述べさせていただきます。

自民党議員片山さつきは、河本準一氏をネタに、
国会議員としてあるまじき振る舞いにおよびました。

議員は、社会の現在・未来にかかわる、
日本国の制度設計にかかわる立法府の人間です。
一義的に負託される仕事は、国民の生命と財産を守ること、
全体の生活福祉の向上(プラス外交軍事等)。
当然、これには何より国民一人一人の人権・名誉が含まれます。

仮に、大いなる疑惑があっても、
世論に抗しても、火だるまになっても、
憲法に照らした議員の職責を果たすべく、
推定無罪を原則を厳密に貫くべき立場の人間です。
にもかかわらず、誰よりも先んじて「私人(一国民)」を攻撃非難、メディアを煽るという狼藉におよびました。

バカメディア・義憤バカは相変わらずですが、
いまや多くの人は冷静です。
問うべきは、生活保護支給の審査機能が正常か否かでしょう。

片山は落選させてバッジを返してもらい、
河本さんには「タンメンでも食べて元気をだして」と励ますのが、
民主主義国の市民のたしなみか思われます。
コメント

9月14日、朝メール

2010-09-19 | comment
おはようございます。サッカー部Aの父親です。
昨日は大変お忙しいところ、ご無礼を顧みずお電話差し上げました。
ご丁寧に対応していただきまして、心から感謝申し上げます。

うるさいバカな親が何を偉そうにとお思いになられたかと存じます。
バカついでに、このたびの件について、感じましたことを整理させていただきました。
一方的な内容で恐縮ですが、一親の単純な感想としてご参照いただければ幸いです。

1.生徒に自分たちの振る舞いの意味を、「自主的」に考えさせるという点は100%賛成。
2.但し、一方でペナルティをちらつかせる方法は、「自主的」と矛盾する。
3.ペナルティの中味は、古臭い芝居じみて見える。
4.今回の問題は、そうした回りくどい方法を取って教えるべきことなのか。
5.子供がルール違反したとき、芝居より、その被害(者)と直面させたほうがいい。
6.親が毎日怒鳴っていると、怒鳴りの中味を吟味するより、子は回避行動を先行させる。
7.今回の着地点(模範解答=強制力)を多くの生徒は直感的に嗅ぎ取っているだろう。
8.結果、「強制力」に絡め取られて、「自主性」は消えるだろう。
9.「模範解答」を慮って、「自主的に考えたフリ」をするほどの知恵はすでにある。
10.そうしたサル知恵(大人との駆け引き)は、経験として無駄ではない。
11.しかし、それは大人の意図や配慮とは別の帰結においてである。
12.サッカーの楽しさを知っている選手は、自分で沢山考え学ぶだろう。
13.人生の手段(苦役)ではなく、それじたい目的(喜び)となりうるはずの「サッカー」を、規律訓練の手段とすることのおかしさを考えていただきたい。

電話を差し上げました成り行きで、勝手な感想を書かせていただきました。
どうぞご寛恕ください。

コメント

Aさん、Bさんへ

2007-05-13 | comment
E-A-DだったAと言います(因みに成績は後ろから一番でした)。
不愉快な思いをされたかもしれません。お許し下さい。

おまえ何言ってるのと言われそうですが、
貴重な「場」があるだけではなやぐものがあります。
想いはいろいろ分岐するのだと思いますが、
「場」がなければ分岐するものへの想いも点火しません。
おこがましいですが、クラス会そしてサイトの運営には頭が下がります。

外交辞令でもなく、婉曲でもなく、
野次馬のど真ん中の言葉としてお受け取りください。

 うちあけなかった言葉たちは
 季節のたびに花を咲かせる
 ささやきかける (松任谷由実『One more kiss』)

孫引きですがもう一つ、

 風に散る花の行方は知らねども 
    惜しむ心は身にとまりけり(西行)

皆さんの思いをオープンソースとして閲覧できるこの場に感謝申し上げます。
大変失礼しました。
コメント

夏来にけらし。

2007-05-04 | comment
大変ご無礼とは承知ながら、一筆挿入させていただきます。

たかが数十年の時間の移ろいがいかほどのものなのか、という疑念がございます。
しかし、過去に着膨れしたオトナたちは、貴重な「現在」を生きることができないようにみえます。
若者たちの目にはそのように映っているようです(胸に手を当てて考えると思い当たります)。
言い換えると、棺桶に片足突っ込んだ姿にみえる。
例外的に思いやり深い若者たちは、そうしたオトナたちの過去を懐かしみあう振舞いに礼を尽くしてくれますが、年寄りを見限った作法と呼んでもいいかもしれません(本質的には勝手にやってちょ)。

「みえない関係がみえてきたとき、彼らは深く訣別している」
主題化されなかった過去は、数十年の歳月を経ても、否応なく現在の姿として浮上することがある。
そこから本当の現在が再び始まるという冷たい真実の祝福がございます。

ところで、その時こそ着膨れしたオトナだけに許された作法がありまして、そこで、たまさかに壮年期ならではの骨太のコミュニケーションを起爆させることもできるようなのです。
その可能性を見ることができれば野次馬としてはとてもとても嬉しいです。

遠い過去の短い期間を共有したという事実だけがせり上がり、その過去においてせめぎ合っていた、あるいは互いに見えなかった個々の体験の履歴が、すべてご破算あるいはなかったもののごとく、お互い温顔に満ちた表情で出会えるものかどうかは大いに疑わしいですね。当り前ですが。
例えば、同級生が市長に当選したということ自体が自慢のタネになることが信じられるためには、単に同級生だという事実だけでは弱い。北の将軍様の同級生たちは、同級生という事実だけで光栄なのかどうか。

そうした基本認識を踏まえることで、過去に着膨れした老人としてではなく、現在という土俵をともに生きる「ス」の関係において、たとえば友や子や誰それとも出会う道もオプションとして残されているのではないかと思いましたので、文字通り老婆心ながら、一筆したためさせていただきました。
ご無礼お許し下さい。頓首
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