ASAKA通信

ノンジャンル。2006年6月6日スタート。

新しい朝のために

2012-11-24 | Weblog

「おはよう」

こころは
いつも
いつのまにか

かたちを告げられ
かたちに染まり
おくれて
かたちを追いかけていく

「あっ、あめ」

カーテンを開ける音と一緒に
あなたのつぶやきが響き
朝のまどろみが破られる

魔法のつぶやきが
かたちを運び
こころは
つぶやきに染まり
いつのまにか
冷たい春の雨に濡れている

「あさよ」

やわらかな光のなかを
魔法のコールが響き
こころは
朝のかたちをインフォームされる

やさしいフォームにふれるとき
こころはいつも
いつのまにか
やさしいことばをさがしている

かなしいフォームにふれるとき
こころはいつも
いつのまにか
かなしいことばをさがしている

こころを決めるよりまえに
こころはいつも
ことばに染まり
存在のフォームを書き換えられていく


  なのはなに月のでんきがつきました 

            ――小1女子『新版・現代こども俳句歳時記』

夕ぐれの菜の花畑に
春の風が吹きわたり
月の光が照らしている

歌われないかぎり
聴かれることのない

奏でられないかぎり
出会われることのない

いちどかぎりの歌が歌われ
魔法のフォームが奏でられる

昨日までかなしかった
昨日までうれしかった

こころはつぶやきに染まり
歌に染まり
風景に染まり
季節に染まり

いつのまにか
こころは
こころに染まっていく

新しい一日のために
魔法のかたちが生まれ

こころはいつも
いつまでも
そのおとずれを待ちつづけていく



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天使のもてなし

2012-11-08 | Weblog

    *

善が悪に勝てないこともない。
ただ、そのためには天使たちがマフィアなみに組織化される必要がある。
There is no reason good can't triumph over evil,
if only angels will get organized along the lines of the Mafia.  

――カート・ヴォネガット(1922~2007)『国のない男』金原瑞人訳

    *

天使のもてなし


――天使は戦わないことで天使でありつづける
――天使が戦うとき、戦いは別の名前で呼ばれる

二〇××年×年×日、東京都心に建つ小さなオフィスビル。
あるオフィスの一室を、ブラインド越しの朝の光が照らしている。
ぼくがデスクに座ってコーヒーを啜っていると、
目の前を若い女性社員が通りすぎ、窓際に並んだ書棚のほうへ歩いていく。
センス良くスーツを着こなした、意思的なまなざしが魅力的な一人の女性。

なんの変哲もない、淀んだ時間が流れる朝のオフィス。
ぼくは退屈にまかせて勝手に妄想してみる。
この女性がいつかどこかで、結婚し、子を産み、育て、
さまざまな出来事に出会いながらも、幸せに過ごしていく毎日の姿を。

魅力的な女性にふさわしい魅力的な旦那。
愛情と分別と気配りが混じり合った平和な家庭生活。
小さな波乱や脱線を乗り越えていく知恵と献身。
経験から学ぶことを知っている謙虚さ。
人生を彩るさまざまな思い出、陶酔、悲しみ、怒り、孤独。
一人の女性の人生を、無数の夢や現実が織り上げていく。

この目の前の情景から、ぼくは妄想の翼を羽ばたかせてみる。
女性がいつか生むかもしれない一人の子どもになりきって、
遠い未来の方から、現在へ向かって逆向きに回想してみる。

三十年後、四十年後、あるいはもっと先の未来から、
成人し、独立し、いっぱしの大人として、
人生を歩んでいる子どものまなざしになりきり、
いまここに立っている若い女性の姿を眺めてみる。

ぼくのまなざしに映っている目の前の情景は、
その子にとってどんな意味と重さをもつのだろうか。
その子が絶対に目撃することができない、
朝の光が包む職場の風景と母なるものの姿。

ガラスで仕切られた会議室、整然と並んだデスク、
パソコンを叩く社員、空調のかすかなモーター音、
壁に貼られたポスター、マニュアルどおりに来客を迎える受付、
空気を揺らす電話のコール、コーヒーをすする音、
おしゃべり、窓の外に広がる高層ビル群と青空。
そうしたすべてが入り交じった風景の片隅に、
若く、未来を輝かせながら働く大切な人の姿が見える。

仮にいまぼくがみているように、この女性が産んだ子どもが、
そのままの情景をみずからの瞳に映すことができるとしたら……
それは、たぶん奇跡と呼ばれるものにちがいないだろう。

いつか自分を産むことになる、うら若い女性である母なるもの。
ぼくはその子どもになり代わり、永遠に失われてしまったはずの情景を、
ありえない奇跡として、いまこの目で目撃していることになる。

すると、ありふれたオフィスの一つの情景が、途端に意味を変える。
この世界は奇跡に満ちている――。ぼくはぼんやりとそう考えてみた。
どんな宗教的なエージェントにも媒介されない、そんなものを召喚する必要もなく、
奇跡と呼ばれるものがこの世を満たしているという端的な事実。

一日一日、一瞬一瞬、この世は奇跡として現象している。
世界には次々に新たな奇跡の扉が開かれ、
奇跡の果てしない連鎖のなかで、ぼくたちは生きている――
そんなじぶんの妄想に少しうろたえてしまう。
ありえない。けれど、それはそうにちがいない……

さらにそこから思いを走らせてみる。
アメリカ人のある作家は、ありたけの皮肉をこめて「人生はクソの山」と書いた。
この世のすべてが仮に奇跡だとしても、一体どんな意味があるというのだろう。
なんと呼ぼうが、奇跡はうんこまみれであり、うんこのリアリティは圧倒的だ。

なんてことはない。
奇跡はそれぞれ同等の権利をもって、お互いの奇跡性を生きている。
奇跡と奇跡は相互に牽制しあい、せめぎあい、打ち消しあいながら、
総体としてフラットで味気ない関係性に着地点を見出していく。
お互いの奇跡性をかき消し、潰し合うように現実は維持されている。
そして多くの場合、奇跡はうんこ以上のひどい現実をアウトプットしていく。

ある小説の一節が浮んだ――
小説の主人公である女刑事エリーは、日々凶悪犯を追いかけながら、
逆に追い詰められた病者のような日常を過ごしている。
ある日、エリーは友人である死期の近いエイズ患者を病院に見舞う。
そして、いつか自分も同じ末路を迎えるかもしれない友人の姿を見て、
悲しみ、おびえ、みずからを振り返り、そして少しだけ安堵する。

「構内の車道を通りに向かって歩きながら、エリーは自分の左腕をつかみ、筋肉や脂肪の確かな丸みと厚みを感じて、ほっとした。何度か、肺が痛くなるぐらい、深く息を吸った。涼しく、重く、湿った空気。木の葉のにおい。排気ガスのにおい。病院の向こう側から漂ってくる川のにおい……。(中略)両腕を振り子のように動かし、両足で軽やかに地面をとらえ、ヒップを悩ましくくねらせながら、そのひとつひとつの動きに心が華やぐのを覚えた。健康な体で、冷たい空気を吸いながら歩く今の自分の姿を、いつの日か、どこかの病院で、強烈なあこがれと共に振り返ることになるのだろうか。病にも、老いにも侵されていない今の自分を……。振り返ったときには、遅すぎるのだ。あこがれを、願いを、力にかえられるのは、今しかない。」
――ミッチェル・スミス『エリー・クラインの収穫』東江一紀訳992年新潮文庫

この街(ニューヨーク)では、正常も異常も、成功も失敗も、
なにもかもが強迫的な出来事として生きられていく。
一人一人の奇跡たちは、ぎっしり書き込まれたスケジュール帳に埋まり、
義務と責任、成功と失敗の観念に脅迫されながら分刻みの日常を送る。

人間を生かす力と人間を滅ぼす力がハイレベルでせめぎあい、
すべての存在に勝敗の決着を迫りつづける街。
むきだしの成功と絶望の化合物のような、世界都市ニューヨーク。
一歩でも道を踏み外せば、冷酷な結末が自分を待っている。
義務と責任を果たすこと、勝者でありつづけることを願いながら、
敗者が無慙な姿をさらす街角を急ぎ足で行き交っていく……。

「ヒマそうですね、××××さん」

澄んだ、天使の歌声のような声がひびく。
書棚から戻った女性は、新しい企画のための資料や本を抱えていた。
ぼくのデスクの前に立ち、いたずらっぽく微笑んでいる。
きっと間抜けな顔をしていたにちがいない。
いきなり妄想のまどろみを破られ、ぼくは表情をつくれずうろたえてしまった。

けれども彼女は、ぼくの反応を決して急がせようとはしなかった。
迷える子羊をやさしくもてなすように、
ぼくが気持ちを立て直すために待っていてくれた。

それはだれにも気づかれないようなほんのつかの間、
天使が一度だけ羽ばたきするような、刹那の時間。
ぼくはその奇跡を受け入れ、天使のもてなしに包まれる。

――小さな休止符が日常の楽譜に書き込まれ
――魂に息継ぎする時間が与えられる
――そして、ぼくは言葉をさがすことを許される

迷える子羊をもてなす、奇跡のようなインターミッション。
差し出された救済の時間が、深い安堵をみちびいていく……

そして、振り出しにもどる。
奇跡であり、うんこであり、退屈であり、冷酷でもある、
いつもと何一つ変わらない現実がまた動きはじめる。

      *

コメント

「アート」(美学)としてのジャーナリズム

2012-11-06 | comment

(The Journal・田中良紹の「国会探検」/「政治はアートである」)へのコメント
http://www.the-journal.jp/contents/kokkai/2012/11/post_322.html


逆説的ですが、いま(田中氏のいう)『「大衆」を相手にしないメディア』を本気でつくったら、
一人勝ちは確実なように思います。

ほんもののジャーナリズムに飢えている多数の成熟した人びとが、戻ってくるはずです。
本気で取り組めば、ネットジャーナリズムは吹き飛ぶかもしれません。

(旧式のビジネスモデルは、すでに見透かされています。
現体制のままどんな技巧を凝らしても無駄な抵抗でしょう)

人的資源は、各界にあり余っているのは明らかです。
現状(ムラ人)をガラポンして、総入れ替えする勇気さえあれば、
歴史に名が残るにちがいありません。いまが分岐点かと思います。

結果的に、「人民のメディア」になれば、間違いなく人民が支えるでしょう。
そのほうが毎日気分も晴れやか、やりがいがあるに決まってます。
同窓会にも堂々と出席できるでしょう。
……と、妄想してみました。

コメント

「中村式/fantagie」

2012-11-04 | 参照
「中村俊輔 プレー集 -SHUNSUKE NAKAMURA The Fantasista-」より
http://www.youtube.com/watch?v=Gmh2yNs7w8M
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