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善が悪に勝てないこともない。
ただ、そのためには天使たちがマフィアなみに組織化される必要がある。
There is no reason good can't triumph over evil,
if only angels will get organized along the lines of the Mafia.
――カート・ヴォネガット(1922~2007)『国のない男』金原瑞人訳
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天使のもてなし
――天使は戦わないことで天使でありつづける
――天使が戦うとき、戦いは別の名前で呼ばれる
二〇××年×年×日、東京都心に建つ小さなオフィスビル。
あるオフィスの一室を、ブラインド越しの朝の光が照らしている。
ぼくがデスクに座ってコーヒーを啜っていると、
目の前を若い女性社員が通りすぎ、窓際に並んだ書棚のほうへ歩いていく。
センス良くスーツを着こなした、意思的なまなざしが魅力的な一人の女性。
なんの変哲もない、淀んだ時間が流れる朝のオフィス。
ぼくは退屈にまかせて勝手に妄想してみる。
この女性がいつかどこかで、結婚し、子を産み、育て、
さまざまな出来事に出会いながらも、幸せに過ごしていく毎日の姿を。
魅力的な女性にふさわしい魅力的な旦那。
愛情と分別と気配りが混じり合った平和な家庭生活。
小さな波乱や脱線を乗り越えていく知恵と献身。
経験から学ぶことを知っている謙虚さ。
人生を彩るさまざまな思い出、陶酔、悲しみ、怒り、孤独。
一人の女性の人生を、無数の夢や現実が織り上げていく。
この目の前の情景から、ぼくは妄想の翼を羽ばたかせてみる。
女性がいつか生むかもしれない一人の子どもになりきって、
遠い未来の方から、現在へ向かって逆向きに回想してみる。
三十年後、四十年後、あるいはもっと先の未来から、
成人し、独立し、いっぱしの大人として、
人生を歩んでいる子どものまなざしになりきり、
いまここに立っている若い女性の姿を眺めてみる。
ぼくのまなざしに映っている目の前の情景は、
その子にとってどんな意味と重さをもつのだろうか。
その子が絶対に目撃することができない、
朝の光が包む職場の風景と母なるものの姿。
ガラスで仕切られた会議室、整然と並んだデスク、
パソコンを叩く社員、空調のかすかなモーター音、
壁に貼られたポスター、マニュアルどおりに来客を迎える受付、
空気を揺らす電話のコール、コーヒーをすする音、
おしゃべり、窓の外に広がる高層ビル群と青空。
そうしたすべてが入り交じった風景の片隅に、
若く、未来を輝かせながら働く大切な人の姿が見える。
仮にいまぼくがみているように、この女性が産んだ子どもが、
そのままの情景をみずからの瞳に映すことができるとしたら……
それは、たぶん奇跡と呼ばれるものにちがいないだろう。
いつか自分を産むことになる、うら若い女性である母なるもの。
ぼくはその子どもになり代わり、永遠に失われてしまったはずの情景を、
ありえない奇跡として、いまこの目で目撃していることになる。
すると、ありふれたオフィスの一つの情景が、途端に意味を変える。
この世界は奇跡に満ちている――。ぼくはぼんやりとそう考えてみた。
どんな宗教的なエージェントにも媒介されない、そんなものを召喚する必要もなく、
奇跡と呼ばれるものがこの世を満たしているという端的な事実。
一日一日、一瞬一瞬、この世は奇跡として現象している。
世界には次々に新たな奇跡の扉が開かれ、
奇跡の果てしない連鎖のなかで、ぼくたちは生きている――
そんなじぶんの妄想に少しうろたえてしまう。
ありえない。けれど、それはそうにちがいない……
さらにそこから思いを走らせてみる。
アメリカ人のある作家は、ありたけの皮肉をこめて「人生はクソの山」と書いた。
この世のすべてが仮に奇跡だとしても、一体どんな意味があるというのだろう。
なんと呼ぼうが、奇跡はうんこまみれであり、うんこのリアリティは圧倒的だ。
なんてことはない。
奇跡はそれぞれ同等の権利をもって、お互いの奇跡性を生きている。
奇跡と奇跡は相互に牽制しあい、せめぎあい、打ち消しあいながら、
総体としてフラットで味気ない関係性に着地点を見出していく。
お互いの奇跡性をかき消し、潰し合うように現実は維持されている。
そして多くの場合、奇跡はうんこ以上のひどい現実をアウトプットしていく。
ある小説の一節が浮んだ――
小説の主人公である女刑事エリーは、日々凶悪犯を追いかけながら、
逆に追い詰められた病者のような日常を過ごしている。
ある日、エリーは友人である死期の近いエイズ患者を病院に見舞う。
そして、いつか自分も同じ末路を迎えるかもしれない友人の姿を見て、
悲しみ、おびえ、みずからを振り返り、そして少しだけ安堵する。
「構内の車道を通りに向かって歩きながら、エリーは自分の左腕をつかみ、筋肉や脂肪の確かな丸みと厚みを感じて、ほっとした。何度か、肺が痛くなるぐらい、深く息を吸った。涼しく、重く、湿った空気。木の葉のにおい。排気ガスのにおい。病院の向こう側から漂ってくる川のにおい……。(中略)両腕を振り子のように動かし、両足で軽やかに地面をとらえ、ヒップを悩ましくくねらせながら、そのひとつひとつの動きに心が華やぐのを覚えた。健康な体で、冷たい空気を吸いながら歩く今の自分の姿を、いつの日か、どこかの病院で、強烈なあこがれと共に振り返ることになるのだろうか。病にも、老いにも侵されていない今の自分を……。振り返ったときには、遅すぎるのだ。あこがれを、願いを、力にかえられるのは、今しかない。」
――ミッチェル・スミス『エリー・クラインの収穫』東江一紀訳992年新潮文庫
この街(ニューヨーク)では、正常も異常も、成功も失敗も、
なにもかもが強迫的な出来事として生きられていく。
一人一人の奇跡たちは、ぎっしり書き込まれたスケジュール帳に埋まり、
義務と責任、成功と失敗の観念に脅迫されながら分刻みの日常を送る。
人間を生かす力と人間を滅ぼす力がハイレベルでせめぎあい、
すべての存在に勝敗の決着を迫りつづける街。
むきだしの成功と絶望の化合物のような、世界都市ニューヨーク。
一歩でも道を踏み外せば、冷酷な結末が自分を待っている。
義務と責任を果たすこと、勝者でありつづけることを願いながら、
敗者が無慙な姿をさらす街角を急ぎ足で行き交っていく……。
「ヒマそうですね、××××さん」
澄んだ、天使の歌声のような声がひびく。
書棚から戻った女性は、新しい企画のための資料や本を抱えていた。
ぼくのデスクの前に立ち、いたずらっぽく微笑んでいる。
きっと間抜けな顔をしていたにちがいない。
いきなり妄想のまどろみを破られ、ぼくは表情をつくれずうろたえてしまった。
けれども彼女は、ぼくの反応を決して急がせようとはしなかった。
迷える子羊をやさしくもてなすように、
ぼくが気持ちを立て直すために待っていてくれた。
それはだれにも気づかれないようなほんのつかの間、
天使が一度だけ羽ばたきするような、刹那の時間。
ぼくはその奇跡を受け入れ、天使のもてなしに包まれる。
――小さな休止符が日常の楽譜に書き込まれ
――魂に息継ぎする時間が与えられる
――そして、ぼくは言葉をさがすことを許される
迷える子羊をもてなす、奇跡のようなインターミッション。
差し出された救済の時間が、深い安堵をみちびいていく……
そして、振り出しにもどる。
奇跡であり、うんこであり、退屈であり、冷酷でもある、
いつもと何一つ変わらない現実がまた動きはじめる。
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