(鶴見俊輔編著『御一新の嵐 日本の百年1』筑摩書房)より
(長崎・英語伝習所)町人の子弟も入学をゆるされたが、生徒はかならず両刀をおびるべしという規則があり、学生の気風の下地は武士のものだった。
一八六八年(慶応四年)四月、広運館として出発した当時、誰かの時計が盗まれた。犯人の生徒は切腹を申しつけられた。当時の学生の気風としてはそれを当然のこととして受け取った。一八六九年(明治二年)にふたたび誰かの時計が盗まれた。犯人はやはり学生だった。学生たちは一年前とおなじく、犯人に自刃を要求した。校長はフランス人の宣教師でレオン・ジュリーという。
「あまりにも野蛮すぎる。いまの世に切腹などということがあるべきではない。」
しかし学生たちは、
「こと人道については、われわれは西洋人の教えを受ける必要はない」と主張した。校長は学生の世論に押された。
*「御一新」を担った武士階級(文化)のエートス。血腥い闘争においても、国づくりの使命感においても、学問への情熱においても、神州イデオロギー形成においても、ダイナミックな展開のダイナモが機能していた時代。