『THE JOURNAL』田中良紹の「国会探検」~「これじゃオバマは生まれない」~
http://www.the-journal.jp/contents/kokkai/2009/03/post_178.html#more
(『THE JOURNAL』コメント欄)より
(TBS)金平……某のコラム、永久保存版級のコラムですな。
現在のメディアの自意識がどのあたりにあるかがとてもよくわかる文章です。
これからジャーナリズムをめざそうという学生のみなさんには、田中良紹さんの文章と並べて読むことをお勧めしたい。
「このざまだ」「あきれてものもいえない」とは、「このざまだ」「あきれてものもいえない」という日本のメディアの現在を知るうえで一級の資料として貴重です。
プロとしての視点はどこにもないが、つまり、どこをえぐれば状況の本質が見えてくるかのヒントも皆無だが、自己保全的定型文の実例を学ぶ上では大いに参考になる。
いわゆる情報通のメディア犬のピンナップとして……誰も要らないか。
http://www.the-journal.jp/contents/kokkai/2009/03/post_178.html#more
(『THE JOURNAL』コメント欄)より
(TBS)金平……某のコラム、永久保存版級のコラムですな。
現在のメディアの自意識がどのあたりにあるかがとてもよくわかる文章です。
これからジャーナリズムをめざそうという学生のみなさんには、田中良紹さんの文章と並べて読むことをお勧めしたい。
「このざまだ」「あきれてものもいえない」とは、「このざまだ」「あきれてものもいえない」という日本のメディアの現在を知るうえで一級の資料として貴重です。
プロとしての視点はどこにもないが、つまり、どこをえぐれば状況の本質が見えてくるかのヒントも皆無だが、自己保全的定型文の実例を学ぶ上では大いに参考になる。
いわゆる情報通のメディア犬のピンナップとして……誰も要らないか。
(吉本隆明「ひとびとは美しい言葉でもって」)より
愛と愛とが結びつくために
どんな窓飾りや付属品も無用だ
日のふりそそぐ路上で
かれらは過去のほうから歩いてきて出会ひ
未来のほうへ歩みさればいい
乾いた循環しない情感で
卑小や俗ばった安息に従わない愛で
そのとき歩みさればいい
愛と愛とが結びつくために
どんな窓飾りや付属品も無用だ
日のふりそそぐ路上で
かれらは過去のほうから歩いてきて出会ひ
未来のほうへ歩みさればいい
乾いた循環しない情感で
卑小や俗ばった安息に従わない愛で
そのとき歩みさればいい
(吉本隆明「夕ぐれごとの従属の歌」)より
おう ゆくところのないわたしたちの帰還の おもひ
とまどうひとびとの優しいこころ
この路上はいまも手慣れてゐてしかも未知だ
まるで異国のやうなちがった素ぶりの街々だ
わたしたちはそのなかで刺し殺さねばならぬ
架空のうたと架空の謀議と
たしかなひとつの破局とを
まるで義務であるかのやうに
ひとつの証しであるかのやうに
この夕べごとの従属と屈辱の思ひに形を与へねばならぬ
ひとびとよ
何処かに美しい街角と鋪道とがある
ちいさな夕星と団欒とがある
きっと其処には絶望に形をあたへることのできた仲間たちが
歴史の未明をけ破るように
沈黙と安息とをまもってゐる
おう ゆくところのないわたしたちの帰還の おもひ
とまどうひとびとの優しいこころ
この路上はいまも手慣れてゐてしかも未知だ
まるで異国のやうなちがった素ぶりの街々だ
わたしたちはそのなかで刺し殺さねばならぬ
架空のうたと架空の謀議と
たしかなひとつの破局とを
まるで義務であるかのやうに
ひとつの証しであるかのやうに
この夕べごとの従属と屈辱の思ひに形を与へねばならぬ
ひとびとよ
何処かに美しい街角と鋪道とがある
ちいさな夕星と団欒とがある
きっと其処には絶望に形をあたへることのできた仲間たちが
歴史の未明をけ破るように
沈黙と安息とをまもってゐる
「だまして下さい言葉やさしく」(永瀬清子1906~95)
だまして下さい言葉やさしく
よろこばせて下さいあたたかい声で。
世慣れぬわたしの心いれをも
受けて下さい、ほめて下さい。
あああなたには誰よりもわたしが要ると
感謝のほほえみでだまして下さい。
その時わたしは
思いあがって傲慢になるでしょうか
いえいえわたしは
やわらかい蔓草のようにそれを捕えて
それを力に立ち上りましょう。
もっともっとやさしくなりましょう。
もっともっと美しく
心ききたる女子になりましよう。
ああわたしはあまりにも荒地にそだちました。
飢えた心にせめて一つほしいものは
わたしがあなたによろこばれると
そう考えるよろこびです。
あけがたの露やそよかぜほどにも
あなたにそれが判って下されば
わたしの瞳はいきいきと若くなりましよう。
うれしさに涙をいっぱいためながら
だまされだまされてゆたかになりましよう。
目かくしの鬼を導くように
ああわたしをやさしい拍手で導いて下さい。
(松本健一『北一輝論』1996年講談社学術文庫)より
近代以前、つまり個人主義の成立するまえ、権力は神に属していた。織田・豊臣・徳川などの近世の権力者たちが、いずれもその権力の正統性を神孫―天皇に保障されたと理由づけなければならなかったのは、このためである。明治の天皇絶対制は神孫そのものが、政を行なうという復古と、立憲君主制という近代政治体制の折衷である。ところが、北にとって、彼の掴みとった近代合理主義・個人主義は「神は死んでいる」ことを教えたから、天皇は立憲君主としての意味しかもたなかった。つまり、近代の英雄「国民」の手に権力は残されたのであった。
だがしかし、神なき時代に人間はひとりびとりで生きていかなければならないという至難の問いは、個人主義者を不安と混迷に陥れた。そして、彼らはニヒリズムの沼にのめりこんでいった。十九世紀末のドイツ、ロシアに生じたニヒリズムは、逆に滅びゆかんとする絶対王政を再び招来する役目を果たしもする。けれども、近代の成立が同時に復古の始まりでもあったという日本の特殊性は、神なき時代を経験することなく、天皇絶対制へと収束することにさえなったのである。
近代以前、つまり個人主義の成立するまえ、権力は神に属していた。織田・豊臣・徳川などの近世の権力者たちが、いずれもその権力の正統性を神孫―天皇に保障されたと理由づけなければならなかったのは、このためである。明治の天皇絶対制は神孫そのものが、政を行なうという復古と、立憲君主制という近代政治体制の折衷である。ところが、北にとって、彼の掴みとった近代合理主義・個人主義は「神は死んでいる」ことを教えたから、天皇は立憲君主としての意味しかもたなかった。つまり、近代の英雄「国民」の手に権力は残されたのであった。
だがしかし、神なき時代に人間はひとりびとりで生きていかなければならないという至難の問いは、個人主義者を不安と混迷に陥れた。そして、彼らはニヒリズムの沼にのめりこんでいった。十九世紀末のドイツ、ロシアに生じたニヒリズムは、逆に滅びゆかんとする絶対王政を再び招来する役目を果たしもする。けれども、近代の成立が同時に復古の始まりでもあったという日本の特殊性は、神なき時代を経験することなく、天皇絶対制へと収束することにさえなったのである。
(『シモーヌ・ヴェーユ著作集Ⅲ』「重力と恩寵」渡辺義愛訳1968年春秋社)より
「どんな真空も(受け容れられたものでなければ)、憎しみ、苦々しさ、苦悩、怨恨を産み出す。われわれが心に描き、恨んでいるものの上にふるかかればよいと思っているわざわいが平衡を回復させる。」
「どんな真空も(受け容れられたものでなければ)、憎しみ、苦々しさ、苦悩、怨恨を産み出す。われわれが心に描き、恨んでいるものの上にふるかかればよいと思っているわざわいが平衡を回復させる。」
(R・バルト『表徴の帝国』1970年・宗左近訳1974年新潮社)より
西欧は十二分すぎるくらいにこの法則、つまりはいっさいの西欧の都市が同心円的であるという法則を、心得ぬいていた。だがまた、いっさいの中心は真理の場であるとする西欧の形而上学の歩みそのものに適応して、わたしたちの都市の中心はつねに《充実》している。(中略)中心へゆくこと、それは社会の《真理》に出会うことである。それは、《現実》のみごとな充実に参加することである。
わたしの語ろうとしている都市(東京)は、次のような貴重な逆説、《いかにもこの都市は中心をもっている。だが、その中心は空虚である》という逆説を示してくれる。禁域であって、しかも同時にどうでもいい場所、緑に蔽われ、お濠によって防禦されていて、文字通り誰からも見られることのない皇帝の住む御所、そのまわりをこの都市の全体がめぐっている。毎日毎日、鉄砲玉のように急速に精力的ですばやい運転で、タクシーはこの円環を迂回している。この円の低い頂点、不可視性の可視的な形、これは神聖なる《無》をかくしている。現代の最も強大な二大都市の一つであるこの首都は、城壁と濠水と屋根と樹木との不透明な環のまわりに造られているのだが、しかしその中心そのものは、なんらかの力を放射するためにそこにあるのではなく、都市のいっさいの動きに空虚な中心点を与えて、動きの循環に永久の迂回を強制するために、そこにあるのである。このようにして、空虚な主体にそって、[非現実的で]想像的な世界が迂回してはまた方向を変えながら、循環しつつ広がっているのである。
西欧は十二分すぎるくらいにこの法則、つまりはいっさいの西欧の都市が同心円的であるという法則を、心得ぬいていた。だがまた、いっさいの中心は真理の場であるとする西欧の形而上学の歩みそのものに適応して、わたしたちの都市の中心はつねに《充実》している。(中略)中心へゆくこと、それは社会の《真理》に出会うことである。それは、《現実》のみごとな充実に参加することである。
わたしの語ろうとしている都市(東京)は、次のような貴重な逆説、《いかにもこの都市は中心をもっている。だが、その中心は空虚である》という逆説を示してくれる。禁域であって、しかも同時にどうでもいい場所、緑に蔽われ、お濠によって防禦されていて、文字通り誰からも見られることのない皇帝の住む御所、そのまわりをこの都市の全体がめぐっている。毎日毎日、鉄砲玉のように急速に精力的ですばやい運転で、タクシーはこの円環を迂回している。この円の低い頂点、不可視性の可視的な形、これは神聖なる《無》をかくしている。現代の最も強大な二大都市の一つであるこの首都は、城壁と濠水と屋根と樹木との不透明な環のまわりに造られているのだが、しかしその中心そのものは、なんらかの力を放射するためにそこにあるのではなく、都市のいっさいの動きに空虚な中心点を与えて、動きの循環に永久の迂回を強制するために、そこにあるのである。このようにして、空虚な主体にそって、[非現実的で]想像的な世界が迂回してはまた方向を変えながら、循環しつつ広がっているのである。