ASAKA通信

ノンジャンル。2006年6月6日スタート。

「展開形──世界記述」20200229

2020-02-29 | Weblog

 

展開形のままに──

集合的に保持される世界記述の確定項から逆算するように、
「いま・ここ」のみずからの記述を確定するのではなく、
「いま・ここ」の展開と拡張可能性、推進力を増すように記述すること。

あらゆる存在の世界経験は、
自前の世界記述と並走している。

「肯定-否定」「善-悪」「真-偽」「愛-憎」「美-醜」

現実をコードする固有の記述形式において、
世界を分節し、経験を記述しつつ生きる実存の展開がある。

自己記述、他者記述、関係記述──「世界はこうなっている」

世界を記述しつつ経験するということ。
それは経験からそのつど何らかの〝結語〟を結び、その記述の累積から、
教訓を生み、育て、予期あるいは憧れを立ち上げ、
新たな「ありうる」(存在可能)をめがけて駆けることを意味する。

すべては新たな「ありうる」の展開にかなうように。
さらには、新たな記述形式の更新、探索に開かれてあること。

集合的に記述された一般命題──「かくあるべし」「かくなすべし」。
一般命題すなわち合意項・禁則項・許可項の集積としての社会体。

社会体の帰属主体としての「個」ではなく、
社会体の更新主体としての「個」──すなわち展開形としての「個」のままに。

 

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「not At, but From」 20200228

2020-02-28 | Weblog

 

いつも率直であることはむずかしい
けれどためらいなく言えることがある

「出会えてよかった」

深く刻まれているものがある
けれど、言葉にすることがむずかしい
とどかせる言葉がみつからない

かたちにすることができない
かたちにすることで傷つけてしまう

言葉にしようとすると
おそれか、ためらい
とどまらせるように動くものがいる

なにかが変化している
本質的な変化かもしれない
けれど、すべてはそこからはじまっている

交わした光景がよみがえる
新しい言葉を加えていきたいけれど
まだうまく見つけることができない

しばらく、このまま生きていく
いつもいまを照らすものとして

言葉を黙らせたまま
生きられたものを損なわないように

 

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「Backstage」20200227

2020-02-27 | Weblog

 

 


       *

「可能-不可能」という問いに〝判定〟を下す。
この問いと判定には、つねに生きられる前段がある。

〝客観的〟に審議に付され評価され判定される「世界」は、
いつもすでに、先行して「私」において経験され生きられている。

知覚は動き、情動は走り、世界は開かれ、
心はさまざまに色めき立ち、思考はめぐり
知(言葉)はおくれてカタチをむすぶ。

現象する世界のただ一つの場所、「個」(実存)。

問うより先に、問いを生み出すように。
そのつど、意識に火を点すように世界は現出する。

世界を経験するということ──世界の訪れ、その現象の本質。
すなわち世界が現象するただ一つの場所、意識の水面(実存)。

明るく。暗く。浮かれ。沈み。沸き立つ。
さまざまな波立ちとともに世界の色合いも感触も変化する。

経験される世界は、つねに「私」の欲望の姿を映している。
欲望──次の「ありうる(存在可能)」をめがける「私」の根源的な願い。
このことが固有の姿として世界を現出させるただ一つの動因を意味する。

欲望が変化すれば世界の姿も同時に変化する。
そのつどの現われとしての世界の姿は、
そのまま、そのつどのみずからの欲望の鏡である。

ただ一つの、どんな存在にとっても、どんな欲望にとっても同じ世界、
絶対的な同一性を維持する客観世界というものは存在しない。
それはただ想定としてのみ可能な世界にすぎない。

にもかかわらず、この想定が共同化され共有されることで関係世界は成立する。
われわれは同じ世界に生きている──この想定をいったん外すこと。

なんのために。みずからの欲望(世界)の現われに直面するために。
みずからの生成の始原の場所を照らすように、想定のベールを外す。

なんのために。世界の現われが現象するただ一つの場所、
すなわち「私の意識」の水面にとどまり、
世界の生成から共同化のプロセスと展開の本質を目撃するために。

なんのために。「私」の外に存在する客観世界という想定によって、
われわれのあらゆる経験がゆがむことを回避するために。

想定された客観世界から逆算して「私」の経験を照らすのではなく、
「私」の生から客観世界を照らすために。

個に先行する世界の実在という想定がみちびく、
「この世界」というものの誤認と誤用、
個の制圧と支配にいたる恣意的乱用の根拠を壊しておくために。

すなわち──
「子は母を生むことができない」という原理を胸に刻むこと。
そのことで「子」(客観世界)という想定を健全に育めるように。

 

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「少年」 20200226

2020-02-26 | Weblog

 

秋空の夕ぐれに
少年の心は溶け 
哀しみとせつなさが溶け
苦しみが溶け

やがて光が閉じられ
永遠の遠ざかりを告げる
きよらかな喪失の光景に
すべての「feel」が溶けていった

黄昏の光景から延長された
なにもない星空に
まなざしにトレースされて
光と光を結ぶ物語が浮かび上がる

心は透きとおり
地上にとどまれない感情が
明滅にあわせてスキップする

かりそめの時間を埋めるように
星々のまたたきの彼方から
ひとつのシグナルが告げていた

おとなたちも仲間たちも知らない
じぶんだけの孤独とひきかえに
すこしだけじぶんだけで感じ
すこしだけじぶんだけで考えられる
なにかがあることを

   *

日一日と、地上の悲しさ美しさ、出会いとわかれを残らず胸に納めながら、
少年はハンターとして、無数の死のトラップに抗するサバイバーとして、
未踏のフロンティアを羽ばたきの地平として切り開いてかなければならない。

試練が待ち受けている。愛が待ち受けている。
悲しみが、歓びが、怒りが、畏れが、切ない感情が、苦しい孤独が、
それら一つ一つが世界との関係を知らせるアラームとして心を訪れる。

危機を告げる「feel」が身体を走り抜けるとき、
新しい接続のラインを速やかに走らせなければならない。
否定のシグナルを「Yes」のシグナルに変換しなければならない。

魂にとってこの世の何が素敵なことかはもうわかっている。
魂を縛りつける接続ラインは果敢に切断しなければならない。

光と影が織り上げるこの世の風景には、
天使の囁きと悪魔の囁きが混じりあい、
天国にも地獄にも分岐する道が縦横に走っている。

もつれあう予期とリアルと夢と謎を解きほどいていくように、
少年はこの世のすべての風景にハンティングのまなざしを向ける。

 

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「主体性の再獲得」 20200225

2020-02-25 | Weblog

──モーリス・メルロー=ポンティ『知覚の現象学』竹内芳郎ほか訳

 「私の身体をしてけっして一つの対象ではなく、
  けっして「構成されたもの」ではなくしているゆえんのものは、
  私の身体とは一般に対象が存在するようにさせているもの当のものだ」

        *

世界は意識を襲い、意識はその対象化の本質から「私」と「世界」を分節し、
この二極の構造を、意識はみずからの思考と経験、その展開のフィールドとして定める。

「こちらに私がいて、向こう側に世界がある」

この世界経験の根本的な構図を胸のうちに沈めることで、
「私=主観」と「客観世界」という観念が「私」のなかに生まれ定着することになる。

意識にとって世界は所与される。つまり、意識が関与しないかたちで意識に訪れる。
しかし一体、この意識に対して世界を所与する主体とはなにか。だれなのか。

端的に所与する主体は「私」以外にはどこにも存在しない。
このことをどう理解すればよいか。

世界は意識の水面に出現する。向こう側から世界や訪れ、意識を直撃する。
意識にとって、それは〝受動的〟な構造として現象する。
それゆえ、世界は意識=主観の外にあるものとして認識される。
したがって主観と客観世界という「内-外」という分節は、意識にとって必然的である。

ところが世界を所与するもの、所与という作動を担う主体は、
「私」という存在以外にはどこをさがしても存在しない。

すなわち世界を経験する一連の過程は、すべて「私」という存在において現象する。
いいかえると、こうした世界経験の一切の展開は、
私の意識を含む私の存在全体の〝能動的〟な作動以外ではありえないことを意味する。

        *

ある意味で、自作自演としての世界分節の構造、すなわち「主観-客観」図式。
そしてこの世界経験の秩序性から可能になる、
人間的意識生の世界経験の展開の独自性とは一体何なのか。
このことのもつメリットとデメリット。
あるいは、獲得されるものと失われるものとは何か。

 

 

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「関係」(参)

2020-02-24 | 参照

──G・ベイトソン『精神の生態学』佐藤訳

   心理学では、関係と言う抽象的存在をメッセージで記述出来る何かであるように扱う事が多い。
   「依存」とか「敵意」とか「愛情」とかいう、なんらかの実体めいたものがあって、
   それを[“I love you”その他の]メッセージが“表現”する、というふうに。
   この認識論は逆立ちしている。

   交わされるメッセージに先行して関係があるのではない。
   メッセージが相互に組み上がり結び合って行く、そのコンビネーション・パターンを、
   言語的コードによって記述したものが、たとえば「依存」であるわけである。

   われわれは言葉にすっかり酔ってしまっている。
   その酔いを醒ます一つの良い方法は、われわれが哺乳動物の一員だと言う事を思い出す事である。
   人間以外の哺乳動物は「情感の認識」に依っている。
   ネコは「ミルク」と言う代わりに、(人間が言葉の中で「依存」と呼ぶ)交換パターンの一端を演じる。
   その一端に自らなるのである。

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「戦っているあなたへ」 20200223

2020-02-23 | Weblog

 

それぞれの生の主戦場があり
どの戦場とも重ならない固有の生の位相がある

課題はつねに具体的であり実践的であり
どんな一般化とも無縁の一回的状況がある

現実を切り取って解釈に収める外部の視線
一般化された言葉が触れることができないリアルがある

それぞれの戦いの軽重、優劣、階梯を測る
普遍的なモノサシは存在しない

戦いの全時間、全行程
その固有の歴史の全域に立ち会い
目撃している存在はどこにもいない

ただ一人の、一回的な、二度と生きられない
かぎりある命の戦いの日々があり
そして、それぞれの憩いの方法と場所がある

いちどきりの、永遠に再演されない
だれもとって代われない戦場にある者同士として

それぞれの生の航跡が交差する場所
戦うもの同士として出会い、エールを交換する位相がある

この位相でエールが交換されるためには条件がある

戦いのリアルは一つではない
戦う者同士として、それぞれの戦いのリアルと直列したまま
エールを交わすことはできない

第三の領域──
戦うことへ誘うもの
戦いが最後に見出そうとしているものではない
あらゆる戦いを貫いて戦いへ向かわせる理由

戦う目的であるもの、戦いがめがけるもの
たどり着きたい場所そのものではなく

戦いのリアルが生の全域を呑みつくし
戦いそのものが目的となり、世界とならないために

いいかえると、〝よく戦う〟ために
戦いがたずさえていなければならないものがある

戦いがみちびく困難、苛酷、苦悶に先んじて
あらゆる戦いを駆り立てている人間的生の原理があり

そのことの了解を条件としてはじめて開かれ
交換可能になるエールの位相がある

 

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「システムの柔軟性」(参)

2020-02-22 | 参照

 

──G・ベイトソン「都市文明のエコロジーと柔軟性(1970)・佐藤訳

社会的柔軟性というものは、オイルやチタンに劣らず貴重な資源であり、
(サナギが脂肪を使うように)必要な変化に当てられるよう、
その〝予算〟の作成には細心の注意が払われなくてはならない。
柔軟性を〝食う〟のは、大まかにいって文明内の増殖的(regenerative)な、
エスカレートするサブシステムであるから、それらの最終的抑制を図ることが肝要になる。

Social flexibility is a resource as precious as oil or titanium 
and must be budgeted in appropriate ways, 
to be spent (like fat) upon needed change. 
Broadly, since the “eating up” of flexibility 
is due to regenerative (i.e., escalating) sub-systems within the civilization, it is,
 in the end, these that must be controlled.

 

食べることの誘因が多岐にわたるということは、
この生命維持に欠かせない行為が、きわめて広い状況で、
またさまざまな圧力の下で、間違いなく生じることを確証するものである。

もしそれが、血糖値の低下だけの直接的コントロールの下におかれていたとしたら、
その一つのコミュニケーション経路に何らかの異変が起これば簡単に死に瀕してしまう。
生命にとって本質的な機能は、単一の変数の支配に任されてはならない。
〈文明=環境〉システムのプランナーは、この鉄則を心すべきだろう。

The multiple causes of eating are likely to ensure the performance of this necessary act 
under a large variety of circumstances and stresses whereas, 
if eating were controlled only by hypoglycaemia,
 any disturbance of the single pathway of control would result in death. 
Essential biological functions are not controlled by lethal variables, 
and planners will do well to note this fact.

 

 

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「Backstage」  20200221

2020-02-21 | Weblog

 

手に負えない関係状況
糸口の見えない解決法
絡みに絡んだ信念対立
形を与えられない不安
見いだせない存在可能

不可能が聖域化して
諦念が世界を呑み込むまえに

万策尽きて
現実論理、暴力原理に席を譲るまえに

つねにそこにとどまり
ていねいに結んでおくべき
まなざしの焦点があり

みずからに現象する世界
一切の意味と価値の生成の拠点がある

    *

 ――シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』

     どんな行為も、その対象の面からではなく、
     推進力の面から考察すべきである。
     「どんな目的で?」ということではなく、
     「どこにみなもとを発するか?」が問題である。  
           

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「Call and Response」

2020-02-20 | Weblog

 

「call&response」が消えるとき「関係」はバインドされる。


開かれた対話をつうじた連続的な二重記述、マルチ記述の展開において、
個(単眼)では実現できない〝世界の奥行き〟、関係のエロスが生成しつづけていく。

〝世界の奥行き〟が生成するには、個(単眼)の生が十全に生きられ、
十全に生きられる固有の経験と経験が出会うこと、

相互に相手の世界経験を資源として活かしあうことが条件になる。

個と個のへだたり(差異)においてのみ生成する「世界の奥行き」がある。
「個」の「個」による受容。リスペクト。みずから経験できない経験をしている他者。

一つの運動、関係プレーとして「call&response」。
「関係」のたえざる編みなおしの契機の連続的展開としての「call&response」。

「わたし」にとって、大事な資源として存在しうる「他者」の経験。
そして資源として活かせる範囲を確定する「わたし」の経験の質がある。

動的なゲーム。経験の交換ゲームとしての「call&response」。
相互の承認にもとづく、相互資源として生きられる固有の経験のトランザクション。

「call」も「response」も無限のバリエーションにおいて生起する。
言葉、言葉以前、身振り、手振り、表情、沈黙、接近、遠ざかり、……。

受信可能なもの、受信不可能なもの。
そのすべてを知りえないという不可能性、それ自体を資源として展開する関係プレー。

相互に相手の「非知性」を根拠に置く「知」(こころ)のあり方が存在する。

 

 

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「世界経験」 20200219

2020-02-19 | Weblog

 


すべては「非知的な訪れ」から始まっている──
いいかえると、われわれの一切の経験は、意識が関与しない、
いわば〝襲撃〟としての世界の訪れを始発点とする。

知ることより早く駆けている作動があり
知ることに先行して
知ることを促す生成的な触発がある

知ることの手前で
知ることに火を灯す
由来をたどれない始原の発火
すなわち「世界の訪れ」がある

つねに、すでに
いま、ここに

知として関係するよりまえに
理として解釈するよりまえに
知と理を走らせることをうながす
意識の水面で現象する
すでに色づいた〈世界〉との出会いがある

知覚は動き
情動は走り
世界は開かれ
心は泡立ち

言葉はおくれて形を結ぶ

意識の水面に現象するものとしての〈世界〉。
この原理が示すのは、事実(実体)としてではなく、
つねに意識において現象し、そのつど生成的に像を結ぶ世界である。

主観のうちにおいて現象する〈世界〉。
主観が経験する世界とは、この〈世界〉以外にはありえない。

世界を主観から切り離された絶対的外部と捉えること──
すなわち世界を一つの実体(客観)、動かしようのない自明なものとして捉えると、
世界の生成的本質が見失われ、
認識はつねに実体(客観)をめぐる「正-誤」を問うものになる。
あるいは実体(客観)を捉えることの「可能-不可能」をめぐって展開する。

「正-誤」「可能-不可能」を問うことが妥当性をもつためには、
主観はあらかじめ主観の外で出て「客観」と出会っていなければならない。
しかし主観は主観の外に出ることはできない。
     *
この原理から導かれる「客観」の本質──

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「ライン──世界記述、分節原理」 20200218

2020-02-18 | Weblog

 

世界にはつねにラインが走っている──
世界に「快-不快」「グッド-バッド」「キレイ-キタナイ」の分節のラインを走らせ、
世界を記述に収め、「価値あり-価値なし」のインサイドとアウトサイドを定める。

生存にとっての世界、その価値と意味の構成をみずから描き出すこと。
すなわち世界の姿を定立し、生存をかけた企投の方向を定めること。

生命はみんなそうしている。人間も生命の一員としてそうしている。
それぞれの生命にはそれぞれに固有のラインの記述形式があり、
ラインによって描き出された固有の世界像が生きられていく。

人間のラインの記述形式の際立った特性──引き直し可能性。
ラインの引き直しの可能性が人間的生の固有の可能性と照応している。
いいかえると、定立された世界像は描き直される可能性を潜在させている。
         *

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「ルール(法)修正」 20200217

2020-02-17 | Weblog

 

ルール(法)はその妥当性を判定可能にする〝外の視線〟を必要とする。
ルール(法)の外から向けられる、たとえば「悪法は法に値しない」という視線。
この法を修正へ向かわせるまなざしは法そのものには内在しない。

個(実存)がみずからの内的ルールを修正に向かわせるとき、
内在する外部(他者)の存在、まなざしがその契機となる。
他者の存在とまなざしをみずからに迎え入れておくためには、
異質な価値や生き方、関係の可能性に開かれていなければならない。

空気を読むことでも、そんたくすることでもない。
単にそれは特定の共同体的ルールにみずからすり寄り帰属することを意味する。
(確定記述への従属。自明性への埋め込まれ)

自己と他者の対等な対話をみちびく相互的な信頼をベースとして、
相互の自由の展開を拡張可能にする新たな関係の創出へ向かう意志。

そこにはつねにルール(法)に先行する「存在可能」(関係可能)への予期と、
ルール(法)の書き換え可能性に開かれた関係のゲームの探究、
それを担うプレーヤーとしての主体的な関与性がある。

     *

――ポール・ワツラウィック他『変化の原理 CHANGE』長谷川啓三訳

「システムそのものの変化すなわち第二次変化を伴わないようなシステムを、
 終わりのないゲームに陥ったシステムと呼ぶ。
 それはそれ自体からはそれ自身の変化のための条件を生み出さない。
 またそれ自身の変化のためのルールを生み出さないのである。」

「同じことを今少し哲学的にいうと、
 我々自身を現実と呼ばれるルールに従うコマと考えるのか、
 我々自身がそれを作り、受け入れている限りの「現実的な」ルールに従って
 ゲームをやっているプレイヤーと考えるかの違いなのだ。
 後者はしたがってルールの改変はいつだって可能なのだ。」

 

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「ことば──関係項」   20200216

2020-02-16 | Weblog

 

世界を記述する──
たとえば、気温20℃。気圧1000ヘクトパスカル。1+1=2。水曜日、午前3時。

多層な構成をもつ世界の各層に対応する多様な記述形式があり、
そのすべては広義の「ことば」のさまざまな展開形式が対応する。

ことば──関係世界という関係のゲームを可能にする「関係項」としての本質。
いいかえると個と個を結び合わせる集合的な〝用在〟として生成した「ことば」。

関係のゲームにおいて、個(実存)の世界経験は「ことば」に媒介され、
共有可能な「ことば」の構成=関係項の実現をめがけるように変換される。

世界の多層性はそのまま、個(実存)における世界経験の多層性に対応している。
個(実存)の世界経験の固有性、私性、多様性、多層性を、
いかに個(実存)と個(実存)において交換可能、合意可能な記述形式にもたらすか──
あらゆる関係企投(関係プレー)はつねにこの課題をたずさえ遂行されていく。

個(実存)の世界経験を、交換可能なもの共有可能なものにするいとなみは、
その過程から「ことばの歴史」を積み上げ、再編され、更新されながら、
いまもそのプロセスの歩みのなかにある。

世界の多層性すなわち個(実存)の世界経験の多層性に対応する記述形式の多様性。
それぞれの層における記述形式の追求と展開からさまざまな記述の系が生成する。
──科学・数学・医学・法・宗教・芸術。

すべての系をつらぬく世界記述の本質──「関係項であり、生成である」という本質。

 

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「80年代、世代の言葉」 20200215

2020-02-15 | Weblog

 

 


「筋書きの決まった宴に衰弱した感情をたしかめる。
 人間讃歌と罵倒。友情と裏切り。信頼と軽蔑。
 信じられないような無数の抱き合わせの中で、
 それと意識できないままに悲惨を生き、
 そして不正を告発する一切の契機を見失いながら、
 絵に描いたようなトンマな男と女を生きていく。

 一つの公定価格を胸に抱いて、自ら確かめながら、
 すべてがすべて既製服で自分を飾る。
 あれこれ斟酌凝らして、自らを生活の前に敷かれた大道へと諌めつづける。

 実用に過不足なく提供されるもの、伝統と習慣はいつも偉大な教育者だった。
 日常はまことに、そのために準備され、人はそれに従ったにすぎない。
 否定性を導き入れるような契機は、人には与えられはしなかった。

 しかり。それだからこそ、マシンに別のイノチが加わる。
 マシンによって目醒めらさせられた自律性が、一日の最後になって生活をはじめる。
 深夜にのみ開かれた世界という限定が、マシンの解放性に皮肉な彩りを添える」

 

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