ASAKA通信

ノンジャンル。2006年6月6日スタート。

「聖性 Where Angels Fear to Tread」

2013-09-27 | Weblog

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            ある種のノン・コミュニケーションは〈聖〉の維持に欠かせないものとわたしは考える。
            そうした場合コミュニケーションが望ましくないのは、それがこわいからではなく、
            コミュニケーションが何らかのかたちで観念(idea)の本質を変化させてしまうからである。
                                   (ベイトソン『天使のおそれ』p145、星川淳訳)

            もし包括的存在の諸細目をこまかにしらべるならば、意味は消失し、
            包括的存在の観念は破壊される。…またピアニストは、指に注意を集中させるときには、
            動作が一時的にそこなわれることになろう。部分をあまりに拡大してしらべるならば、
            パターンとか全体相が見失われることになる。
                                   (M・ポランニーi『暗黙知の次元』p36、佐藤敬三訳)
        

         言及することができない、あるいは禁じられているのではなく、
         言及することでそれを構成している全体のコンテキストが変質し、
         それなしでは生きられない体験の直接性と意味性が失われるもの――
         あるいは認知の再帰的な特性に馴染まない一回性と共にあるもの―― 
                    それを迎えるためのある種の生命的な礼節において出会われるもの、例えば「美」(という経験)。

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「花とミツバチ」

2013-09-25 | Weblog

       
       秋になると聴こえてくる
 
       羽音と交わるように
       花ざかりの河原から聴こえてくる
 
       無音の調べは
       メッセージを奏でながら

       風にゆらぎ
       光に染まり
       木々を洗い
       水面に弾け

       透明なさざ波になって
       秋の風景に溶けていく

       「すべてはあなた次第よ」

       気がつけばいつも
       いつのまにか
       花ざかりの河原を飛んでいる

       たなびく雲の影にじぶんの影が重なり
       草むらにふるさとの匂いが満ちてくる

       空は晴れわたり
       澄んだそよ風に

       コスモスの花が揺れている

 

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「レンゲ畑」

2013-09-21 | Weblog

 

 

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「Animate/Inanimate」

2013-09-20 | Weblog

 

 

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「SOCCER 7」

2013-09-18 | Weblog

 

 

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「2020東京五輪~大嘘のツケ」

2013-09-16 | Weblog

 

    【大嘘のツケ】

     最後の最後、国際部隊駐留、二度目の東京裁判もありえないことではない。

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「SOCCER 6」

2013-09-15 | Weblog

 

 

 

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「Another Galaxy」 1

2013-09-14 | Weblog

 

 

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「司祭たちのコトバ」

2013-09-13 | Weblog
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「〝あゆみ〟の言葉」

2013-09-13 | Weblog

 

小知恵はあるのです

小綺麗なうえに

小金だってあります

 

あり余るカインドネス

失くした財布は戻ってくる

 

おのれを空しくする和の作法

他国がうらやむ協調のふるまい

 

濃厚な礼と謙譲のもてなし

生活態度、マナーはほぼ満点

勤勉の含有率だって高いのです

 

センセイが呼び掛けると

一斉に「は~い」と応える

返事の仕方も立派です

 

ふるまいをやさしく

幽玄に心をとめる

自然に対する応答も見事です

 

クオリティの高さと均質性

ゴミ一つにも心を配る清潔観

すべてに並ぶものがありません

 

いわんや豊かな国土

電気は足りている

使える資源も十分あります

 

こんなに出来すぎなのに

やんぬるかな

いかんせむ

一番大事なものが足りません

 

食材はあふれてる

据え膳もあふれてる

ところが一つのレシピが見当たりません

 

給食を食べすぎたせいでしょうか?

 

ほんとうに食べたいものを

みずから作って食べる

ほんとうの知恵のレシピが起動しません

 

「とりあえずビールね」

 

みんながみんなそう思うだろうって

みんながみんな考えているはずだ

と、一人一人が考える

 

おのれを空しくし過ぎる余り

本当に食べたいもの飲みたいものが

迷子になってしまうのかもしれません

 

迷子であることの意味も

迷子であることの自覚も

すべてが迷子の可能性さえあります

 

センセイの教えに忠実な余り

給食以外の味覚もじぶんも世界もまるごと

所在がわからなくなるのでしょうか?

 

超絶のチューニングとシーズニング

ご自慢のセレビリティ御用達

豊かさの指標はあちらこちらに溢れます

 

食べたことないのに本当でしょうか?

食べた後でも本当でしょうか?

 

出来すぎのパラドクスかもしれません

麗しい美徳のジレンマかもしれません

 

いつも、いつのまにか

人前で「まずい」は禁忌の言葉

 

「まずい」といえる仲間たちには

「だまれ」という声さえ上がります

 

否定を経由して新たな肯定へ赴く

大切な回路が閉じてしまうのでしょうか?

 

「好き嫌いを言わずに給食は残さず食べましょう」

 

クラスの完食記録に貢献するために

食べてはならないものを食べたために

死んでしまったアレルギーの子供もいました

 

おまかせレシピだけで

お腹も心も一杯一杯になってしまって

これ以上考えることがフリーズします

 

出会ったことのない料理に囲まれると

どっと疲れがあふれて

チャレンジする心が萎えてしまいます

 

だれかが決めたわけでもないのに

だれも信じてないかもしれないのに

立て込んだ約束事に潰れてしまいそうです

 

あれやこれやそんなこんなで

ヘトヘトに疲れてしまって

 

いつのまにか食べること

生きることすべてが

空しくなってしまうのかもしれません

 

小さな不安がドロドロと積み重なって

しかたなくなんとなく

じぶんよりも〝おバカ〟を探し出す

 

みつけたつもりでホッとして

だんだん強気に居丈高になって

じぶんが本物のバカちんになっていく

そんなことも起こります

 

じぶんを修正するのはとても面倒です

誰かをバカだと決めつけて

じぶんを修正せずに安心するのは簡単です

 

「じぶんってヘン?」

 

ところがその一方で

反省しすぎる特性も気になります

センセイが怖いからでしょうか?

 

食べることばかりではありません

あれやこれや不安になると

いつもどこかにいるはずの

〝偉いセンセイ〟を探す傾向も重篤です

 

みつけた偉いセンセイに心を許して

人生まるごとおまかせになって

あれよあれよと、めぐりめぐった最後の最後に

本物の地獄につれていかれてしまう

 

言い過ぎでしょうか?

 

今日も明日もおまかせお料理を食べて

おバカ探し、センセイ探し

そんなのばっかりで一日が暮れていく

ああ、人生も暮れていく

 

あなたが心から食べたいものは何ですか?

 

かけがえのない資源も

ひそやかな思いや願いも

最後にはすべてがすべて

 

台なし

持ち腐れ

見殺しのまま

 

もろとも落日を迎えるって

本当に、本当に

絶対にナシにしましょうね

 

 

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「手にむすぶ」 201309012

2013-09-12 | Weblog

 

     いとにからみからまれほつれあひ

 

     むすびむすばれちぎりちぎられし

 

     かりそめならずやわれもおんみも

 

     ひかりあるやなきやのうたかたに

 

     つたなくめめしふさはこひこがれ

 

     すかれきらわれあいしにくみあふ

 

     あやなきよのことわりつれなくに

 

     しのぶれどうたてうらみつらみに

 

     かなしみねたみひそみものぐるい

 

     よろこびいかりなげきうみそだて

 

     こころあらばあはれにはかなくも

 

     なでかころしころされさしちがえ

 

     いづこよりきたりていづかたへか

 

     まにまにであいわかれすれちがひ

 

     よしなきたまゆらともにいきしに

 

     いまわのはてにいとどなつかしき

 

     あかずみじかよのみはてぬるゆめ

 

 

 

 

 

 

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「エントロピー/負のエントロピー」

2013-09-06 | Weblog


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「コーディング」(参)

2013-09-05 | 参照


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「みんなの学校」 20130901

2013-09-01 | Weblog

ピッピッピッピッと分列行進の笛の音が頭の中で鳴っています。

実直で折り目正しい小国民を輩出しつづけた伝統のドリルは、
若い世代の再生産メソッドとして大切に受け継がれています。

  「隊列を乱してはいけません」

本当はイヤでイヤで仕方がない心の悲鳴を打ち消しながら、
〝気をつけ〟の姿勢のまま大人になってしまう子供がいます。

成長するための大切なエクササイズだと真面目に信じながら、
〝全体止まれ〟の獅子吼に魂を抜かれてしまう子供もいます。

  「これからは個性を育む教育が大事です」

じぶんが何を語っているのかわからないままセンセイたちは、
伝言ゲームに似た上意下達の言葉を子供たちに浴びせました。

誰が信じているかわからないコードを懸命に埋め込むように、
センセイはこわもての顔を作って一杯笛を鳴らしたのでした。

  「みんなちがってみんないい」

ちがっていいと同じがいいという相矛盾する命題が、
一つのメッセージに込められると心は引き裂かれます。

引き裂かれた心は出口を求めて探索を開始しますが、
行進ドリルの現実は列から外れることを許しません。

  「いま笑ったヤツ、一歩前に出ろ!」

脳ミソに分列行進のアンカーが埋め込まれたのでしょうか。
心臓がドキンと鳴ってからだがピクピクッと反応します。

〝進め止まれ〟の号令で校庭を一周二周と行進するごとに、
精神の淵をアンカーは深く深く降りていったようです。

  「あの子がいると列が乱れる」

沈んだアンカーはやがて子供たちの関係にも割って入ります。
センセイ不在でも機能するよう行進のコードは身体化します。

より深くアンカーを沈めて行進スキルに習熟した子供たちは、
隊列の順位を上昇して次世代のセンセイとして選抜されます。

  「全体駆け足、はじめ!」

うまく行進に参加できない子供たちは一人夜空を見上げたり、
語られることのない詩の世界を開いて自らを守ったりします。

伝統の行進ドリルに記述されたコードやプログラムでは、
魂の動き回るスペースとして狭すぎると感じるからです。

  「大変よくできました」

分列行進の外に一歩も出られない子供たちにとって、
〝できる/できない〟という判定の威力は圧倒的です。

センセイは何を学べと教え何を学んでならないと教えるのか。
学習の構えを指定する外部的まなざしが常時接続されます。

  「だめじゃないか」

センセイから一番言われたくない言葉を回避することが、
日常のすべての行動の最優先の課題として貼り付きます。

よい/わるい・ほんとう/うそ・きれい/きたないという、
価値フレームを決するメタメッセージが伴う点も重要です。

  「あの頃 きみは若かったぁ♪」

みんなで隊列を組んで歩くことにはボーナスも配分されます。
季節を区切る儀式にやどる不思議な変換作用がその一つです。

どんな時代や環境を生きてもノスタルジーの種子は成長します。
蒔かれた種子は根を伸ばして葉をつけ記憶の果実を実らせる。

  「仰げば尊し わが師の恩」

問わず語りのうちに誰もが訪れてしまう懐かしさの圏域こそが、
悲しい歴史を忘却と反復へとみちびく母体なのかもしれません。

厳格な行進ドリルの記憶はいつしか共通の郷愁へと相転移して、
上品に角を丸くした一つのフレーズの中に溶けてゆくのでした。

  「みなさんそうしてらっしゃいます」

ハードプログラムされた日常習慣は意識の水面に浮上しません。
みんなが顔を向ける方角に〝正解〟を見る心性もその一つです。

みんなの範囲はさまざまに分岐して対立することもありますが、
コミュニケーションは同型のモードに担われるようにみえます。

  「センセイが教えてくれる」

いつも〝正解〟を知るセンセイがいるという学習の経験は、
センセイの存在なしに起動しない学習形式を自明化します。

いつもどこかに必ず正解を知るセンセイがいるという信憑は、
みずからの思考から遠ざかり魂に空洞を生むことになります。

  「おまえに聴いてねえよ」

センセイを求める精神は生涯を通じ〝一生徒〟として過します。
正解を授けるのはセンセイであり生徒にその資格はありません。

センセイ-生徒という関係図式は階層的構造として積み上がり、
その頂きに聖性を帯びたスーパーなセンセイ像が析出されます。

  「大御心を拝して奉る」

聖なるセンセイ像は多様な表象に転移して魂の空洞を埋めます。
転移対象は人やイデアや神や国家や〝みんな〟でもありえます。

例えば〝大御心〟に外部接続されて正解を仰ぐ生徒にとって、
みずからに内発する価値は二義的なものに過ぎなくなります。

  「みんなで決めるたことが正しい」

みずから考える価値が下落すると空洞はますます拡大して、
外部との接続関係がさらに強化されるという循環を生みます。

センセイを中心に設計された行進プログラムの外側で、
自然的生活圏が消滅していく状況も事態を加速します。

  「みんながほしいものがほしいわ」

内なる空洞-外部接続による補てんという精神の回路は、
消費する私-供給する市場という関係とよく馴染みます。

じぶんが本当に欲しいものが何なのかわからなくなるほど、
〝みんなが欲しいもの〟を教えて導く市場は活性化します。

  「冷温停止状態を宣言します」

精神の空洞にはセンセイのビジョンが凝集して結節点をつくり、
みんなをナビゲートするテクニカルなメッセージが生成します。

どんな時代にも自らセンセイを名乗る人間や集団が現われ、
みんなの心にめまいを誘う呪文のコトバを鳴り響かせました。

  「空に神風、地に肉弾!神洲ニッポン」

じぶんから遠ざかる乗り物は有形無形の登録遺産として、
無数のバリエーションにおいて社会に埋め込まれています。

みんなが通うガッコウは最大かつ最強の乗り物の一つであり、
センセイと呼ばれる人びとがその担い手であり続けました。

  「五族協和、八紘一宇、悠久の大義」

子供も大人も参加する巨大なマスゲームの歓喜と陶酔が、
カラカラに渇いた空洞を満たすという仕組みは普遍的です。

あえて情報の回路をシャットダウンして真空地帯をつくり、
操作的な命題を代入するという動員のテクネーも健在です。

  「電気が足りない。経済がもたない」  

知るべきことを知らないまま生きられる接続の形式があり、
知らないことで享受される幻想の豊かさと安寧があります。

みんなに一斉召集を促す魔法の言葉はいまも世界に溢れます。
真空を埋める啓示に対する根強いニーズが存在するからです。

「おまかせください!百年の絶対安心プラン」

歴史はメカニカルにプログラムされた必然の推移として語られ、
メッセージは必ず天国と地獄の二者択一の形式で届けられます。

もはやアナクロとされる神話世界のベタな表出は滑稽ですが、
精神の空白を充てんする機能言語はメカニカルに存在します。

  「一億一心、食べて応援しましょう!」

〝オレに従え〟と叫ぶより〝みんなそうしてます〟と呟くのは、
精神に沁み渡る浸透力が格段に強力かつ有効性が高いからです。

〝みんなそうしてる〟という〝みんな〟とは一体誰のことでしょう?
一人に先行するみんなという言葉は本当に実体をもつのでしょうか?

「世界ニ一ツ神ノ国。我国体の明徴を期す」

危機の時代には〝みんな〟の凝集を促す過剰な表出が溢れます。
機能的には行進を制御する笛の音を言語化するものと言えます。

客観的な事実として強弁される〝神ノ国〟がどこにあるのか。
神を見た人間が本当にいたのかどうかは永遠に謎のままです。

  「キサマ!それでも日本人か」

ところが検証不可能な神話が真実として信憑され生きられると、
それを正当化する行為のみが選択される回路が出来上がります。

神話に見合う行為連鎖が実体を動かして信仰が強化される。
そして信憑された神話世界を否定することは罪とされます。

  「ドレミファソラシドは、イロハニホヘトと唄いなさい!」

みんなが信じるとみんなが信じる〝神ノ国〟に類するものはどこか、
漫画の吹出し線に囲まれたエクスクラメーション記号にも似ます。

吹き出しの中に記述される文字は任意に書き換え可能ですが、
生きられる現実の構成がそれを自明の前提として固定します。

  「欲しがりません、勝つまでは」

検証不可能な価値を含め一つの社会の思考が歴史的に累積され、
みんなの範囲や特性や行動を拘束する総体が文化と呼ばれます。

吹出し線が囲んだ神話的象徴は正統性保持の起点として機能し、
文化的同一性を自己維持するための言葉が次々に派生します。

  「いたずらに不安を煽ってはいけません」

一人で歩くことを一度も経験しなかったかつての子供たちは、
一人で歩く人たちを悠揚と受容することが不得意なようです。

ひとたび想定外のノイズやランダムネスに遭遇したとき、
緊急の消火活動にも似たメッセージが一斉発信されます。

  「ただちに災いがおよぶことはありません」

一度も行進の隊列を外れたことのないクラスの仲間たちは、
吹き出しの輪郭から外れないよう必死なのかもしれません。

それとも整然と区画された生産ラインのどこかで、
孤独な戦いを人知れず生き抜いているのでしょうか?

  「秩序が許す限りにおいて自由を保証する」

自由エネルギーを抑圧することで展開する制御的秩序があり、
自由エネルギーを解放することで展開する創発的秩序がある。

両者は逆比例する二つのパラメータとして変化を担います。
両者が拮抗する位相に人間の意志の本質が露出するようです。

 「一人だけ言いたいことを言ってはいけない」

社会の安定秩序という報酬は何をどこまで犠牲にできるのか。
条件付の安寧をどこまで真の安寧と規定することができるか。

無数のセンセイたちがリレーしてきた全体行進の笛の音が、
いつか消えたり別の何かに変化する日が来るのか、謎のままです。
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