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ある種のノン・コミュニケーションは〈聖〉の維持に欠かせないものとわたしは考える。
そうした場合コミュニケーションが望ましくないのは、それがこわいからではなく、
コミュニケーションが何らかのかたちで観念(idea)の本質を変化させてしまうからである。
(ベイトソン『天使のおそれ』p145、星川淳訳)
もし包括的存在の諸細目をこまかにしらべるならば、意味は消失し、
包括的存在の観念は破壊される。…またピアニストは、指に注意を集中させるときには、
動作が一時的にそこなわれることになろう。部分をあまりに拡大してしらべるならば、
パターンとか全体相が見失われることになる。
(M・ポランニーi『暗黙知の次元』p36、佐藤敬三訳)
言及することができない、あるいは禁じられているのではなく、
言及することでそれを構成している全体のコンテキストが変質し、
それなしでは生きられない体験の直接性と意味性が失われるもの――
あるいは認知の再帰的な特性に馴染まない一回性と共にあるもの――
それを迎えるためのある種の生命的な礼節において出会われるもの、例えば「美」(という経験)。