ASAKA通信

ノンジャンル。2006年6月6日スタート。

認知的「誤用」

2012-05-28 | comment

(……)
誠に勝手ながら、これでおしまいにしたいと存じます。
最後に、一番の論点をカッコつけて集約すれば、次の一点です。

「集合命題と要素命題は、論理レベルが異なる。」

例えば、【日本人の集合X】=[a、b、c、d、……]があるとき、
「a」についての記述命題(aは嘘つきである)はそのまま、
「X」についての記述命題(日本人は嘘つきである)として、
使うことができないという、ごくシンプルな問題です。

ところが、こうした認知的な「誤用」(a→X)は、
国家間でも、身近な生活圏でも、
対人関係でも、自己認識でも、しばしば起こるようです。
(個人の場合は、【人格X】=[側面a、側面b、側面c、……])

なぜ起こるのかと考えると、
認知コストの低減というボーナスの獲得があります。
つまり、全体性について精査するための、
観察・学習・検証等にかけるコストを節約できる。
このことが、さまざまなボーナス連鎖を生みます。

(そうしないと生きられないという事情があっても、
 マイナス面は甚大である可能性大。)

次長課長河本準一氏の件では、この誤用(悪用)が、
逆向き(X→a)に働いたケースと考えられます。

「生活保護不正受給する一部日本人=許せん」といった、
漠然と醸成された集合命題(空気)が、
特定個人に強引に、作為的に集中的に押し付けられた事例です。

(結果、TVは視聴率のボーナス獲得に成功。
 政治家約2名は支持者獲得インコンプリート、失墜)

これは、世論形成・操作・動員の典型的手法のようにみえます。
これまで数多活用され、少なからず犠牲者を生んでいるでしょう。
おそらく、これからも。

昔、「鬼畜米英」(集合命題)のおかげで、
個別アメリカ人のことを考えなくて済み、憎悪&士気アップ。
そのかわりに、戦争止められず、
「日本人=黄色いサル」というカウンター措定も頂戴した。

その意味からいうと、命題捏造(スローガン)プラス
相互に観察や学習がストップした状態が戦争(対立)を生み出す、
固定化する、という定式が成り立つかもしれません。

広げすぎました。この辺りでおわりにします。
(……)
コメント

「バカ議員 名前はさつき かたやま五月」

2012-05-27 | comment

恐縮ですが、図に乗って、もう一点述べさせていただきます。

自民党議員片山さつきは、河本準一氏をネタに、
国会議員としてあるまじき振る舞いにおよびました。

議員は、社会の現在・未来にかかわる、
日本国の制度設計にかかわる立法府の人間です。
一義的に負託される仕事は、国民の生命と財産を守ること、
全体の生活福祉の向上(プラス外交軍事等)。
当然、これには何より国民一人一人の人権・名誉が含まれます。

仮に、大いなる疑惑があっても、
世論に抗しても、火だるまになっても、
憲法に照らした議員の職責を果たすべく、
推定無罪を原則を厳密に貫くべき立場の人間です。
にもかかわらず、誰よりも先んじて「私人(一国民)」を攻撃非難、メディアを煽るという狼藉におよびました。

バカメディア・義憤バカは相変わらずですが、
いまや多くの人は冷静です。
問うべきは、生活保護支給の審査機能が正常か否かでしょう。

片山は落選させてバッジを返してもらい、
河本さんには「タンメンでも食べて元気をだして」と励ますのが、
民主主義国の市民のたしなみか思われます。
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2012 手に結ぶ 5

2012-05-26 | Weblog
    *

 いかにせむいかにかすべき世の中を そむけば悲しすめばうらめし(和泉式部)

    *

「みえないコード」って何だろう。

ニンゲンの行動や関係を拘束するもので、
イメージ的にはエアコンの温度設定に似ている。
摂氏28度以上&20度以下では脳ミソのスイッチが自動オフになる、とかね。
(この設定範囲をバイアスともいいます。)

コントロールパネルには無数の自動制御ボタンが付いている。
設定レベルもピュア・ライトから超ハードボイルドまで多彩なグレードがある。

例えば、国や検事や裁判官や学者や医者やメディアが信頼できるというのは、
サブシステムのガバナンスにとって補完的なミディアム・バイアスといえる。

お葬式ではバカ笑いはいけない、結婚式で新郎新婦を罵倒してはいけない、
野球部に入るにはクリクリ坊主でなければならない、というはピュア・ライト。

贈答されて返礼しないといけないという互酬コードは人類史の最古層にあり、
このコードを破ると追放されたり、重いペナルティを課されたりする。

文化的コードの設定はそれぞれ変更可能性をもつけれども、
進化史の試練を経た正真正銘の超ハード・プログラムも数多ある。

例えば、恒温動物の体温調節機能はホメオスタシスの中核であり、
文化的プログラムのように人為的に書き換えることはできない。

    *


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2012  手に結ぶ 4

2012-05-16 | Weblog
     *

「神殿崩壊」

      *

――滅ブベキ滅ビユクモノガ道連レヲ選ブヨリ前ニ
――滅ビノ道ガ正シク示シメサレナケレバナラナイ
――ソレハ生キル道ヲ明ラカニスルコトデ示サレル

よりよき生を信じて「神殿」に忠誠を誓い、
学ぶべきことと、
学んではならないことと、
学ばないことを学んだオトナたちは、
子供たちに勉学の意味と精励を諭した。

いま、その学習と教育的成就において、
世界は酷薄でむごたらしい光景を晒している。

「神殿は健全に保たれている」

――オマエタチガソレデモ幸セダトイウノナラ幸セナノダロウ
――ケレドモ「シカタガナイ」ト思ウ瞬間ニ滅ビノ扉ガ開カレル

巨大なみえない一つのコードが、
ふるさとの大地から都市の中枢を抜け、
神殿に連なる俺たちの心臓深く貫通している。

白昼といわず、深夜といわず、
かすめとられたイノチが歩かされている道があり、
情念のノロシを消されて憔悴に埋まった街がある。

紅蓮の炎と原子の毒が吹き上げた空の彼方には、
不明の中心が哄笑に腹をかかえながら、
いまもどこかで暴利を貪りつづけている。

ちいさな紛争は、小学校の校庭で、
オフィスの片隅で、家庭の台所で、
あるいはノスタルジーに締めつけられた、
避難民のキャンプ地で持続の状態にあって、

最後に帰るべき場所を見失った人びとは、
いつわりの帰還地を示され、
せつない希望にすがり、
教えられたモラルと戒律に従った。

真摯な営みの貢献は願いの軌道を外れ、
あらゆる感情とコミットメントは、
すべからく神殿の供犠のために回収されていく。

俺たちはコードを全解除してしまう方法を知らないが、
それでも知るべきこととなすべきことがあることを知っている。

――ミエザル神殿ヘノ憧レト夢ニ魅セラレ血脈ヲ重ネ合ワセナガラ
――滅ブベキモノト滅ンデナラヌモノハ何処カデ分岐スル道ヲ辿ッタ

《偶然とは街》《変幻する街》〉と誰かがいった。
夢を見るために、大人たちが「神殿」を築き上げた街がある。

野心と宝石と男と女の夢が織り上げた煌びやかなファンタジーが、
いまこの街で、歴史の帰結をまのあたりにして震え上がっている。

――滅ブベキモノガ正シク滅ビナイトキ
――滅ンデナラナイモノガ滅ボサレテイク

そして、子どもたちのみる夢がある。
同じ空の下で、俺とおまえが一つ一つ、
すくい上げなくてはならないのは、かなしい夜。
枕元に靴下をおいた、孤児たちの夢。

    *
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Kさんブログへのコメント

2012-05-14 | Weblog
Kさんの論を読み、触発されて、少し書かせていただきました。
拙文ご寛恕ください。


「市民エリート」「ミメーシス」「学習」

じぶんの頭を整理するために、基本的なことから書き出すことをお許しください。でははじめてみます。

社会に存在する各組織は「組織価値」に従って動いています。例えば、「利益(企業)」「予算(官庁)」「検挙有罪率(警察・検察)」「視聴率(TV)」「販売部数(新聞・雑誌)」「進学率(教育)」などです。
組織が求める価値や組織内のふるまいの作法をまとめて「組織コード」と呼ぶなら、それぞれの組織は「組織コード」にしたがって所属メンバーが有能さを競いあうゲームを営んでいます。

そこでまず、個人のあり方です。
個人としての価値の拠り所は人それぞれでありえますが、組織人として在るとき、「組織コード」に拘束されます。
組織コードは、メンバーに従属的にふるまうことを強いる一方、組織内部では学習機会が与えられ、成長も発展も期待されます。組織が十分な価値を生み出し、個人が有能さを認められることで、この接続形式は強化されていきます。

一方、社会は、組織A・B・C・D・E……という組織の集合した全体です。そして、この全体のあり方を決めるのが、政治(集合的な意志決定)です。もし社会が「クソ」であるなら、政治が速やかに「クソ」の是正に動くことが求められます。このとき「組織コード」の単なる総和ではない、「全体コード」が作動することが必要です。
なぜなら、「全体」は国際関係・歴史・未来・環境など、各組織にとってはメタレベルの領域と深くつながっているからです。

しかし、日本の政治は、そうした全体性を担うに足る「全体コード」をもっていません。政党も議員もすべて「組織コード」に従って動いているだけです。おそろしいことに、米国コードと接続関係にさえあります。

「組織コード」のしばりを破り、相対化して、全体利益を最優先するのが「全体コード」。これがない日本で、組織コードは、別名「空気」と呼ばれます。個人も集団も組織も世間も政治も、すべてが空気で動く。

そこで、宮台氏のいう「市民エリート」です。端的にいって、これは「全体コード」に準じて動ける人間像ではないかと思われます。
ただし、日本人がこのセンスを身につけるのはカンタンではありません。日本では、全体性について学ぶ経験があまりにも少ない。世俗的利害関心(組織コード)と切り離された、哲学・思想・宗教的な伝統、生活・自然体験、学習機会がありません。子どもたちは「組織コード」が求める学習を、小学校入学前から叩き込まれています。

宮台氏が「ミメーシス」(感染)という概念を提示するのは、そうした社会的学習資源のない日本において、唯一可能性があるのが「個人対個人」という接続形式なのではないかということです。
人間と人間の、存在の基底をなす普遍的な「作動因」への着目です。「組織コード」を突き破り、「全体性」へ至る本源的なあり方の提示とでもいいましょうか。

安冨氏のいう「学習(の回路)」も、そこに関係する概念であるように思います。「君子」(孔子)、「創発」「暗黙知」(ポラニー)、「天使のおそれて踏み入らざる場所」(ベイトソン)などの概念も魅力的です。
大きな声ではいえませんが、「全体コード」がめざすのは、宮沢賢治のいう「みんなのさいわい」と重なるのかなとも思います。

「組織コード」においても、人は十分に学習動機をもちます。例えば、優秀な法律家でなくとも、国民主権・民主主義・三権分立・基本的人権など、問われれば滔々と模範解答できる人は少なくないでしょう。ところが日本人の多くは、現実のふるまいにおいて、「組織コード」を破る動機をもちえません。

「原発catastrophe」は、日本に築かれた巨大な「組織コード」の中枢に打撃を与えました。この「ゆらぎ」が収まらない間に、有効な何かを。というのが個人としての思いです。ネットの世界は、数少ない希望の一つです。

もう少し整理して、発展させられたらと思っています。
Kさんにお礼を申し上げます。ありがとうございました。
コメント

2012 手に結ぶ 3

2012-05-06 | Weblog


「相転移 phase transition」

     *

水分子(H2O)の集合は氷・水・水蒸気の状態に変化する。
氷・水・水蒸気のような物質のマクロな姿を「相」とよぶ。

ある物質が置かれた環境のパラメータの変化に従って、
相が劇的に変化する現象は「相転移」とよばれる。

例えば水という液体は温度をパラメータとして、
固体(氷)にも気体(水蒸気)にも相転移する。

水という物質を一つのクラス(集合)と考えると、
水分子はクラスの構成メンバーとして捉えられる。

相転移ではクラスの性質は変化するが、
メンバー(H2O)の性質は変化しない。

固体⇔液体⇔気体というクラスの相転移は、
メンバー間の関係の変化として起きている。

ここでメンバー(H2O)をいくら細かく解析しても、
クラスの性質の変化は演繹できないことがわかる。

     *

「みんな all of us」 

     *

ニンゲンをメンバーとするクラス(関係集合)は、
多種多様な内容・規模・形式・性格のあり方がある。

例えば世界・国家といった抽象的なクラス(関係集合)から、
メンバー相互が交流する家族・友人・同窓・組織などがある。

さらに大小さまざまなクラスは時に重なり時に拮抗しあい、
時に序列化され時に無関連化しながら動的に変化していく。

あるクラスの全体性を「みんな」というコトバに置換すると、
ニンゲンのクラスというカテゴリーの特異な性格が鮮明になる。

     *

うつくしい花がある。
花のうつくしさというものはない。

けれどもニンゲンが暮らすふるさとには、
花のうつくしさという幻が点滅している。

誰ひとり疑うこと能わざる固有の風土において、
花は名残であり面影であり影向でありつづける。

そして「みんな」も同じふるさとに住まう、
あやなる応答の結節として登録されている。

ほんと?
おそらく。

     *

第一に水(H2O)のクラス(固体・液体・気体)は実体をもつが、
「みんな」という集合カテゴリーはどこを探しても実体がない。

「みんな」は国であり組織であり仲間であり家族でありうるが、
国・組織・仲間・家族というカテゴリーは自然の記述にはない。

「みんな」を構成するメンバーは一人一人特定できるが、
「みんな」は集合的な全体性に冠せられた言葉でしかない。

にもかかわらず「みんな」はメンバーそれぞれにとって、
メンバーのだれにも帰属しない特別な地位が与えられる。

ニンゲンがクラスのメンバーとしてふるまうとき、
「みんな」は思考や行動の絶対的な参照枠となる。

「みんな」はどのメンバーにも帰属しないが、
虚数的マジックワードとしてメンバーを拘束し、
全体のふるまいを制御する特異点として機能する。

     *

一つの出来事をめぐり
「みんな」はそう感じるだろうと
「みんな」が考えるだろう
と、一人一人が考えている

     *

第二に、あるひとつのクラスの成立においては必然的に、
「クラス-非クラス」という意味論的ボーダーが生成する。

メンバーがクラスにおいて感じ思考し行動するとき、同時に、
非クラスとして感じ思考し行動しないという逆措定が起動する。

「クラス-非クラス」という意味論的ボーダーをめぐり、
メンバーとしての存続のための自律的な制御が持続する。

存続のための自律的な制御はさまざまなコードを析出し、
「みんな」という特異点に向かって凝集していく。

コードの凝集は法・宗教・慣習・道徳などの形式化を促し、
虚数的圏域に宗教的ジャーゴンのいう「結界」が立ち上がる。

      *

「神殿構築と聖戦継続」

      *

電車やバスが宮城や靖国神社の前を通る時には、決まって車掌さんが「最敬礼!」と叫び、乗客は皆、立って最敬礼をしました。「空に神風、地に肉弾」というスローガンが流行っていたと思います。「一億一心」という言葉も私たちの身の回りにありました。そういう状態で昭和二十年の正月を迎えたのです。

内閣情報局の指令のもと、ポツダム宣言について(昭和二十年七月)二十八日の朝刊で発表します。ただし、国民の戦意を低下させるような条項は削除し、政府の公式見解も  発表せず、できるだけ小さく調子を下げて取り扱うようにしました。すると新聞社ではこれを独自に解釈し、逆に戦意昂揚をはかる強気の言葉を並べて報じたのです。読売報知は、「笑止、対日降伏条件」と題して「戦争完遂に邁進、帝国政府問題とせず」とうたいました。朝日新聞は「政府は黙殺」と見出しをかかげ、毎日新聞は「笑止!米英蒋  共同宣言、自惚れを撃砕せん、聖戦を飽くまで完遂」という具合です。(半藤一利『昭和史』)

      *

いろいろな出来事をめぐり
「みんな」をおもんばかり
「みんな」がすべからく斯くあるべし
と、一人一人は考えるだろう
すべからく、すべからく、すべからく
と、だれかとだれかとだれかが妄想する

      *

聖戦遂行は、ヤマト民族の「相転移」の結果?
ちょっと待って。あくまでもメタファーとして聞いてね。

クラスのあり方が突然変化するのが「相転移」。
このときメンバー個々の本質は変化しない。
けれどもメンバー同士の関係性が変化する。

どんなふうに?

クラスに対するメンバーの接続形式がポイント。
比喩的にいえば、「従属変数」か「独立変数」か。
従属的なら、メンバー間の関係性は均一化される。
独立的なら、メンバー間の関係性にはランダムネスが保たれる。

クラスの相からは、液体と結晶のちがいにも対比できる。
液体は、分子同士が自由エネルギーを交流させあう状態。
結晶は、分子同士が自由エネルギーを放棄した秩序状態。

      *

相手がにっこりすると思わず私もにっこりします。……逆に相手の顔がこわばっていると、自然に私の顔もこわばってしまう。つまり他者の身体というのは、決して科学が扱うような客観的な身体ではなく、表情をもった身体であり、私の身体もまた気づかぬうちに表情や身ぶりでそれに応えています。つまり身体的レヴェルでの他者の主観性の把握と、私の応答があるわけです。(市川浩「〈身〉の風景」『身の構造』)

      *
クラスはいつもメンバーのふるまいを拘束する条件となる。
けれどもメンバーが属するクラスは単一と限らない点も重要。
接続ラインが複数のクラスをまたいで伸びていくこともある。

たとえば?
メンバーがクラスをまたいで複数の接続ラインをもっていたら、
一方のクラスとの接続を解除するという選択肢が生まれる。
あるクラスのメンバーでありつづけることがキモチ悪ければ、
接続ラインを決然と切断してバイバイしてしまうこともできる。

逆の場合には?
「みんな」が住まう故郷で一生を終えることになる。
「みんな」は威力としてカタチを定められて「神々」が析出され、
「みんなの神殿」が築かれ、神話のデコレーションが施されていく。

そうして祭司たちの集団が選抜され、
告げられたオキテを守り、守られながら、
「みんな」の歴史に準ずる一人として生を閉じていく。

      *
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