ASAKA通信

ノンジャンル。2006年6月6日スタート。

「非知」

2017-09-23 | Weblog

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知ることより早く動いているものがあり
知ることに先んじて知ることを促す作動がある

 

知ることわかることに先駆けながら
知ることわかることを触発する〝非知のクラウド〟があり

 

知ることの手前で訪れる衝迫があり
全貌を知ることに収めることのできない生成がある

 

生の理由であり生の触発であるわからなさのクラウドがあり
そこに創発する新たな「ありうる」の地平がある

 

新たな「ありうる」の地平にみちびかれるように
知ることわかることはいつも遅れてやってくる

 

生成するもの訪れるものはつねに
〝主観(わたし)にとって〟という原理において現象する

 

ただ〝主観(わたし)にとって〟という条件においてのみ
わからなさの地平はつぎつぎに開かれていく

 

***

 

聴こえるかぎり、見えるかぎり、触れるかぎり
知りうるかぎりの〈世界〉の内部で自足するとき
非知とつながる回路が塞がれ失われる

 

わかることの位相にすべてを収納しようとすると
わからないことのわからなさが消えていく

 

知ることわかることの内側にすべてを収納可能と考え
わからないことのわからなさを手放すと
新たな形成の手がかりが途絶えてしまう

 

巨大なわからなさの地平が遠ざかっていく
ただそれだけではない

 

失われる手がかりを代替するように
まさしくこの地点において〝全知〟の虚数項が立ち上がっていく

 

わかることの地平にわからなさを納めようとするとき
さまざまな〝カミ〟の生成は不可避なものになる

 

知ることわかることの地平
それは不変の因果律と秩序に従う物理世界に酷似している

 

しかし一切の生成の起源をなすものを
生成したものの内側に収めることはできない

 

さまざまな〝カミ〟をいただく逆立ちした世界──

 

〝主観(わたし)にとって〟という原理が
〝カミにとって〟という誤読にとって代わられる世界

 

そのこと自体にもある必然の回路があるといえるにちがいない
しかし少なくとも言えることがある

 

知のなかにすべてを収めることへ欲望そのものが
非知のクラウドから生成するものであるということ

 

知るうること知りえないことの二極のあいだのゆらぎそのものに
われわれはそのことに「生」の本質を受け取っているということ

 

***

 

わからないことのわからないままに
かたわらにとどまる作法がありもてなしがある

 

わからなさのわからないままに
わからなさから生成する
由来をたどれない内なる促しがある

 

生の触発と理由をつくるわからなさのクラウドがあり
クラウドから創発する新たな「ありうる」がある

 

「ありうる」をめがける根本動機の起点にわからなさがあり
「ある」をほどいて結び直すことが許された〝踊り場〟がある

 

 

 

 

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関係了解

2017-09-09 | Weblog


関係了解(自己了解・他者了解・存在了解)の生成がなければ、
思考し行動する自己を組織することができない。

関係世界に対する「了解性」の必然性と限界性。
それはただ主観(わたし)の心的経験の中からのみ立ち上がる。

関係了解と相即する自己の組織化と実践的な企投──
そのことでのみ主観(わたし)の関係了解は試されるが、
関係了解の確定は同時にみずからの了解性の限界を確定することでもある。

人間的コミュニケーションは、各自的な関係了解の交換をつうじた、
集合的関係了解=客観の生成をめがける営みを意味する。

この場面で主観(わたし)の了解性は実践的に試されることになる。
仮に主観(わたし)がみずからの了解性を強行すれば集合的関係了解の生成の契機は消える。

各自的な必然性と限界性を提示しあう営みによって実践的な関係のゲームが展開する。
同時に、集合的な関係了解も各自的な関係了解と等しく必然性と限界性をもち、
この二重の意味において関係のゲームも展開していく。

了解性はこの展開の連続性においてのみその更新の契機を獲得することができる。
展開されない、いいかえると試されない関係了解は独我論的な完結性を帯びて、
力の論理(最後の論理)に従う集合的な関係の決着を図る道を開くことになる。

 

 

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