(C.G.ユング『ユング自伝―思い出・夢・思想』河合他訳1972年みすず書房)より
このように書きとめていくときに、私はしばしば私を打ちのめすような反応を感じた。だんだんと、私は自分自身の考えと、内なる声の内容とを区別することを学んだ。何か情動的に下品で陳腐なことが押しつけられてくると、私は自分に向かって言ってみる。「私が何かのときに、そのように考えたり感じたりしたことは事実である。しかし、私はそのように今考えたり感じたりしなければならないのではない。そのような自分の陳腐さを永久に受け入れる必要はないのだ。そのような自己卑下が何の役に立つだろうか」
大切なことは、これらの無意識的な内容を、それらを人格化することによって自分自身と区別することであり、同時に、それらを意識と関係づけることである。これが無意識的な内容の力をとり去る方法である。それらは常にある程度の自律性をもち、それら自身の区別された同一性をもっているので、人格化するのはあまり困難ではない。この自律性は、これらを自分自身と調和させるのに最も不都合なことではあるが、無意識がそれ自身をこのような方法で示すという事実は、われわれがそれを取り扱う最上の手段を与えてくれることになっている。(中略)結局のところ、決定的な要因は常に意識であり、それは無意識から表出されたものを理解し、それらに対する立場を定めることができる。
合理主義と教条主義は現代の病である。つまり、それらはすべてのことに答えをもっているかのようにみせかける。(中略)われわれの時空の概念は単に近似的な妥当性をもつだけで、従って大なり小なりの歪みをある領域が存在する。
われわれは全く異なった法則によって統制されている他の世界を心に描き出すことはできない。それはわれわれが、われわれの心を形づくり、基本的な心の状態を確立するのを助けるような特殊な世界に住んでいるからである。われわれは、自分の内的な構造のために著しく限定されており、従ってわれわれの全存在と思考によって、このわれわれの世界に縛られているのだ。神秘的な人は「そのすべてを超えていく」ことを疑いもなく主張する。しかし科学的な人はそれを許すことはできない。知性にとって、私の神話のこころみはすべて不毛な思弁にすぎない。しかしながら、情緒にとっては、それは癒すものであり、価値ある行為である。
死は、とくに老人にとって、重要な関心事である。老人には絶対的な疑問が課せられ、それに答える義務を負わされる。このため、その人は死についての神話をもたねばならない。それは、理性は彼が下りてゆきつつある暗い穴以外の何ものも示しはしないからである。
無意識からの像はまた、「教育されていず」、知識にまで達するためには、人を必要とする、すなわち意識との接触を必要とする。
人間にとって決定的な問は、彼が何か無限のものと関係しているかどうかということである。これは人間の生涯に対する試金石である。(中略)結局のところ、われわれが本質的なものを具体化するときのみ、価値を認め、本質的なものを具体化しないときは、生命が浪費される。他人に対する関係においてもまた、決定的な問題は、無限性の要素がその関係の中に示されているかどうかという点にある。
われわれが自分自身の独自性―すなわち、究極的には限定されていること―を知ることにおいて、われわれはまた無限性を意識しうる力をもつことになる。(中略)独自性と限界とは同義語である。
しかし、人間のなすべき仕事は全く逆のことである。すなわち、無意識から上におしあげられてきた内容を意識化することである。
このように書きとめていくときに、私はしばしば私を打ちのめすような反応を感じた。だんだんと、私は自分自身の考えと、内なる声の内容とを区別することを学んだ。何か情動的に下品で陳腐なことが押しつけられてくると、私は自分に向かって言ってみる。「私が何かのときに、そのように考えたり感じたりしたことは事実である。しかし、私はそのように今考えたり感じたりしなければならないのではない。そのような自分の陳腐さを永久に受け入れる必要はないのだ。そのような自己卑下が何の役に立つだろうか」
大切なことは、これらの無意識的な内容を、それらを人格化することによって自分自身と区別することであり、同時に、それらを意識と関係づけることである。これが無意識的な内容の力をとり去る方法である。それらは常にある程度の自律性をもち、それら自身の区別された同一性をもっているので、人格化するのはあまり困難ではない。この自律性は、これらを自分自身と調和させるのに最も不都合なことではあるが、無意識がそれ自身をこのような方法で示すという事実は、われわれがそれを取り扱う最上の手段を与えてくれることになっている。(中略)結局のところ、決定的な要因は常に意識であり、それは無意識から表出されたものを理解し、それらに対する立場を定めることができる。
合理主義と教条主義は現代の病である。つまり、それらはすべてのことに答えをもっているかのようにみせかける。(中略)われわれの時空の概念は単に近似的な妥当性をもつだけで、従って大なり小なりの歪みをある領域が存在する。
われわれは全く異なった法則によって統制されている他の世界を心に描き出すことはできない。それはわれわれが、われわれの心を形づくり、基本的な心の状態を確立するのを助けるような特殊な世界に住んでいるからである。われわれは、自分の内的な構造のために著しく限定されており、従ってわれわれの全存在と思考によって、このわれわれの世界に縛られているのだ。神秘的な人は「そのすべてを超えていく」ことを疑いもなく主張する。しかし科学的な人はそれを許すことはできない。知性にとって、私の神話のこころみはすべて不毛な思弁にすぎない。しかしながら、情緒にとっては、それは癒すものであり、価値ある行為である。
死は、とくに老人にとって、重要な関心事である。老人には絶対的な疑問が課せられ、それに答える義務を負わされる。このため、その人は死についての神話をもたねばならない。それは、理性は彼が下りてゆきつつある暗い穴以外の何ものも示しはしないからである。
無意識からの像はまた、「教育されていず」、知識にまで達するためには、人を必要とする、すなわち意識との接触を必要とする。
人間にとって決定的な問は、彼が何か無限のものと関係しているかどうかということである。これは人間の生涯に対する試金石である。(中略)結局のところ、われわれが本質的なものを具体化するときのみ、価値を認め、本質的なものを具体化しないときは、生命が浪費される。他人に対する関係においてもまた、決定的な問題は、無限性の要素がその関係の中に示されているかどうかという点にある。
われわれが自分自身の独自性―すなわち、究極的には限定されていること―を知ることにおいて、われわれはまた無限性を意識しうる力をもつことになる。(中略)独自性と限界とは同義語である。
しかし、人間のなすべき仕事は全く逆のことである。すなわち、無意識から上におしあげられてきた内容を意識化することである。