机の上に置いたコーヒーカップを見つめる。
それから窓側に視線を移動させ、外に広がる五月の空に目を凝らす。
澄んだ青空の広がりのなかに、純白の雲が浮かんでいるのが見える。
しばらくして、さらにもう一度コーヒーカップに視線を移す。
すると、もう変化している。
このカップを見るという経験は、もはや同じものとして現われない。
なぜだろう。現象は決して同じ場所に留まりつづけることができない。
カップに向けた二度目の一瞥には、すでに五月の空の残影が重なっている。
そればかりではない。最初に見たカップの記憶も貼り付いている。
こうした経験の重なりはとめどなく累積し、混じり合い、
輻輳しながら、次々に経験の感触と意味あいを変化させていく。
すべての経験は連鎖し、連鎖することで経験の感触を変幻させる。
それぞれの経験は、もう二度と再現されないということだけでなく、
独立した単一の経験として決して完結することができない。
木々を揺らすそよ風が、すずめの囀りが、道を走る車の音が重なり、
気分や体調という内部状態の変化も、経験のなかに織り重ねられていく。
そして、ここから一つの妄想がふくらんでいくことになる。
妄想はその極相において――そうした経験の連鎖は個人史という閉じたフレームを抜け出し、
遥かな始原から未来へと連なる巨大な生命史的経験の領域にリンクを伸ばしていく。
経験のさなかにあって、意識はみずからに現象するすべてを追尾することができない。
意識の水面に浮上する出来事を手当りしだい、丹念に拾い上げ、並べていっても、
連鎖し重なり合う経験の前線は、いつも、すでにその先へと走り抜けている。
意識は取り残されたように、捉えがたい経験の全貌を曖昧にやりすごすか、
意識されたかぎりにおいてわかったふりをするか、あるいは、
黙ってついていくことができるだけのように思えてくる。
こころにはさらにもう一つ、不思議な不可避とも思える位相が開かれている。
そこには、感覚が告げる風景の一つ一つと結びついた経験の内容とは別に、
自在に立ち上がっていくメタフォリカルでアブダクティブな思考が現象する。
この位相においては、「きれいはきたない。きたないはきれい」といった意味の逆転が起こり、
「去年の雪」といった不在そのものにより、存在と同等の権利において意味やメッセージが告知され、
「幅も厚みももたない点」といった抽象的な記号やパターンが織り上げる公理系が生成し、
「空がまた暗くなる」――そう歌われるとき、現実以上にリアルなリアリティが励起していく。
そこには、現象世界の最初の印象を次々に変容させていく不思議な作用が横溢している。
こうした出来事と出来事がつながり、輻輳し、変化していく現象を「複雑系」と名付けてみる。
すると、こころの認知にはささやかで独善的でもある安堵と了解が訪れる。
知的な統合性は一時的に満たされるが、そのぶん経験からは遠ざかることにもなっているらしい。
そうした矛盾する感覚と予感を伴うことで、さらに経験は複雑さを増し、
新たな変化の契機を獲得したり、あるいは失ったりしながら、
そのつどみずからと世界を組織化する永続的な営みを展開していくようにみえる。
本日サッカーの試合を観て感じたことと少し重なりました。
うまいと感じる選手はどんな動作や激しい局面でも、
独特の間合い、「タメ」(ゆっくり感)があるように感じました。
(この「うまい」と感じる理由の基底には、そのプレーを観る側に、
選手のゲームする喜びや享受する洗練された姿への共感がある気がする。
生命的共感(?)――直接生産と結びつかない、ただ「観ること」に、
これだけの資源を惜しげもなく投入する動物は人間以外に存在しない。
この一見非生産的なゲーム観戦という行為において、
人間というシステムはどんな報酬をそこから引き出しているのか。
「観ること」で、何を求め、享受し、何が変化していくのか。
「うまい」と感じる選手・プレーへの憧れや期待、特別な敬意へと転化する
行為としての「観ること」――
そこに埋め込まれた基底的な志向性は、じつは一流選手のプレーだけでなく、
ふだんの日常的な他者との関係でも常に持続しているようにみえる。)
「タメ」があることでプレーの選択肢が自然に開かれて、
そこに創造性のスキマができている、そんな感じでしょうか。
逆に、チームの決め事や定石に忠実で一所懸命な選手なほど、
そうしたアソビや自由度が少なく、ちょっと息苦しそうな印象をもちました。