ASAKA通信

ノンジャンル。2006年6月6日スタート。

「at-knowledge」(収束)と「from-knowledge」(展開)

2015-04-27 | Weblog


「精神は身体のメカニズムの意味である。
しかしその意味は身体メカニズムだけに焦点をあわせてみるときに失われてしまうのである。」
(Michael Polanyi)

ゲームの渦中でゲーム外へ視線を動かすことはNGである。
ゲームのリアリティは別のゲームの同時的な進行の侵入を許さない。

「成績」(時点的切り取りと評価)のみに注目するとき(=「at-knowledge」)、
子どもの固有の体験、生命的な知のプロセス(「from-knowledge」)は視界から消えていく。

このとき、子どもの意識経験の内側に寄り添うように記述すれば、
おとなが与える時点的な評価は、みずからの存在の〝肥大〟、
あるいはみずからの存在の〝目減り〟として体験されているように思える。

いずれもおいても、子どもの自己意識の内部では、
ある種のおとな社会という超越性の支配、
あるいは外部的なコントロールを受けているという感覚がどこかに兆している。

この感覚を告げるのは、子ども自身がもつ総合的感性、
自己の存在について再帰的なシグナルとしての「feel」である。

この作動が十全に働いているとき、子どもはおとなが与える時点的な評価を、
逆に「評価し返す」(展開する)ポテンシャルを保持するように思える。


単一のゲームが支配する一元化された世界では、
別のゲームで動くものをみずからのゲーム的視線の内側に取り込むことで、
そのゲームにとっての外部性=〝体験としての世界〟を小さく剪定する力学が働いている。


 

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「しないことをするの」

2015-04-11 | Weblog


「なんにもしないことをするの、とクリストファーロビンは言いました」
「知ってる。プーさんの友だちでしょ」
「そうです。なんにもしないことをすることはできるでしょうか」
「しないことをするのだから、それはすることでしょ」
「どうすれば、しないことをすることでしないことにできるのかな」
「……?……」

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「地」と「図」

2015-04-07 | Weblog


「命令や要請ではない、欲望の原則から導き出せるエロスの可能性」──

いいかえると、別の「生のエロス」へシフトする可能性において、生を捉えること。

システム全体が変容するためには、他律的な「倫理」「道徳」は機能しない。
命令や要請、外に設定された格律(=先験的に設定され理想状態や正しさ)に従うとき、
システムとしての人間あるいは集団のあり方は必ず歪みをこうむる、ように見える。

欲望は、恣意的なコントロールに従属しない。このことは原理的だといえる。

論理的な闘いは、究極においては整合性をめぐる闘いである。
一方、自然としての身体、精神の生理は、ある種のカオス、エネルギーの乱反射、
ひいては非論理的非言語的な「元気」あるいは「活性」の方角を志向しているように見える。

 

 

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