「精神は身体のメカニズムの意味である。
しかしその意味は身体メカニズムだけに焦点をあわせてみるときに失われてしまうのである。」
(Michael Polanyi)
ゲームの渦中でゲーム外へ視線を動かすことはNGである。
ゲームのリアリティは別のゲームの同時的な進行の侵入を許さない。
「成績」(時点的切り取りと評価)のみに注目するとき(=「at-knowledge」)、
子どもの固有の体験、生命的な知のプロセス(「from-knowledge」)は視界から消えていく。
このとき、子どもの意識経験の内側に寄り添うように記述すれば、
おとなが与える時点的な評価は、みずからの存在の〝肥大〟、
あるいはみずからの存在の〝目減り〟として体験されているように思える。
いずれもおいても、子どもの自己意識の内部では、
ある種のおとな社会という超越性の支配、
あるいは外部的なコントロールを受けているという感覚がどこかに兆している。
この感覚を告げるのは、子ども自身がもつ総合的感性、
自己の存在について再帰的なシグナルとしての「feel」である。
この作動が十全に働いているとき、子どもはおとなが与える時点的な評価を、
逆に「評価し返す」(展開する)ポテンシャルを保持するように思える。
単一のゲームが支配する一元化された世界では、
別のゲームで動くものをみずからのゲーム的視線の内側に取り込むことで、
そのゲームにとっての外部性=〝体験としての世界〟を小さく剪定する力学が働いている。