ASAKA通信

ノンジャンル。2006年6月6日スタート。

「生成」と「現実論理」 20190714

2019-07-14 | Weblog

「砂糖が溶けるには一定の時間が要る」

「生成」という人間的生の展開の核心は、──一義的、定型的な〈世界〉記述の確定へ向かう動きによって見失われる。 

関係世界において優位な場所を占めたいという願いの基底から、一つの命題が派生する。

「相克としての関係世界」──関係世界における享受可能性、その実現をただ「相克」という面からフォーカスするまなざしがある。「相克関係としての世界」という命題が最大綱領として掲げられるとき、「生成」という人間的生の本質、〝自由の空隙〟は視界から消える。 

「相克関係としての世界」という命題のリアリティ、痛切性は、日常における実践関係のいたる場面で論証されるように経験することができる。パイ獲得をめぐる競合関係、その組織化された対抗関係、組織フォーメーションが指定する機能的な個の役割、関係のコード。 

一義的、定型的な形式性に収れんする生の展開は、しかし、本質的に「生成」を起源としている。

ソレがなければみずからの展開をひらくことが不可能なものとしての「生の空隙」、インターミッション。

生成、発火の原郷──個の実存においてのみ現象するもの。人間的生のすべての展開の起源をなすもの、自由の本質をなすものの認識、この位相の意味と価値についての相互的な了解と承認、その有無、そのことの決定的な分岐。

 

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「子どもの〝おしえ〟」(『教育』8月号) 20190713

2019-07-13 | Weblog

 

「問い」をたずさえながら

おとなは試されている。幼い子どもとの付き合いの中で、いつも実感させられたことです。そして子どもとの付き合いから学んだことも少なからずあります。

「なに」「なぜ」「どうしたら」。子どもは無数の固有の問いをたずさえながら生きている。世界の不思議さ、わからなさは、そのままみずからの生きるかまえのわからなさ、不安でもあり夢や希望でもあるような〝未決状態〟の毎日を生き抜いているとも言えるかもしれません。そして、次々に沸き上がるさまざまな問いにみずから〝回答〟を探しながら書き込んでゆくプロセス、それが成長であり、広い意味での学びということかもしれません。

かつて読んだ本の次のような一節が浮かびます。「子供たちは、我々以上に、表層の生活と深層の生活とを合わせもっているものだ。表層の生活はごく単純だ。なにがしかの規律で片がつく。だが、この世に送り出された子供の深層の生活は、創られたばかりの世界が奏でる不協和音の調べだ。子供は一日一日と、地上の悲しさ美しさをひとつ残らず、その世界に納めていかねばならぬ。それは内なる生命が払う巨大な労苦だ」(L=F・セリーヌ『ゼンメルヴァイスの生涯と業績』菅谷暁訳)

子どもの日々の生活の本質に触れる言葉と言えるかもしれません。しかし「巨大な労苦」でもあるけれど、同時に「歓び」でもありうる。いまではそんなふうに感じます。

常識=全問正解ではない

子どもが抱く問いに対する〝回答〟は、一面では世の中にあふれています。少し飛躍していえば、歴史的におとなたちが積みあげたさしあたりの〝回答〟の集積としての現在の社会がある。そしてこの社会に適応して生きていくかぎり、社会が提示するさまざまな〝回答〟を学んでいかなくてはいけない。常識、通念、モラル、倫理、さまざまなルール、そして複雑な社会のしくみについて、身につけるべき学習メニューはあふれています。しかし子どもの固有の問いに向かいあうことで、おとなとしてとても大事だと思える反省が働きます。

それは一言でいえば、子どもが抱く純粋な問いのすべてに対して、この社会が「全問正解」を用意しているわけではないということです。無視されたままの問いや筋ちがいの〝回答〟もあるにちがいありません。さらに広げていえば、おとな自身も自ら抱く問いに対する「全問正解の社会」を生きているわけではない。いまだ解の見出されない問い、問われざる問い、放置されたままの問いとともに生きている。

礼を尽してバトンを渡す

そして次の世代へ託される難しい課題もたくさんあります。自分たちで答えられなかった問いに答えてもらう、そのリレー先としての子どもという存在。そのように考えることもできそうです。

その意味でおとなのふるまい方として、すべてわかった風な、したり顔して子どもに接するのではなく、自分たちで答えられなかった難問を託す相手として、子どもには礼を尽くして接する必要があるだろうとも思います。

そのために次のことが大事かなと思います。第一には、みずから考える力を子どもから奪わないこと。おとなが用意した「解」やその解法の学習とは別の、みずから立てた固有の問いを追究できるような学びの体験を積むこと。抽象的な言い方をすれば、子どものそれぞれの生の固有性を、一般性あるいは常識や通念で埋め尽くして台なしにしないこと、となるかもしれません。

「その次を教えて」と、答え以上におとなの応答そのものを求めるように子どもの問いは続きます。そんな時には「自分はどう思う?」と切り返すことも大事だろうなと思います。

もう一つは個性を社会の中でどう生かすか。「個性を大切にする」「みんなちがってみんないい」といったやや紋切り型の言葉があります。うつくしい言葉ですが、一人ひとりがちがうのは当たり前のこととして、そこからどうすれば「ちがう者」同士がそれぞれのちがいを生かしながら生きられるか。そのための生きる知恵や技術を実際の経験から学んでほしいなと思います。

 

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「エポケー」 20170710

2019-07-11 | Weblog

 

新たな「関係のゲーム」へ参入すると同時に、 プレーモードはゲームが指定するゲーム仕様に変化する。

モードとモードのつなぎ目には「空隙」が存在する。 モードチェンジはつねにこの領域において起こる。

どのゲームにも属さないこの領域において、

モードの解除、審議、判断、選択、再編──フォーメーションの組み換えが現象する。

ゲームに入るにはゲームが指定し規定するプレーモードを身にまとわなければならない。

そしてつねに新たなゲームに入るにはこの第三の領域を経由しなければならない。

この空隙は一人一人のプレーヤーの内部以外に存在せず、どんなエージェントも侵入できない。

あらゆるプレーモードはつねにこの内なる「空隙」において構成され選択されている。

 

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「非-知」性 20190706

2019-07-06 | Weblog

 

内なる経験において出会われ示される告知があるのです。たとえばこんな意味性を含んだものです。

 「ちがうのです」

ソレは、ラングでもなく、パロールでもなく、絶対的な正しさ、正義において、真実において、というのでもない。

コトバの系列が生きる位相と直接にまじわらない、内なるカラダの声といえます。正しさ・正義・真実といった価値的審級生成の源にあり、コトバの生成に理由を与え根拠となる「非-知」なるもの、ソレが意識の水面を訪れるものです。

ソレはただ疑うことができない明証性において告げるものであり、告げられることで動きだす内なる了解があり、遅れて新たな企投へ向かう意志の生成にただ一人手を染めるものでもあります。 

「非-知」なるものに告げられ、われわれはソレをあらゆる「確かめ」のただ一つの根拠とする。

たとえばこんなふうに。 

「そこに記述されるコトバがいまだソレにとどいていない、触れられていない」

内なる確かめの〝最終の法廷〟として、心みずからが示す告知があり、たとえば、意味と価値の確定に向かう記述命題が諭し命じるものに、諭しの貧しさ、狭さ、命じることの愚かさ、専制を感じる──そう告げるのです。

ときに禁じる声として、ときに促す声として、ソレはわたし自身に向けられ、ひとえに、そのことを伝える内なる告知があり、ソレにわれわれは名を与え「情動」と呼んだりしている。

そのことの原理的な理解のうえで、「非-知」なるものを正しく迎える礼節と作法があります。第一には、われわれ意識主体においてのみ「非-知」は現象するということ。そして意識主体であることを自覚し、堅持しつつ、放棄しないかたちで、みずからの根拠をつくるみずからのものとして「非-知」なるものを迎えなければならないということ。

あらゆる専制と暴政はそのことを忘れ、放棄するところから芽を吹き、繁茂していく。

このとき「非-知」なるものは、意識主体の元を引き離され、天上に奉られ「超越化」していく。

 

 

 

 

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「展開形──生成の原郷、多重記述」 20190702

2019-07-02 | Weblog

 

〈世界〉は生成する──そのつど新たな意味と価値の配列へ遷移しながら、「よりよき記述」へ向かうかのように。記述の更新に向けてつねに準備を整えるように、その意志を滲ませながら、記述の確定を拒むように〝未決の位相〟を保持しながら駆けているものがいる。 

未決性において全円性を獲得するかのように、実存はつねに自らに生成する「問い」をたずさえている。

なぜ・なに・どうしたら──わかること、理解のポッケに収めたものだけでは足りない、わからないことのわからなさをそのまま保持するように、保持しなければアクセスできないものがあるかのように、わからなさ知りえなさにおいて、逆説的に疑えない明証として一つの格律がみちびかれる。 

「確定されざる記述の場所をつねに空けておくこと」 

展開形の本質において、実存は実存と出会い交わることで、少し浮き上がった場所に移動するかのように、みずからに訪れる自明性に留保をかける。新たな自明性の地平への参入を望むかのように。 

〈世界〉生成の原郷としての実存──それぞれに〈世界〉を示しあい、交換しあう相互性において、記述は二重化され、多重化される。単体では実現されない多重の記述から現出する〈世界〉の相、そこは実存にとって生涯にわたるもう一つの原郷として生きられる。 

実存と実存は交わり、関係しあい、共同化することで、生成の第三の位相を発足させる。

「相互的了解項の形成」──どの実存にも属さない第三の位相という共同的な信憑形成において、多重の記述に対する相互的な信頼に基づく〈世界〉の交換がつづくかぎり、その生成性と展開力は保持される。

 

 

 

 

 

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「問い──インターミッション」 20190630

2019-06-30 | Weblog

       https://www.youtube.com/watch?v=xn4KUN3yfMg

 

ためらい・迷い・とまどい・はじらい・はにかみ──

自己記述、他者記述、関係記述、世界記述の結審をみずから拒むように、実存の内側に走るゆらぎのさざ波。

しばしばあるいはつねに、情動は走りやすく、理解は行き過ぎやすく、記述は確定に向かいやすい。

しかし情動が湧き上がる位相はさまざまな変数がからみあう複雑系として現象している。

情動が告げる所与の諸相は、ただ一つの〝意味〟に収れんすることを拒むような所与も含んでいる。

明示的なメッセージを読み取れず、記述に収めることができない衝迫があり、

どこに向かうべきかが示されない触発がある。

そのことの意味の本質をたどろうとするなら、少しの間、記述の確定に向かう手を休めなければならない。

 

     

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「問い──展開可能性」 20190629

2019-06-29 | Weblog

 

なぜ・なに・どうしたら──〝問い〟を携える未決のフォーメーションとしての実存。

問いはつねに関係をめぐり、世界・他者・自己は対象化され、確定項は問いに付される。

問いの消去――実存の死。確定記述の全域化。バインドされる関係世界、関係のゲームとしての本質の消滅。

問いの位相──それは実存の展開可能性(修正可能性・拡張可能性)を本質とする。実存はつねに「問い」をたずさえることで、あらゆる既決(確定記述)を未決へと変換し、そのことで新たな展開可能性を開いていく。

新たな〝ありうる〟──「よりよき生」という主題(欲望)において、「問い」は生成する。

あれはあれ・これはこれ・それはそれ──新たな確定項(確定記述)をめがけながら、「問い」の位相はつねに実存に同伴し、消えることはない。実存が実存であるかぎり、あらゆる確定項の超越項化(絶対項化)を抑止するように「問い」は生成することを止めない。

 

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「K.T.のように」 20190627

2019-06-27 | Weblog

        https://www.youtube.com/watch?v=y_uf1Iih_h0

 

プレーの出力を制約し、拘束し、規定するものは、全体包括的な価値が明証性とともに像を結ぶと同時に、 そこにいたるための貴重な手がかりに変換される。

全体包括的価値──ゲームを構成する諸細目はすべて、ゲームに生成する全体包括的価値すなわち「ゲームのエロス」(ゲーム価値)によって意味を与えられる。与えられると同時に、ゲームは固有の意味の系としてマップされ、一つの〈世界〉として構成される。この〈世界〉の先行的な生成に対する直観が、ゲームに対する承認と合意を生み出し、プレーヤーの参集をみちびく。

全体包括的価値は、個を支配するようにも解放するようにも機能しうる。その分岐をつくるのはプレーヤーの経験的本質へのまなざし、みずからに内発するプレーの自由度に対する感度である。いいかえると、ゲーム価値が支配と制圧に転じるものを感じ取れるか否か。この感度を保持しつつ生きられるとき、ゲーム内のプレーはつねにその支配性をしりぞけるように展開していく。

このとき、ゲームのエロスは即自的には存在しない。そのつど生成するものであり、新たな質と強度をもつ未規定性においてそれは発現する。未規定な展開において、それが発現するには乗りこえるべき行程があり、克服すべき困難がある。 そのことに向きあい、対峙することがみずからの企投を方向づけるだけではなく、 ある〝活性〟をみちびく資源として生かされる、という内的な確信のカタチ。そしてこの確信をささえるのは、やはり、最初に直観されたゲームのエロス、ある種の「fantagie」の直観であり〝信〟である。

自由の展開──その発想、スキル、アンサンブルの探究にゴールを設定しないこと。 新たな「ありうる」の可能性を可能性のまま保持しながら、 〝完成形への着地〟をしりぞけるように踊りつづけること。

なぜなら、そこにはつねに相互に沸き立ち、相互に承認を与えあう地平が開かれていくからであり、 それが〝信〟によって支えられながら、その実践と経験が逆に〝信〟を試し、鍛え、よく支え返すからである。

 

 

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「展開形」 20190626

2019-06-26 | Weblog

 

かたくなさ、かくあるべしの命法と規律、異質なものを遠ざけ堅固な防衛の体制によって築かれる秩序、安定、統一、ある定型的な集合的フォーメーションが指定する意味と価値の配列にしたがってすべての個を位置づける全体構造がある一方、それとはまったく異なる集合的なフォーメーションがありうる。

いわば定型、実体としての秩序ではなく、集合的な「意志としての秩序」──

「自己修正的な回路」をとおして、「決定の連鎖がサイクルをなして永続的にくりかえされ」、新たな編成の生成の連続的展開がそのまま一つの秩序、安定であるような展開形としてのフォーメーション──いいかえると、実体化され固定化された編成フォーマットを下敷きにしながらも、「いかによりよく変化しうるか」が、つねに集合的主題として共有され、その試行的展開が日々のいとなみの中核をなすフォーメーションがありうる。

 

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「La Rencontre」 20190625

2019-06-25 | Weblog

 

世界記述──つねに、その確定項をかく乱するように訪れつづける〈世界〉。すべての予期が及ばない出会い、その偶有性 contingencyから導かれる生の新たな展開可能性、ある意味でそれは生の全域を貫いている。

 

人間的生の活性、触発をうながすものとしての〈世界〉の新たな現われ、その出会いの偶有性。たとえば確定項の正当性、妥当性を再確証することの理由、動機、そのこともやはり確定項をかく乱するものとの出会いによって与えられる。

     *

ノイズ、ランダムネス、アクシデント、カオス──偶有性としてカウントされるものを感知することで、触発され、活性が生まれ、人間的生はそれを必然として、必然を紡ぎだすようにみずからを組織し、新たな企投が始発する。

 

「AはAである」という「存在の即自性」、存在の直接性がゆらぎ、消えるように直観するときにはじめて、人間的生はみずからに裂け目を生み、〝自由〟の入り口にたたずむ契機を手にする。そしてそこに生の展開における分岐が起こる。

 

展開と回帰、その決定的な分岐──

 

ノイズ、ランダムネスの侵入、浸潤に対して堅固な防衛体制を築いて〝保守〟する方法ではなく、むしろ生の展開の条件として、あるいは生の必然的な「諸細目」として摂取することで、新たな意味(「包括的全体」)の創発をめがける生の方法というものがある。

 

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生成する「問い」──インターミッション 20190622

2019-06-22 | Weblog

なぜ・なに・どうしたら──

実存──〝問い〟を携える未決のフォーメーション。

同伴する因-果的確定記述にスキマを開く内的原理の作動。

    *

これはこれ・あれはあれ・それはそれ──

世界を捉える内的記述は、一つの確定項(確定記述)をめがけるように動いていく。

なんらかの理解、確定記述を充てることでしかみずからを組織できない生き物としての必然性。

この必然性は個人史的展開プロセスの必然性、かつ各自的な状況的必然性と結びついている。

    *

すべての確定項には、しかし、つねに問いに付され更新へ向かう展開可能性が貼り付いている。

すなわち、みずからを審議にかけ、修正に向かう作動がスタンバイしている。

 

内的記述は世界の姿を確定するように動きながら、

つねにそのことを反照するまなざしに同伴されている。

    *

ためらい、迷い、とまどい、はじらい、はにかみ──

確定記述、自己完結をみずから拒むように実存の内側に走るゆらぎのさざ波。

 

確定へ向かう自己記述、関係記述、世界記述に用意されるインターミッションの位相。

反照を促すように訪れる情動のざわめき、一義的に収れんされざるポリフォニックな情動生起。

    *

 

 

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「狼のニヒリズム」 20190619

2019-06-19 | Weblog

 

羊のニヒリズム──

「客観」(真理・正義・最高善)の不在、あるべきものの不在に対する嘆き、接近の不可能性、その挫折と苦悩がみずからに与える処方箋としてのニヒリズム、シニシズム、イロニー。

 

「徹底的ニヒリズムとは、……われわれは、彼岸を定立する権利や、「神的」であり道徳の体現であるような、事物の背後にある本来のものを定立する権利を、これっぽっちも持っていないという洞察である」(ニーチェ『遺された断想』清水・西江訳)

 

狼のニヒリズム──

「客観」(もの自体)の不在を受け入れる、ないものねだりをしない、といった諦念とまったく異質な認識。

「主観は外に出て思考することができる」(理性)という前提、

主観には知りえない「外部」(絶対的根拠)が存在するという前提の完全な棄却。

棄却することで赤裸々に照らし出される「生成する力」としての人間的生。

ただ人間的生においてのみ「生成する世界」ということへのまなざしを失わないということ。

 

このことの帰結──僭称された「客観」の無効性、その理由の暴露。

主観同士の制圧へ向かう「客観」の道具的使用の動機の暴露と解体、その必然性。

それでもなお「生成する客観」についての適切な用法があることの洞察。

 

 

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「問い」 20190615

2019-06-15 | Weblog

          https://www.youtube.com/watch?v=QpL-ED9cQ5I

 

なに・なぜ・どうしたら──

問うことのうちには、つねに新たな企投への意志が滲んでいる。

 

生の主題(欲望)は問いのなかに記述され、

新たな「ありうる」へ向かう意志として示されている。

 

われわれの経験のすべては「いま、ここ」以外にはない。

しかし実存のうちがわから経験をみるとき、

「いまここ」「このこれ」として時点的に切り取られた記述として、

人間的生の経験を示すことはできない。

 

かつて・いま・これから──

われわれのあらゆる経験にはつねに時制が滲んでいる。

 

均質な直線として実体化された過去-現在-未来、

あともどりも先行することもできない厳格な数学的展開としての時間ではなく、

人間的生にとっての世界経験の意味的な秩序としての「かつて・いま・これから」。

 

そのことの了解のうえで、「いま、ここ」を出発点と捉えること。

つねに展開形として生きられている人間的生の本質から「現在」をみること。

さらに、このことを「世界の生成」という言葉に置き換え経験の本質をみること。

   *

実存──「世界生成」の唯一つの源泉であること、その固有性、各自性、一回性。

さらにそれ自体の生成性と歴史性、そして完全消滅するものとしての実存。

その生成の現場に立ち入らないという基本的、そして絶対的な作法。

立ち入ることを許された特権的な存在者はどこにもいないということ。

本質的にはそのことが絶対に不可能であることの認識。

それは、現実の論理が〝力〟を中心に展開して行こうとするほど、重大で決定的な意味をもつ。

 

そのことで何が守られるのか。

答えはきわめてシンプルである──人間的生として、ともに生きるために。

 

意味と価値の生成のただ一つの始原、人間的自由が湧き立つ位相。

それぞれがそれぞれ自身にとって唯一つの世界生成の始原であり、

そして相互に世界を与えあい、交換しあう存在であろうとするかぎり、

そのことは必然的に、不可避的に守られるべきものとなる。

 

とんなに事態が関係の病理の猖獗として展開しようと、あるいはそうであればあるほど、

われわれが守り抜かなければならない始原があり、関係の作法がある。

 

そうすべきことの理由を、要請としてではなく、命法としてでもなく、

大いなる「然り」において認めるために、知るべきことがある。

 

 

 

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「生成」によせて──松任谷由実「スラバヤ通りの妹へ」 20190611

2019-06-11 | Weblog

           https://www.youtube.com/watch?v=RTLTscubYPg

 「虚無というものは、思想ではないのである。人間そのものに付属した生理的な精神内容で、思想というものは、もっとバカな、オッチョコチョイなものだ。 ………人間性(虚無は人間の付属品だ)は永遠不変のものであり、人間一般のものであるが、個人というものは、五十年しか生きられない人間で、 その点で、唯一の特別な人間であり、人間一般とは違う。」(坂口安吾「不良少年とキリスト」)

カオスのなかに果実を見いだすまなざし。

そのことを一つの調べとしてかたちにするいとなみ。

 けれどもそれだけではない。

固有の感情の流露であることを明示しながら、同時に、 まなざしを、

ボクたちが、みずからのものと感じることができるように、

それは、歌い手の気配や介入の跡を消すように、名乗り出ることを拒んでいるかのように歌われる。

「永遠の輝きに命の舵を取ろう」と少女は歌った。

どこかに、遠くに、それが存在するわけではない。

ひかり、かげ、いろ、かたち。

分光する固有のまなざしにおいてだけ現われる世界の色づきがあり、響きがある。

そのことを知り、伝えようとする意志があり、創出の努力がある。

努力をとおしてだけ磨かれるまなざしが出会う音があり、

 いちどかぎりの秘蹟をめがけるように奏でられる音楽がある。

 

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「認識論 epistemology」 20190608

2019-06-08 | Weblog

         https://www.youtube.com/watch?v=wjghYFgt8Zk

 

主観と客観──〈世界〉認識の方法をめぐる決定的な分岐、その起点となるもの。

主観と切り離されたある客観的な「真実」(正しさ)が存在するということと、

主観においてある客観的な「真実」(正しさ)という確信が成立するということ、その決定的なちがい。

いいかえると「事実としての客観」と「生成としての客観」が示す〈世界〉の現われの決定的なちがい。

事実としての客観──主観を超えた、ある絶対解、究極解がどこかに存在するという信に支えられる。主観があずからない絶対的真理、その究極的な代理表象としての「カミ」。

生成としての客観──すべては主観内において生成し構成された観念であるということ。関係世界が求める必然性、合意にもとづく相互的な了解点としての「客観」。人為としての、「主観の一様態」としての「客観」。

    *

ストライクゾーンもオフサイドラインも、そして「法」も自然界には存在しない。自然はペナルティを与えず、価値あり-価値なしの論理をもたない。すべては人為、人間的生の関係的の位相において生成するものであること。

ただし〝関係世界(関係のゲーム)〟を生きること、すなわち「関係の絶対性」を生きることの内部において、そのままでは〝ゲーム〟の偶有性=奇跡性、本質的には人為性を教えない。

「客観」「法」の人為性、人の手になるものであること、集合的な意志によって合意された記述としての「客観」「法」。その本質を問うこと。

だれが「真実」について一番知っているか、だれが「真理」に最も近くに存在するのか。「われこそ」「われわれこそ」という言明からみちびかれる血みどろの「真理ゲーム」の歴史。

「真理ゲーム」から「合意ゲーム」へ。

その転換の必然性を認識するには、「主観」と「客観」をめぐる認識論の本質的な修正を必要とする。

 

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