そこで愛が生き続けるためには、
〈智〉の声を届かせなくてはならない。
(G.ベイトソン『精神の生態学へ』佐藤訳)
*
愛の守備範囲は限られている
真っ赤な他人を愛する理由はどこにもない
愛の絆がより遠くへ拡張されるには条件がある
守備範囲の限界を明晰に認識しながら
展開のルートが接続されなければならない
このルートの入口には一つの表示がある
「人権の道──愛を切り離して進め」
このルートが開かれてはじめて遠くへ向かうことができる
そこで愛が生き続けるためには、
〈智〉の声を届かせなくてはならない。
(G.ベイトソン『精神の生態学へ』佐藤訳)
*
愛の守備範囲は限られている
真っ赤な他人を愛する理由はどこにもない
愛の絆がより遠くへ拡張されるには条件がある
守備範囲の限界を明晰に認識しながら
展開のルートが接続されなければならない
このルートの入口には一つの表示がある
「人権の道──愛を切り離して進め」
このルートが開かれてはじめて遠くへ向かうことができる
行き先を失った喪失の感情
埋めようのないがらんどう
ノンのシグナルに染まった世界
砕け散ったことばの群れ
手のほどこしようのないリアルの専制
一切を展開の資源として
新たな光源を構成するマテリアルに変換して
励起する意志、ことば、アート、ビジョン
ヒトという類だけが見出した生の地平がある
──真木悠介『自我の起原/愛とエゴイズムの動物社会学』
同種個体間・異種個体間の関係の諸形態をみてきたように、
個体が個体にはたらきかける仕方の究極は誘惑である。
他者に歓びを与えることである。
われわれの経験することのできる生の歓喜は、
性であれ、子供の「かわいさ」であれ、花の色彩、
森の喧噪に包囲されてあることであれ、
いつも他者から〈作用されてあること〉の歓びである。
つまり何ほどかは主体でなくなり、何ほどかは自己でなくなることである。
Ecstacyは、「個」の魂が、
[あるいは「自己」と呼ばれる経験の核の部分が]
このように個の身体の外部にさまよい出るということ、
脱・固体化されてあるということである。
(*誘惑、歓喜、陶酔、自己裂開、その相互性と展開可能性)
蝉時雨/w-inds. @LIVE TOUR 2008 Seventh Ave. (youtube.com)
w-inds. Hello 2008live - 7th Ave -.mp4 (youtube.com)
冷たい風が吹いて
夏を消していく
忘れないでいよう
意味をつかまえるまえに
状況は状況を追い越し
吟味するまえに
切迫と焦燥が導かれ
感慨を刻むまえに体験はからだをすり抜け
新たなコードがぞくぞくと名乗りを上げていく
名づけようのない場面転換の加速度に
存在はハトのようにからだを丸くして
呆然と風景に身をさらしている
どこにも「経験」が刻まれない世界──
どんな感情も凍てつかせる
吹きさらしの生の位相がある
身をゆだねると世界が枯れていく
そのことを知ることで思い知り
生きる理由が明らかになる
そうではなく生きていたい
そうではなく生きてほしい
そうではなく生きられるように
水をやり、光をそそぐ
なんどでも、みずからに
深く心に刻んでおくべきことがある
「愛すること」、その優れたモデルは信仰のよる隣人愛ではなく、
あの情熱恋愛にある。そこでは、他を愛することが自分を愛することと「一致」し、
そのことで愛の自己中心性を不思議な仕方で抜き取るからである。
*
エロティシズムとプラトニズムを対立させるとき、
人は恋愛の欲望を最も誤解しているだけではない。
それは人間の実存の条件それ自体を誤解することになるのだ。
*
ドストエフスキーにおいては、人間にとっての「美への希求」と「情欲」とは
本質的にひとつのものとしてつながっている。
人間の欲望はその生の意味への欲望に押されて、
自己の幻想のただ中で「美的超越」を夢見る。
この夢は滅ぼしがたいものだ。だから人間は「罪」を犯すことがありうる。
そのとき、人間は自分の生の核を扼殺するかもしれない。
しかしまた、それにもかかわらず人間は自分の内的モラルを救済し
自分自身を救う根拠をもっているだろうか。そう彼は問うているのだ。
*
人間の実存の条件とは、それが一方では徹底的な「自己中心性」に基礎づけられており、
しかし、またそのことを根拠として、もう一方では他者と世界に向かって
己れを超え出たいという欲望を生み出しつづけるということにほかならない。
プラトニズムとエロティシズム、ロマンティシズムとリアリズムの、
また超越と頽落のパラドクス、それらはやはり同じ性質をもっている。
「恋愛」はいつもそれらが対立する極点の「つなぎ目」の場所で成立するのだ。
「あんなこと言っていたのに、こんなによくなってよかったわネ」
などと言わないことである。
癒えた病の記憶もこころの傷(外傷性記憶)として、
意識の皮一枚下に生きていることが多い。
この薄皮を大切にして、はがないことである。
(中井久夫・山口直彦『看護のための精神医学』2004)
治療へ向かう努力、善意のプロセス自体がどこか〝病的〟であるうる可能性
すなわち、みずからがまちがえる可能性、可誤性について
つねに胸にとどめて生きるかまえ、それを「良心」と呼べるかもしれない
すぎたことをなんどもなんどもくりかえし反芻する
メソメソ、ウジウジ、ジメジメ、センチメンタル
泣き虫野郎、それでもオトコか、とかなんとか
そう語るだけのタワケにはたくさん出会ったことがある
そう語ることが何かのつもりのさびしい人生も死もたくさん見た
(いったいそこにどんなゲインがあるんだ)
そうした言説ルートを選んだ、ではない、選ばされている
わかりやすいデフォルトの関係意識、荒涼を導くほかない関係構造
あまりにも見え透いている、思うツボのドツボとか思わないか
ことばの専制にのぼせた世界とは早く別れを告げたほうがいい
泣きたいだけメソメソ泣き切る、そうしてはじめてはじまる
はじまらなくてもいい、それがまぎれもないおのれの生を教える
パスを送る、一歩もうごかなくていい
うごいてはならない、そう云いなおそう
はじまりの場所は、はじまりから終わりまで
つねにはじまりの場所でありつづける
きみの生、おれの生、だれかの生
生きるものすべて、ひとりだけの場所がある
だれも取って代われない生命の場所に居つづけること
おれたちはいつもうごきすぎる、毎日、毎日
うごきすぎてはじまりの場所からはぐれ、迷子になる
それだけではない、これまで頻発してきたことがある
そう、ひとりだけの固有の生はいつのまにか
だれかに、おのれならざるなにかに取って代わられる
まじりけのない悪神だけではない
しばしばやさしい天使の姿をしている
うごきすぎて起点が消え、この世で一番大切な場所を見失う
この倒錯の歴史、変態の歴史はいまもつづいている
あれかこれか、あれでもないこれでもない
まよい、ためらい、さまよい、右往左往する
それはゆらぎのなかを生きる生命の証でもある
けれども、ゆらぎ、さまよう場所をまちがえてはならない
みずからの生きる場所を忘れ、否定し、席を譲ったらおしまいだ
その帰結は一つだ──「差し押さえをくらった命」
ほんとうはどんな偉そうなカミガミも介入できない
ただひとり、生命が生命でありつづける神聖な場所がある
カミガミの誘惑を跳ね返す、不逞な、ふてぶてしい心をもって
いまここに生きている、これからも生きていくいまここをキープする
生命の姿が消えてゆく、荒廃した世界が再演されないように
つねに、一歩もうごかずにそこに居つづけること
一つだけ注意(蛇足にちがいない)
潔さのパラドクスに呑み込まれないように
覚悟を決めることと世界の姿を確定することはちがっている
世界の姿が確定され固定されると、なだれ式に
すべてがバインドされ、みずからもバインドされる
いまここに居るひとりの場所をキープして生きる
この相互性においてはじめてパスの通り道が生まれる
そうしてショートパスもロングフィードも可能になる
そうしてはじめて俺たちはほんとうに出会い
パスを交換しあって生きあうことができるだろう
Chopin: Nocturne No. 10 , Op. 32, No. 2 - Ingrid Fliter (youtube.com)
起き上がり、窓を開け、空を見る
なにもない、光だけを充填した空がある
ときどき遠く聴こえてくる
「忘れてるでしょ」
だれかが投げてくるシグナル
ふりかえるまでもなく応答する
草の息がひそむ場所は神聖だ
湿ったイノチの戦慄は終わらない
ああ、受信装置はこわれてはいないと思う
そうしてつづった記憶はいまもあざやかだ
Antonín Dvořák: Serenade for Strings | NCO · Tønnesen - YouTube
自分を愚かだと思わないほうがいい
自分を賢明だと思うのと同じくらい、まずい
自足の形式は、正でも負でもありうる
自明性が強権をふるうほど、等しく閉じられていく
非知のクラウドと連結する開口部をあつらえておこう
そこが光が出入りするエントランスになる
気に病むことはない、病んでもオーケー
病んだぶんだけ新しいモチーフがあらわれ
それが未知の光を集める空域をつくる
「わからないことだらけ」
上等、生まれる問いに呼応するように
光を呼び込むキャンバスが必ず目の前に現われる
展開のスペースを拡張するように
ただ筆を握る腕をうごかしてゆけばいい
──中井久夫「絵画療法と私の今」(『統合失調症の有為転変』)
系というものは平衡を取り戻そうという
絶えざる細かな作用の集積として成り立っている。
これはゆらぎであって、ゆらぎがあるからこそ
外からの作用が入り込むことが可能である。
これを動的平衡というのであるが、
これにはフィードバックが不可欠である。
ちなみに、これと異なり、急性発症はフィードフォワードの過程であって、
これは作用の結果が作用を新たに起こりやすくし、
その結果どんどん強力で射程の長い作用となることである。
画を描くという行為には、フィードバックもフィードフォワードもあり、
両者が実に巧妙に組み合わされて、一つの時間的空間的建築物となっている。
そして作用と反作用とが異なることによって、
系は、この両者とは別の、一つの高い次元において動くのである。
*トポスの異なるふたつの作用点と作用点、両者の相互反照が連続する展開。
この二重の記述から、いわば内なる〝対話のテーブル〟があつらえられ、
そこに、どちらにも属さない新たな次元(第三領域)が顕現する。
Wait a second, let me catch my breath.
──Alan Walker
スキマなく埋まったことばの包囲をほどくように
日常のスコアに休止符を書き入れる
展開コードとの連結を解除して
魂が息つぎするフリースペースを開く
インターミッション──
走りすぎる配慮の心が溶けてゆく
このスペースは相互に与えあうことができる
きみたちはこどもと呼ばれているけれどおとなも住んでいます
つまり、おとなの種をじぶんの中に宿しています
この種を、毎日水をやり、光を当てるように大切に育てること
きみたちひとりひとりにとってとても大事な仕事です
「おとなってなんですか?」
ひとつだけ、けれど一番大切なことをいいます
なすべきことがらにかかわります
それはね、「戦争を起こさない」ということです
日々の暮らしのなかで、どう考え、どう発言し、どうふるまい
どんな人と人の関係をつくってゆけばよいか
戦争が起こらないための条件についてとことん考え、語り合う
このことを自らのつとめとして生きる人をおとなと呼びたいと思います
ひとりひとり、種が芽吹き、すくすくと幹が育ち、枝を伸ばし
豊かに葉を茂らせ、いつしかたわわに果実を実らせる花ざかりの森
きみたちの成熟した姿をそんなふうにイメージすることができます
異なることば、異なる思考、異なる感性
異なる美意識、異なる価値コード、異なる歴史
みずからの生活圏では出会うことのなかった
異質な存在たちと場所と時間をともにする
はじめに感じる異和、おどろき、感心、反発、不協和、ゆらぎ
最初の遭遇から生じる心の泡立ちをどこへ向かわせるか
「みんなともだち」
いきなりそこへは行くことはできない
いきなり行けば矛盾と混乱は不可避になる
なぜか──
それぞれの生活圏には準拠する価値のコードがあって
その内部では、差別やいじめが象徴するように
ちがいを排除し、遠ざけ、コードを保守する心的な機制が働いている
(学校がそうであったら救いがない)
この心的機制を理想、ロマン的理念、先験的に設定された外部コード
つまり、メタ倫理の外からの注入によって乗り越えることはできない
(本質的な変化は、ひとりひとりの内側から起こるしかない)
相互のちがいを抹消するように同期するのではない
そう語り、ゴールを示すまえに、ひとりひとりたどるべきルートがある
「異者にとって、みずからも異者である」
この自覚と認識が第一歩目
この自覚と認識の共有が第二歩目になる
いいかえると、相互のちがいを承認しあって生きあう地平
そこへ向かうための最低の条件を手にすることができる
(その契機を知り、手にする場として学校があればいい)
相互に支え合う前提の織りなす果てしなく
複雑なネットワークに捕らわれて生きること、
これはすべての人間に共通の宿命だろう。
(G・ベイトソン『精神と自然』佐藤良明訳)
*
ちょっと考えればわかることがわからない
そんなことがありすぎるかもしれない
食う寝る遊ぶ、住むところ、すべて
つまり主義も主張も信条も好きも嫌いもへったくれもない
素性の知れない真っ赤なアカの他人様たちにお給仕して頂いて生きている
「ぼくって、ぼくたちってすごい」
とかなんとか、それが断トツ一番のはずかしいことになる
これは倫理でも道徳でもない、動かしようのないリアルに由来する
覚えておこう、そうしてやっと始発の場所に立つことができる
おとなとして、ひととして、類として、最初に踏まえるべきこととして