見たものは見たのであり、感じたものは感じたのであり
経験したものはたしかに経験したものである
すべてのはじまりでありつづける現象──
意識の恣意を超えて意識に訪れる〈世界〉
「だってそう感じたのだもの」
この経験の位相において「客観」は存在しない
客観が生成する理由も存在しない
すべては〝わたしにとって〟という位相において端的な〈世界〉の訪れがあり、
〈世界〉はわたしに感じられ、味わわれ、目撃されているだけである
この第一次の過程のまま生が直進可能であれば、訪れとしての〈世界〉は動かず
わたしはただ〝わたしにとっての世界〟に直面して生きるだけである
この段階において、わたしの内的経験として
現象する〈世界〉はそのまま「世界」である
しかしこの第一次の過程として示される〈世界〉はそのまま維持することができない。
〈世界〉の現われは一つではない──そのことを告げる存在、他者がいる
他者、わたしとは異なる経験を生きるわたしに似る存在がいる
ここに、もう一つの確信の意識が〝わたしにおいて〟現象する
「おれはそう感じない」
わたしに似ながらわたしとは異なるように世界を経験している存在
他者経験の意識は〈わたしの世界〉という確信をゆるがせ、亀裂を生む根拠であり
同時に、〈わたしの世界〉が拡張される契機(資源)でもありうる
私の世界を脅かすもの、同時に、私の世界を拡張するもの
この二重性において「他者」はわたしの世界に住みついている
第一次の経験は、他者の視線に照らされることで第二次の過程に入る
みずからの経験を審議し、査定し、評価する他者の視線
二つの視線が交わることで、脱自的な経験の位相「客観世界」が開かれる
一つのまなざしに収納することができない他者、他者の経験世界
その無限の表現性において現出する存在をみずからの内側に住まわせる
なぜか
おそらく、それは〝関係〟という巨大なエロス(幻想)に魅入られ
あるいは呪われて生きるほかない人間的生の本質に由来する
一次過程と二次過程、その絶えざる円環を生きる関係存在
関係企投の連続的展開として、関係世界を構成し生きる人間的生
そしてその全プロセスを媒介する存在として「他者」がいる