https://www.youtube.com/watch?v=jxovhyNOcOo&list=RDjxovhyNOcOo&start_radio=1
季節に留まらせ、季節の展開についていくことを困難にする訪れがある。
けっして忘れていたわけではない。それはこの季節だけのものではない。
そのこともよくわかっている。
忘れてはいない。けれど痛切はそのつどの一度かぎりの強度で胸をしめつける。
それに抗するどんな手だても見いだせない訪れと屈伏。 2019年、春。
https://www.youtube.com/watch?v=jxovhyNOcOo&list=RDjxovhyNOcOo&start_radio=1
季節に留まらせ、季節の展開についていくことを困難にする訪れがある。
けっして忘れていたわけではない。それはこの季節だけのものではない。
そのこともよくわかっている。
忘れてはいない。けれど痛切はそのつどの一度かぎりの強度で胸をしめつける。
それに抗するどんな手だても見いだせない訪れと屈伏。 2019年、春。
実存の未決性──〝ゆらぎ〟という本質的特性。
ためらい、迷い、とまどい、躊躇、はにかみ、はじらい。
存在を確定しようとする一般解からはみ出し、あふれ、こぼれる〝未決のゆらぎ〟。
つねに因果的記述とすれちがう実存の本質的形式。
あるいは、生命/非生命をわける決定的なゆらぎの特性。
この領域でのみ現象する不連続な変化があり、非線形的なジャンプがある。
因-果の線形的記述に従わない現象、創発する〝意味と価値〟。
相即する新たなフォーメーションの可能性(存在可能)。
人間的価値の創発の起源として生きられる第三の領域。
関係価値としての真善美の本質──その生成性へのまなざしを失わないことの決定的意味。
関係のゲーム(関係世界)だけに創発する人間的価値の諸相──人権、王権、天国、地獄、神。物語、神話。
新たな創発への予期において駆動される生存のかたち。
この領域へのまなざしを失うとき、世界は一般解で埋め尽くされることになる。
なぜ・なに・どうしたら──「問い」を携えながら生きる人間的実存。
一般解、すなわち確定記述に埋め尽くされた関係世界──全問正解を僭称する社会的構成。
現実論理の本質、一般解で動く現実の局相を絶対性として切り取った一つの世界記述。
この絶対性を帯びて展開する確定論理のなかで、その書き換え可能性を見失わずに確保するには、
人間的価値の生成性の起源、みずからの実存に内在するものへのまなざしを必要とする。
https://www.youtube.com/watch?v=JXH-sj9miO8
〈世界〉に透明な区切りを入れ、ピースに切り分け、マップし、再構成する。
この絶えざる再構成は、解釈、変換、意味づけ、価値づけという、
意識に先行する運動の展開としてそのつど意識に示される──意識はこれを〈世界〉(体験)と呼ぶ。
考えるより先に世界は自明性と非自明性の織物として開かれ、
固有の意味配列、価値配列、その明証性のグラデーションが、
おのれの「欲望」と「関心」の本質と形式を写像している、そうした構造において〈世界〉は現出する。
われわれはつねに、世界に区切りを入れるというゲームに没頭している。
一定のパターンをもって世界に切れ込みを入れるコードの集体──、
それは「個性」あるいは「人格」と呼ばれている。
あれはあれ、それはそれ、これはこれ──意味と価値の配列として世界を分節することの必然性。
そうしなければみずからを組織化できない「生き物」としての存在論的本質。
「心地よい/心地わるい」
「よい匂いがする/いやな匂いがする」
始原的分節──最初の世界との出会いがみちびく分節は、身体の感性的な反応から開始される。
〈世界〉は「快/不快」が構成する地層をつくり、そのうえで関係のゲームが開始され、
次々に多層の構成としてつみあがり循環する人間的関係世界(ゲーム世界)が展開する。
*
クラスわけ──
人類はクラス分けを30回ほど繰り返すと民主主義の基礎単位=個に分解する。
しかしわれわれはそこに至る手前の任意のクラス分けの段階に留まって〈世界〉を構成し生きている。
現実論理の絶対的要請と、そこからの離脱をめがける概念形成の先行性。
その矛盾と齟齬の主題化という、新たな課題の生成、そこに言葉の本質がある。
クラスの形成とそこへの着地という必然性、それは生存の過酷さへの対抗、共生の論理から導かれる。
共に生きることの現実的要請、そのことへの集合的応答としての共同体の形成。
そしてそのことを可能にする共同体の論理、世界記述にあずかる価値コード、解釈コードの体系。
https://www.youtube.com/watch?v=nMOULf4oEvI
それを見出してゆく道はつねに開かれている。
肯定する心の結節「然り」が一つの「包括的全体」として「われ欲す」を構成するなら、
諸細目に新たな意味が与えられ、〈世界〉はつねに相転移の契機とともに生きられる。
ある感情はあるとき、一斉に、「関係の死」を裏書きするように動いていこうとする。
それは〈世界〉の失墜、不幸、貧しくやせ細った姿を証明したがっているかのように、
それにふさわしいコトバだけを選んでみずからを強化していく。
その果てには〈世界〉の完全な砂漠化、そして自死のエロスに魅せられる感情がある。
コトバたちを、ある必然性において、その逆の方角へ──
新たな「ありうる」をみちびき、ささえるものとなるように、
いま、ここで、つねに見出されていなければならない「よき感情」がある。
https://www.youtube.com/watch?v=k_Uvy9gUH_g
すこしでも距離を埋めようとすると すみやかに遠ざかっていく
なにか誘うシグナルが動いている なのに向かう唇を拒むものがいる
呼ぶ声が響いている けれどもわずかな接近さえ 禁じる声が混じっている
接続のラインが希望へ向かうと 透明な裏切りへと転位していく
語りえないものは語りえないものとして
物語に奉げることが 虚偽に転移する境界をまたいではならない
忘れないでいよう どんなに難しくても
壊してはいけないものがある それがそれとして生きられるように
その意志だけはキープしよう
https://www.youtube.com/watch?v=xn4KUN3yfMg
語りうる水準で語りあうのではない
わかりあえる水準でわかりあうのでもない
理解できないことがかなしいのではない
理解してしまうことで消えていくものがある
理解のポケットに慌てて収めないことで
未知の未知性、非知の非知性のままに
もてなしの意志が動きだす関係のテーブルがある
*
理解できないことの理解できなさ 語りえないことの語りえなさ
知りえないことの知りえなさ わからないことのわからなさ
相互に非知として向き合い生きあうかぎりにおいて
はじめて開かれる二つの記述がまじわる位相がある
*
みずからの記述の形式に収納できないということ
みずからの分節コードによって規定できないということ
ちいさな理解のポッケに収められない生成として
相互に認め合うかぎりにおいて
自明性の外側に開かれてゆく未踏の第三の領域がある
*
相互に相互にとっての非知を資源として
新たな記述形式が立ち上がっていく
二重の記述、多重の記述から立ち上がる未踏の記述形式があり
相互の記述形式が交わることで生まれ、加えられる〝世界の奥行き〟がある
*
関係了解の過度の自明性がゆるむことで 開かれていく
新たな経験と再組織化へ向かう位相があり
相互の「非知」性がオープンになることで、
逆説的に、活性を帯びて形成的に動きだす関係の位相がある
*
理解が行きすぎ、走りすぎないように
つなぎ目に差し込まれる無音、演奏の一時解除──インターミッション。
*
切れ目のない情動と行動の直列状態が自然なフロー、定常状態を維持しているかぎり、
そのこと自体を対象化する契機は生まれようがない。
しかし遷移する環境を生きるかぎり定常性はつねに破られる契機を孕んでいる。
さまざまな困難、矛盾、齟齬、停滞、不安、苦悩に出会うことになる。
このとき自然なフローに同伴し、支えたさまざまな記述命題──自己記述、他者記述、関係記述、世界記述は再点検の要請を受けることになる。
そのことは内なる経験の明証性──情動生起によって告げられる。
さまざまな困難の克服、解消による自然なフロー=定常状態の再獲得のめがけにおいて、
その方法、手段、選択肢があらかじめ明示的に存在するわけではない。
審議の位相──いったん統一的に調整され、整合されたフォーメーションは、
一時停止することで、思考の自由な展開スペースを生みださなければならない。
既定の定常状態を支える記述命題群、その自明性、正当性、妥当性は、
そこで留保され、再点検され、新たなフォーメーションへの移行が審議される。
新たな展開へ向かうためには、演奏の一時停止、ある休止符の挿入が必然化する。
転調、転回、拡張の契機を生みだすこと──
あらゆるゲームでルールの適用除外の特権が許されるのはゲーム参加者全員の合意に基づく。
この適用除外の位相を、自覚の有無に関わらず、それぞれの実存はその内につねにキープしている。
https://www.youtube.com/watch?v=JXH-sj9miO8
すべての関係世界、関係場面において、どんな言葉が相互に編みあげられていくのか。
その基底をなす根源的な意志──「われ感じる」「われ欲す」。
そしてそのプレゼンテーションとしての〝私にとって〟の〈世界〉の現出。
*
そこには、しかし明示可能などんなラングもパロールも刻まれていない。
*
みずからに生成し、変容し、遷移しつづける「われ感じる」「われ欲す」。
その湧出にただ一人、立ち会い、目撃し、まみれ、ある納得と了解の探索へ向かう現前意識。
関係存在としての現前意識は、関係場面において、ただ「問い」のかたちでのみそれを展開させることができる。
「どんなゲームを望むのか」
言葉を結ぶこと──その試行的な探索のなかで、言葉の一つ一つはある感触を確かめていく。
言葉を結ぶこと──その展開の相互性においてだけ探索は納得と了解の本質をつかむ可能性をもつ。先験的にどこかに実体としての「解」が存在するわけではない。「解」はただ相互的な二重記述、多重記述の展開のなかから、純粋な生成と消失の二重性においてだけ、その本質と展開可能性をもっている。
https://www.youtube.com/watch?v=f99mfQOldx0
〈世界〉との遭遇のたびに透明な無数の切れ込みが入れられ、ただちに「意味」と「価値」のランドスケープが開かれる。その告知はつねに情動の作動と連れ立っている。
「よい/わるい」「きれい/きたない」「うそ/ほんとう」
一定のパターンをもって世界に切れ込みを入れるコードの集体──、それは「個性」あるいは「人格」と呼ばれている。考えるより先に世界は自明性と非自明性の織物として開かれ、意味と価値の配列、その明証性のグラデーションがおのれの「欲望」と「関心」の本質と形式を写像している。
この一次過程はつねに、すでに、あらゆる局面で作動している。
「世界の到来」としての一次過程を消去することはできない── 一切は「世界経験」の原的な所与性としての一次過程からはじまり、はじまりつづけている。
われわれは世界を知的に経験するより先に、価値的意味的に(エロス的)に経験する。原的な直観は意識の経験に先行して、意識に〈世界〉というランドスケープを与える。
世界経験の根源的な装置としての「身体」──感じる身体、欲望する身体。感情、情動という身体が発するメッセージは、世界経験をめぐるあらゆる思考の原的リソースであることを意味する。どんな意匠、真理や正義をまとった言葉であっても、つねに価値的エロス的に文節された固有の〈世界〉=マトリクスから生成している。
言語的に一般化された〈世界〉記述をめぐる経験を「二次過程」と呼べば、「二次過程」は「一次過程」に原理的に先行することができない。
どんなにそれが醜く嫌悪すべきものであるようにみえても、心的体験として現象する情動の到来を、第一次の世界経験までさかのぼって消去するすることはできない。たとえば、自己あるいは他者に対する批判・否定は、自己あるいは他者が経験している第一次の原理自体に向けられても何の意味もない。
しかしここには循環する回路がある。一次から二次へ。二次から一次へ。その絶えざるリカーシブな展開において、回路全体には質的に遷移していく契機が内在している。
一次過程は意識に対して「自律的に」作動している。意識の関与できる可能性はつねに二次過程として展開する。たとえば、なんらかの合意あるいは相互的な了解(納得)をみちびくには、相互の一次過程を受けとめながら、自と他が構成する「メタ回路」、二次過程の探索へと突き進む以外のルートはない。
*
二次過程──いいかえると、関係世界。関係のゲームにおけるプレーヤーとしての関係存在としての「私」。
われわれは関係世界を生きる関係存在として、関係世界の秩序を成り立たせている関係項(言葉の一般意味やルールの総体)をみずからの確信の意識の根拠として生きている。そうでなければ、われわれは関係のゲームのプレーヤーとして生きることができない。
二次過程の展開──その本質的展開は、つねに相互的他者関係において現象する二重記述、多重記述によるさまざまな関係項の生成に担われている。
この生成という根本的原理性からけっして視線を外してはならないこと。一切は生成として現象している。この生成という根本原理が見失われるとき、関係世界は実体化され、そこに含まれる記述命題の一切が超越性を帯びはじめることになる。
「A‐非A」関係──命題「A」にはつねに命題「非A」が貼りついている。命題「ストライク」のメンバーからなるクラスを漫画の吹き出しのように囲むと、囲み線の外側には命題「アウト」のクラスが自動的に配置される。「A」か「非A」のいずれか一方のクラスを強調するだけで、このコンテクスト(世界の区切り方)は強化されていく。
*
二項からなる対抗的共生関係──相互に否定し合う対立的関係にみえながら、実際には否定的媒介項としてそれぞれの存在理由の根拠を与えあう共生関係にある。
「善‐悪」「真‐偽」「正‐邪」「白‐黒」「友‐敵」「美‐醜」「聖‐穢」──その無数のバリエーションにもかかわらず、ともに二者の相互依存的関係の閉じた生態系(ニッチ)という形式的同一性で共通する。
二項図式──〈世界〉の意味配列、価値配列のもっともプリミティブな、そして滅びない原理的な思考シェーマ。われわれの日常の大部分を構成する世界の分節原理でもある。典型的には「友‐敵」図式にその本質が示されている。思考、感情、行動のすべてにわたり、日々の推進力の源泉として働く、より自然の法(力の論理)に近い関係原理。
*
相互依存──相互に存在理由を与えあい支えあう対抗的共生関係においては、関係を離れたそれぞれの自分自身の独立した思考というものが存在しない。その活性も不活性も生成も死滅も運命共同体として一つである。
にもかかわらず、それぞれは相手のことをよく知らない。まったく知らないといってもよい。相互に相手の存在についての記述の一切は先験的に確定され、自明化しデフォルト化している。いいかえると、「否定項」という絶対的規定によって、それぞれは相互に思考対象から除外されている。
*
人間的生から生成する分節原理──その価値と意味の配列、それぞれの実存の企投と結ばれて構成的に立ち上がる〝現実世界〟。その非自然的な生成性と消滅性から視線を外さないことで、あらゆる「超越」(物語・神話)の支配を廃棄することが可能になる。
いいかえると、「超越」を後ろ盾にした全言説が廃棄され、ただ実存(個)に創発する価値という原事実、そこから共同的に立ち上がる神意ならぬ〝人為〟としての集合的価値、その合意可能性という根本原理の暴露。そして、それを支えるものとしてのそれぞれの実存(個)が保持される。
*
第三領域──神意ではなく〝人為〟、人間的実存における価値の創発可能性へのめざめとしての近代。
二項的世界図式──天国と地獄──に加えられる新たな関係的ナビゲーションの可能性、第三の思考領域の発見、第三の言語の創発可能性へのめざめ。すなわち人間的「自由」の発見と自覚、その実践的希求としての近代。
われわれはいまだに完全にめざめ切っていない、行きつ戻りつの歴史の中にいる。
https://www.youtube.com/watch?v=5Amyp4v-I84
不可能が聖域化して諦念が世界を呑み込むまえに
万策尽きてすべてが暴力原理に席を譲るまえに
つねにそこにとどまり
ていねいに結んでおくべき
まなざしの焦点があり、生成の拠点がある
出力を制約し、規定し、拘束するものは、全体包括的な意味の明証性が像を結ぶと同時に、 そこにいたるための貴重な手がかりに変換される。
そこにいたるために乗りこえるべき行程があり、克服すべき困難がある。 そのことに向きあい、対峙することがみずからの企投を方向づけるだけではなく、 ある〝活性〟をみちびく資源として生かされる、という内的な確信のカタチ。
その確信をささえるのは、やはり、最初に捉えられたある種の「fantagie」への〝信〟である。
自由の展開──その発想、スキル、アンサンブルの探究にゴールを設定しないこと。 新たな「ありうる」の可能性を可能性のまま保持しながら、 〝完成形への着地〟をしりぞけるように踊りつづけること。
なぜなら、そこにはつねに相互に沸き立ち、相互に承認を与えあう地平が開かれていくからであり、 それが〝信〟によって支えられながら、その実践と経験が逆に〝信〟を試し、鍛え、よく支えるからである。
関係世界を生きる関係存在における関係的(企投的)要請として、
主観の内において「客観」は生成し立ち上がる。
主観と主観を結びあわせるパターン、〝関係子〟としての「客観」。
いいかえると、それぞれの主観が〝ほんとう〟として納得可能な、
共通の了解項としての「客観」──その探索行為としての相互的関係企投。
それぞれの実存としての主観同士が共存を願い求めるかぎり、必然的に、
「同じ世界を生きる者同士」という相互認証の基底をつくる、
〈世界〉の同一性についての相互的確証、その共有可能性が主題として浮上する。
その意味的価値的配列についての共通了解を確定させるべく、
主観を超えたいわば汎主観的(間主観的)な位相が必然的に探索され、
関係子としての「客観」が(主観内に)立ちあげられていく。
生成としての「客観」──このことの了解、原理性についての理解が導くこと。
第一に、共同構築物としての「客観」──集合的な合意項という人為性。
「客観」という関係子は新たな生成による刷新、変容可能性をもつものであること。
そしてそれは生成と同時に、消滅の可能性をつねに孕むものであること。
第二に、「客観」の超越項化、絶対項化、最終項化の防圧。
個(実存)の自由な企投可能性の抑圧、制圧による〝絶対支配〟の根拠を一掃すること。
すなわち「客観」からの規定としての「主観」ではなく、逆に、
「客観」はつねに「主観」同士の関係企投に生成の始原をもち、
そしてたえざる関係企投という人間の核心的な生の意志に支えられているということ。
「客観」の生成──それは「共存可能性」を探索する主観同士の意志に由来し、
そのたえざる刷新可能性を保持することで、
いわば〝よりよき関係世界〟の構成をめがけるという本質をもつ。
https://www.youtube.com/watch?v=pA67wIiAl9o&list=RDo7bGWeggCrk&index=3
一つの音楽で〈世界〉を語り尽くすことはできない。
そして一つ一つ、あの音楽、この音楽を、
いま、ここで、奏でること、聴くこと、経験すること以外にどんな生の過程も存在しない。
にもかかわらず、世界、あまねき全体という表象、概念は生成する。
*
この生成がめがけるものの本質については考えることができる。
ただし条件がある。
すべては、ただ一つの音楽を経験しつつ生きる人間的生以外の起源をもたないということ。
この原理的事実から視線を外さないでいること。
生の経験の外部にある実体としてではなく、関係(企投)という観点からすべてをみること。