ASAKA通信

ノンジャンル。2006年6月6日スタート。

「外交の基本/関係本質」

2020-07-31 | Weblog

 


  生活のコンテキストの学習は、
  一個の生物の中で論じられるものではなく、
  二個の生物間の外的な関係として論じなければならない。
  そして関係とは常に、二重記述の産物である。
 
  相互作用に関わる二者は、いわば左右の眼だと言ってよい。
  それぞれが単眼視覚を持ち寄って、奥行きのある両眼視覚を作る。
  この両眼視野こそが関係なのである。
  この発想に立つことは、大きな進歩である。
 
             ――G・ベイトソン『精神と自然』佐藤良明訳


近づきすぎず、離れすぎず、正義を僭称せず、悪を押し付けない。
関係を固定せず、相互の差異を殺さない礼節あるへだたりと、
自由の相互的な承認をみちびくように対話し、
つねに新たな関係(のルール)がそこから創発する「交渉のテーブル」をキープしつづける。

「変化」(新たな〝ありうる〟)の契機は、それを迎える環境を整える意思と環境を必要とする。
二重記述される「関係」が変化するには、単眼視覚へのこだわりをカッコに入れ、
左右の眼どちらにも帰属しない「両眼視野」という発想において、
多重化されていく新たな記述可能性へ開かれていなければならない。

 

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「angel」 20200730

2020-07-30 | Weblog

 

どんなに苦しくても、悲しくても
やけくその気分でも、おとなだからね

通りすがりの天使にはウインクする
軽めのウインク

「親善天使」
「どこの国の?」
「この世の」

そんな感じかな

生まれたての、乳母車に乗った
天使くん?天使さん?

どうでもいいけど、食べちゃうぞ
うそです、たくさん生きてね

悪魔にならないでね
たいへんだけどさ
いろいろあって

わかるよ

なんて生意気はいわない
そんな偉そうな体はなしだ

わかんない
わかることだけわかる

先輩づらしてバカづらして
スマイルは気色悪いよな

ところで、どう生きたい
どんな社会に暮らしたい?

そんな質問もいらないな
顔に描いてある
はじめからわかりきったことだ

 

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「What you teach me.」 20200729

2020-07-29 | Weblog

 

エールを送るつもりが、なにかを損なうことになる
そういうことが起こったりする

意図、意志、感情をことばにすること
なにかを伝えることには覚悟がいる

結果を受け止め、引き受ける覚悟があってはじめて
刻まれ、成就する経験の本質がある、そんなことがある

ひとまず刻んでおくべきことがある
「そうではなく」という根拠が明らかにされなけばならない

    *

優位性を確認して感じられる快ではない
削りあうことでゲインされる快ではない
滅ぼしあうことで得られる利得でもない

価値と意味の純化されたかたちを求めるかぎり
どこかにある〝真実〟への的中率を競うかぎり

競合、順位化、序列化、権威化は不可避になる
個の思考の上位に位置づけられる集合的〝解〟

集合的な統一、秩序、統制を図ろうとすると
どこかに〝支配〟を許すスイッチが生まれる

透明なスイッチはあらゆる関係に隠れている

スイッチに手をかけ、自由に操作する存在
その恣意性を制御できる〝仕掛け〟の有無
それがなければ不可避的に導かれる道がある

全体主義の基本──すなわち、〝個の価値下落〟
その種は関係世界の至るところに蒔かれている

関係の位相は多層的多次元的に構成される
正と負、光と影、希望と絶望、親和と異和
複雑に織り合わされ生きられる関係の位相

限られたパイ(資源)にフォーカスすれば
基底のニーズが全面化し闘争は必然化する

〝生存〟という最基底の主題から導かれる
生と死をめぐる不可避なバトルフィールド

平和のなかにもせめぎあいがあり、競合がある
いつでも前景をつくり殺し合う契機は存在する

ちょっとした視線の向け方で、疑惑が生まれ
不信が関係を壊し闘争関係に位相転換する

「そうではなく」と語りだすためには
すべてをたどり直しておく必要がある

手を抜かずに、徹底的にそうする必要がある

 

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「無変化」(参)

2020-07-28 | 参照

 

変化しないでいることを維持するためには、
変化を否定し、変化の芽を摘み取る逆向きのチカラが要る。

この〝負の力〟の作用が構造化された社会がつづいている。
停滞し沈んでいく社会、プレーヤーたちの疲弊した姿。

変化へ向かうべきエネルギーは、
変化を求める心に作用する〝負の力〟として、
個の心理においても構造化されているかもしれない。


──野口悠紀雄『一九四〇年体制/さらば「戦時体制」』1995

「一九四〇年体制は、国民全体が一丸となって生産力を増強するためのものだった。
ここで導入された「生産優先主義」と「競争否定主義」は、
戦後の行動成長の過程で強化され、ある種の価値観まで高められた」

「生存の権利は、個人には認められているが、企業には認められていない。
非効率な企業や消費者の要求を満たさない企業に「共に生き」られては、
消費者が困るのである。
共生哲学(経団連一九九二年)は、この基本原則を否定し、
現存企業の生存権を主張している。
それがもたらすものは、競争による変化と進歩ではなく、
寡占と規制による停滞の世界である」

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「as long as」 20200727

2020-07-27 | Weblog

              https://www.youtube.com/watch?v=An-PQEAxsF8

      https://www.youtube.com/watch?v=OXOpN2I_kcA

 

──行けるところまで

知りえること、知りえないこと
出会えること、出会えないこと
できること、できないこと

限界はある、もちろん
でも行けるところまで

楽しいのか、どうか
ちょっとちがう気がする

コマンドはちがう位相から発している

おそらくBackstage
うちなる不可視域のしわざ

原則はあるといえばある、けれど
決めたことではない、決まっていた
そんな感じ

だれかに、なにかに帰依して消去しない
殺してしまわない、じぶんをね

唯我独尊、そんなことじゃない

たくさんの存在を迎え入れる、こっそり
ホスト、ホステスとして礼をつくす

つねに起点を自分に置きながら
そのためのスペースを空けておく

できれば無差別に、世界大に
できていない、無理ね、永遠に

できるだけ大勢の人間をスペースに導き
じぶんを試し、筋トレする、ほそぼそと

それだけの話さ、ことばにすれば
かんたんじゃないけど
どんな言説もスペースを経由するように

遠くに光源を置いてこちらを照らす
そんなことじゃない
光源はつねにこちら側にある

世界を分節し、色づける主体は
ただひとり、きみ、そしてぼくしかいない
すき-きらい、Goo-Bad、Yes-No、True-Fake

世界を逆向きにみないこと

関係世界の力学は逆に見ることを求める
〝みんな〟というゴースト
主体ならざる主体が幅を利かす

歴史はこれまでゴーストで動いてきた
個を超えた光のみなもとがある、とか

そうじゃない
ほんとうにやめにしたい

世界に見つめられるのではなく
見つめ返すまなざしをキープする

すべては個の出来事
個に生成する世界からはじまっている

そのことを忘れないでいよう

個として生きる
個として生きてもらう

個と個が出会うように

固有のまなざしをたずさえ
固有の生を生きる者同士として

世界を記述する、記述と記述が重なり
そこではじめて〝起爆〟することがある

使えば使うほど
味わえば味わうほど
歌えば歌うほど

世界のしばりがほどかれ
第三の視覚が次々に生まれていく

個を消すことのない
個であるかぎりにおいて

出会われ、交わる、アンサンブルの宇宙
無限に開かれてゆく地平がある

 

 

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「Junior High School」 20200726

2020-07-26 | Weblog

           https://www.youtube.com/watch?v=l0q7MLPo-u8

 

自在にステップを切って
どんな相手もフェイントで抜き去り
シュートを決めることができる

エネルギーが充てんされ
活性が細胞すべてに行き渡っている
完璧な感覚が満ちる日が稀にある

からだへの感受性が芽吹いた時代

もっと大事な秘め事
ピエトロ・ジェルミ「鉄道員」で号泣した
世界、この世を感じた
ほんとはつよく再確認した

あれもちがう、これもちがう
学校、教師たちはクソだ
成績がなんだ、「堕ちろ」と言い聞かせた

向こう三軒両隣では出会えない「ほんとう」がある
出会えないものへ向かう心をどこへ向けてよいのか

問いを生むちからもない
「どれもちがう」
それだけが手がかりだ

どいつもこいつも、勝手にほざけ

ことばを知らないことも知らないまま
大枚3600円、二枚組ベスト
S&Gが一つのシグナルとして灯った時代

 

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「第三領域──多重記述」 20200725

2020-07-25 | Weblog

 

動物から人間へ
変成する欲望のかたち──

人間的関係世界を通り抜けると、
動物的欲求は欲望(関係的エロス)へと相転移する

自然界に存在しない
人と人を結び合わせるパターン、〝関係項〟の生成
その価値的極相を示すもの──善、美、真

上限下限を知らない欲望の無限生成的特性
その本質は〝関係的〟に亢進する多重記述に由来する

個に帰属しない、しかし
個と個であるかぎり可能になる多重記述──

記述は記述とまじわり、第三の記述を連続的に生成する

ことばとことば、まなざしとまなざし、歌と歌、存在と存在
出会い、交わり、親和し、拮抗し、せめぎあう

このプロセスに承認を与え肯定へ導くもの
──第三の記述の生成性に対する〝信頼〟と予期的エロス

集合的に生成する〝関係項(ことばの意味)〟
それはさらなる多重記述のプロセスへ連続的に投下されていく

動物であることには変わりがない
遺伝情報が指定する身体に翼は生えない
生の衝動は基底にうごめいている

うごめきながら人間的関係世界を通り抜けると
「快-不快」の基底的情動はその中心を移動させ
関係的エロスへと位相が変化する

この位相の連続的展開から幻想世界、ロマンが自生していく
生の衝動は位相を変化させ
ファンタジーが生きる世界を形成していく

人間的生の享受可能性の無限的展開──

自然界に存在しないこの位相において
サンタクロースもミッキーも
人間的リアルの一員として参加を許される

    *

第三の記述世界──
しばしばそれは毒を含んだ〝関係項〟を生成する

独善、排除、支配、差別、蹂躙、殺戮
よきこと/あしきこと、価値的確定項の分断線

すべては自然が指定する境界をこえて増幅される可能性を秘める

第三の記述領域への参加から取り残され、閉め出された存在
生の享受可能性を閉ざされた領域に生きる存在

この構造をくつがえすには
多重記述の閉域性を糾弾して滅ぼすのではなく

関係世界の拡張可能性を多重記述の徹底からみちびく道へ

 

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「不可疑性」(参)

2020-07-24 | Weblog

      https://www.youtube.com/watch?v=j5mmhokV24Q 

 

───竹田青嗣『エロスの世界像』1993

デカルトの方法的懐疑は、あらゆる懐疑の果てに、
「コギト」だけが疑えないものとして残ることを教えるが、
恋愛はさらにそれ以上のものを教える。
つまり、ひとたび恋の心が生じれば、
それはどんな荒廃した懐疑やニヒリズムも押しのけて、
「人間的なもの」が自分のうちに生きていることの
明瞭な明証性(不可疑性)をもたらすのである。

      

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「世界理解──個別と一般」20200724 20190930 

2020-07-24 | Weblog

     https://www.youtube.com/watch?v=38UBLCskeOk

生命はそれぞれの固有の〝理解〟の構成として世界を捉えている。
なんらかの〝理解〟をみずからに充てることなしに
環境世界においてみずからの生を組み立てることはできない。

この〝理解〟はただ実践的な要請、
ひとえに個(私)の内部から湧き上がる固有の欲望にしたがい、
個(私)にとってのみ、この構成以外に世界は存在しない。

みずからが直面する世界(環境世界)について、
個(私)にとっての価値と意味の連関、
「快-不快」「Good‐Bad」「Yes-No」という価値的分節にもとづく〝理解〟だけがそこにある。その固有性、切実性、わたくし性、痛切性。このリアリティはその実践的な企投の衝迫性においてどんな相対化も許さない。

「私にとって」という切実性、痛切性、固有性において現われる世界。
この固有の現われそのものに、「私」の固有の欲望のかたちが書き込まれている。

実践的な生の課題(欲望)において生きる個(私)の生の固有性が、
固有の世界を生成し、みずからに世界を出現させる。

固有の歩み、歴史性。個(私)の〝世界理解〟の個人史。
累積と更新の全プロセス、変容の経緯がたたみ込まれた〝理解〟の現在形として生、「私」。

この現在形を外の視線はいくらでも批評し、評価することができる。
見下すことも、見上げることもできる。
そしてその動機も基準も、それぞれの「私」が大事にする価値に負っている。

生きる主体(私)にとっての痛切性そのものにとって、
この批評的な外の視線も代わることはできない。

「私」が、この代わりのきかない固有の生が、
「そう感じ」「そう考える」ことの動かしがたさ──

ひとり(私)の「世界」がどのような〝理解〟において、意味として、価値として、
代えがたい痛切として生きられているか。
それは個(私)だけの、うちなる出来事としてだけ生きられている。

絶対的条件──この「世界」のリアリティは個(生命)のリアリティと一体であり、
それ自体をどんな一般性にも、外的な批評の視線の内側に収め、解消することはできない。

    *

しかし、人間的関係世界において、
生きられる位相はもう一つある。

個と個がまじわる関係に位相において、
その〝世界理解〟が「関係項」として提出されるとき。

すなわち共同的な審議、評価の対象として持ち出されるときはじめて、
個の経験から導かれた〝世界理解〟が共同化、一般化、普遍化するに足るか否か、
その「真偽」「善悪」「正邪」の判定を受けることになる。

この場面においても、忘れてはならない原理がある。
──先行する個の経験、後発する関係項。この先行関係は変化することはない。

ここには単なる先行関係というだけでは足りない本質がある。

個の〝理解〟を審議する関係の位相における集合的な関係項(ことば)の生成、
そしてこの関係項を審議し返すただ一つの存在、個という循環関係がある。

人間的関係世界においてはこの循環関係がしばしば、あるいはつねに見失われ、
先行関係が逆転して、関係項(超越化したことば)からの全的規定、
後発したものが先行的に個の存在を規定するという逆転が起こる。

この逆転は再逆転される位相へ転位されなければならない。

なぜか。

その意味は、関係項に制圧された個と個が出会う場面で明らかになる。
個が抹消されることで成立する関係世界。
個と個がほんとうに出会うことができない世界。
──それを望まないかぎり。

「Be yourself」だって。

 

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「スキマ」 20200723

2020-07-23 | Weblog

 

世界が現象するただ一つの場所、「私」の意識の水面──
世界は訪れ、情動は走り、心は泡立ち、新たな企投へ向かう

それだけではない

心には、つねに〝審議〟の位相が開かれている
ここにおいてだけ現象する、ゆらぎ、予期、判断、選択、決断

はじまりの触発と行為のあいだにスキマを開き
世界への着生をゆるめ、記述から記述へ向かうつなぎ目に出会う

自己記述、他者記述、関係記述、世界記述の〝結審〟を拒み
アウトラインが確定した世界記述をほどき、結び直すように

「私」は確定に向かう記述の手を休ませ
「私」に許された〝私の自由〟を行使する

情動は走りやすく
理解は行き過ぎやすく
記述は確定に向かいやすい

このスキマを見逃せば、なんどでも
世界ははじめに訪れた姿のまま訪れるしかない

心に留め、意志としてフォーカスするかぎり、
この領域はつねに、いまここに、連続的に開かれていく

心に現象する世界と遭遇し、世界にまみれた自分を目撃する
はじまりのこの触発をどう迎え、もてなし、どう生きるのか

それはそれぞれの「私」の世界に対するかまえ
「私」がつくる〝私と他者の関係〟の本質を映している

 

 

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「友へ」 20200722

2020-07-22 | Weblog

 

透明な回路を開いておく
相手を選ばず、黙って

目の前の存在が〝敵〟だと感じられても
相克する関係の渦中にあっても
親和に満ちた空間のなかにあっても

なぜか

〝発火〟の原郷をキープして生きるために

生成するものの本質、メカニズム
その由来をたどりつくすことはできない
ただ経験が示すものとしかいえない

予期として、直観として訪れるものが告げる

回路を開いておけ、と。

フォーメーションの連続的な接続展開の結び目に
わずかなスキマが存在する、という新たな直観が動く

この直観はあらゆるプレーのなかに潜在している
むりやり考えることではない
人間の心にセットされている

選択に出会う──あれか/これかという単純な選択肢の提示ではない
「自由」の感覚、新たな記述が許されたフリースペース

記述を確定する「ぼく」「あなた」「世界」に帰属しないもの

未踏の、未決の、未知の拡張可能性が開かれるスキマ
そこに世界が生成するだけではない
「ぼく」「あなた」が生成するふるさと、その扉との遭遇

魂と呼ばれるもののフリーハンドを許す
新たな「ありうる」が点滅する第三のエリアへ

呼びかけ心があり、応答する心があり
そのかぎりにおいて
世界を記述する記述と記述が出会う位相がある

削り削りあう命のやりとり
真理の的中性を競いあい、優劣を決する弁証ではない

記述と記述、呼びかけと応答
その相互的展開においてのみ現象する多重記述

多重の記述だけが可能にする生成の位相がある

この位相を見逃すと、世界は記述を確定した姿へ向かう
「AであるならB、BであるならC」
「なるようにしかならない」
「手のほどこしようのないもの」

この位相において、一切は因-果の記述にそって
世界の全域は整然と配列された姿として

無機的な〝力学〟、チカラとチカラのせめぎあい
その展開、連鎖としてだけ記述されることになる

この位相において受胎するもの──
絶望、ルサンチマン、シニシズム、ニヒリズム

透明な回路をみずから閉じ
世界に完結したすがたを押しつけ
世界と人間に〝熱死〟をみちびく心のかたち

すなわち、「存在可能」の死

ここにおいて、心の臨界が超えられ
「自然の法」「力の論理」に一切が委ねられていく

それは日常において、日々起きていることでもある
もう充分だ、結果は見えている

透明な回路を開いておこう
相手を選ばず、黙って

 

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「五月」 20200721

2020-07-21 | Weblog

 


「わからないことだらけ」

「うん」

わからない、わからなさだけがわかる
おかしい?生意気?

「全然」

でも、それだけじゃどこにも行けない
直観は駆けつづけている

「そうじゃない方向へ」

けれどそうじゃない方向へ向かう方法がわからない
それだけじゃない
そうじゃないもののかたちがみえない

オーケー。そこからはじめよう
みえなくていい、みえなさをキープしよう

「一歩も動かなくていい」

てがかりはある
命令も要請もいらない

「ただ、そこから遠ざからないように」

 

 

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「子どもの時間」 20200720

2020-07-20 | Weblog

 

「個の経験」が消えていく

「砂糖が溶けるには時間がかかる」というフランスの哲学者の有名な格言があります。
ものごとが変化したり、成就するためには必ずそのための固有の時間を必要とする。
カップラーメンならお湯を注いで3分間待たなければならない。

同様に、子どもの固有の経験が成就するにも、一定の調整時間、
それぞれの子がみずから納得を刻む固有の時間が必要です。
この時間が失われると、経験は成就できず、砂糖は溶けきれずに沈殿してしまう。

学校そして社会という公共の空間を生きながら、いかに固有の時間を確保し、
みずからの経験に納得と了解を刻んでいけるか。

納得を刻めないまま社会的に決められた時間を生きるのは子どもだけでなく誰もが苦しい。
このことは社会という公共的空間を生きるおとなも共有する普遍的なテーマとも言えそうです。

公共的空間のなかで、みずからをチューニングする時間と経験。
言いかえると、社会や集団が指定するデジタルな枠組みにスキマを開けて、
みずから感じ、見、聞き、考え、そこに納得や了解を見出していく「個の経験」を生きること。
子どもが第一に学ぶべきこと、そしておとなにとっても、一番用意されるべきことを、
現在の学校そして社会はほとんど関知しないかのように動いているように感じます。

このことは、みずから望んでか、あるいは強いられてか、
いずれにせよ一人ひとりの人間の経験の固有性、多様性が社会から見失われ、
社会そのものが〝肥沃化〟する資源が見捨てられている、ともいえるかもしれません。

 

 

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「ゲーム展開」 20200719

2020-07-19 | Weblog

 

「正義」ではなく、メンバーシップをどのように普遍化できるか。
その合意と規模の拡張可能性を秘めた「ゲーム」をつくれるかどうか。

偉人さんを讃えアイコン化し、〝思考〟を割譲して捧げる時代は終わった?

仲間の範囲を確定してアイコン化し、〝思考〟を凍結する時代は終わった?

Not yet. Never.

 

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「adolescence」(参)

2020-07-18 | 参照

 

──坂口安吾「風と光と二十の私と」から

私は放課後、教員室にいつまでも居残っていることが好きであった。生徒がいなくなり、外の先生も帰ったあと、私一人だけジッと物思いに耽っている。音といえば柱時計の音だけである。あの喧噪な校庭に人影も物音もなくなるというのが妙に静寂をきわだててくれ、変に空虚で、自分というものがどこかへ無くなったような放心を感じる。私はそうして放心していると、柱時計の陰などから、ヤアと云って私が首をだすような幻想を感じた。ふと気がつくと、オイ、どうした、私の横に私が立っていて、私に話しかけたような気がするのである。私はそのもうろうたる放心の状態が好きで、その代り、私は時々ふとそこに立っている私に話しかけて、どやされることがあった。オイ、満足しすぎちゃいけないぜ、と私をにらむのだ。
「満足はいけないのか」
「ああ、いけない。苦しまなければならぬ。できるだけ自分を苦しめなければならぬ」
「なんのために?」
「それはただ苦しむこと自身がその解答を示すだろうさ。人間の尊さは自分を苦しめるところにあるのさ。満足は誰でも好むよ。けだものでもね」
 本当だろうかと私は思った。私はともかくたしかに満足には淫していた。私はまったく行雲流水にやや近くなって、怒ることも、喜ぶことも、悲しむことも、すくなくなり、二十のくせに、五十六十の諸先生方よりも、私の方が落付と老成と悟りをもっているようだった。私はなべて所有を欲しなかった。魂の限定されることを欲しなかったからだ。

私は近頃、誰しも人は少年から大人になる一期間、大人よりも老成する時があるのではないかと考えるようになった。

彼等には未だ本当の肉体の生活が始まっていない。彼等の精神が肉体自体に苦しめられる年齢の発育まできていないのだろう。この時期の青年は、四十五十の大人よりも、むしろ老成している。彼等の節度は自然のもので、大人達の節度のように強いてゆがめられ、つくりあげられたものではない。あらゆる人間がある期間はカンジダなのだと私は思う。それから堕ちるのだ。ところが、肉体の堕ちると共に、魂の純潔まで多くは失うのではないか。

私は一向希望に燃えていなかった。私のあこがれは「世を捨てる」という形態の上にあったので、そして内心は世を捨てることが不安であり、正しい希望を放棄している自覚と不安、悔恨と絶望をすでに感じつづけていたのである。まだ足りない。何もかも、すべてを捨てよう。そうしたら、どうにかなるのではないか。私は気違いじみたヤケクソの気持で、捨てる、捨てる、捨てる、何でも構わず、ただひたすらに捨てることを急ごうとしている自分を見つめていた。自殺が生きたい手段の一つであると同様に、捨てるというヤケクソの志向が実は青春の足音のひとつにすぎないことを、やっぱり感じつづけていた。私は少年時代から小説家になりたかったのだ。だがその才能がないと思いこんでいたので、そういう正しい希望へのてんからの諦めが、底に働いていたこともあったろう。
教員時代の変に充ち足りた一年間というものは、私の歴史の中で、私自身でないような、思いだすたびに嘘のような変に白々しい気持がするのである。

 

 

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