https://www.youtube.com/watch?v=38UBLCskeOk
生命はそれぞれの固有の〝理解〟の構成として世界を捉えている。
なんらかの〝理解〟をみずからに充てることなしに
環境世界においてみずからの生を組み立てることはできない。
この〝理解〟はただ実践的な要請、
ひとえに個(私)の内部から湧き上がる固有の欲望にしたがい、
個(私)にとってのみ、この構成以外に世界は存在しない。
みずからが直面する世界(環境世界)について、
個(私)にとっての価値と意味の連関、
「快-不快」「Good‐Bad」「Yes-No」という価値的分節にもとづく〝理解〟だけがそこにある。その固有性、切実性、わたくし性、痛切性。このリアリティはその実践的な企投の衝迫性においてどんな相対化も許さない。
「私にとって」という切実性、痛切性、固有性において現われる世界。
この固有の現われそのものに、「私」の固有の欲望のかたちが書き込まれている。
実践的な生の課題(欲望)において生きる個(私)の生の固有性が、
固有の世界を生成し、みずからに世界を出現させる。
固有の歩み、歴史性。個(私)の〝世界理解〟の個人史。
累積と更新の全プロセス、変容の経緯がたたみ込まれた〝理解〟の現在形として生、「私」。
この現在形を外の視線はいくらでも批評し、評価することができる。
見下すことも、見上げることもできる。
そしてその動機も基準も、それぞれの「私」が大事にする価値に負っている。
生きる主体(私)にとっての痛切性そのものにとって、
この批評的な外の視線も代わることはできない。
「私」が、この代わりのきかない固有の生が、
「そう感じ」「そう考える」ことの動かしがたさ──
ひとり(私)の「世界」がどのような〝理解〟において、意味として、価値として、
代えがたい痛切として生きられているか。
それは個(私)だけの、うちなる出来事としてだけ生きられている。
絶対的条件──この「世界」のリアリティは個(生命)のリアリティと一体であり、
それ自体をどんな一般性にも、外的な批評の視線の内側に収め、解消することはできない。
*
しかし、人間的関係世界において、
生きられる位相はもう一つある。
個と個がまじわる関係に位相において、
その〝世界理解〟が「関係項」として提出されるとき。
すなわち共同的な審議、評価の対象として持ち出されるときはじめて、
個の経験から導かれた〝世界理解〟が共同化、一般化、普遍化するに足るか否か、
その「真偽」「善悪」「正邪」の判定を受けることになる。
この場面においても、忘れてはならない原理がある。
──先行する個の経験、後発する関係項。この先行関係は変化することはない。
ここには単なる先行関係というだけでは足りない本質がある。
個の〝理解〟を審議する関係の位相における集合的な関係項(ことば)の生成、
そしてこの関係項を審議し返すただ一つの存在、個という循環関係がある。
人間的関係世界においてはこの循環関係がしばしば、あるいはつねに見失われ、
先行関係が逆転して、関係項(超越化したことば)からの全的規定、
後発したものが先行的に個の存在を規定するという逆転が起こる。
この逆転は再逆転される位相へ転位されなければならない。
なぜか。
その意味は、関係項に制圧された個と個が出会う場面で明らかになる。
個が抹消されることで成立する関係世界。
個と個がほんとうに出会うことができない世界。
──それを望まないかぎり。
「Be yourself」だって。