ASAKA通信

ノンジャンル。2006年6月6日スタート。

「変化の原理」(参)

2013-01-31 | 参照

   「例えば掛け算という演算で支配されるグループを考えてみよう。
   そこでは同一律を満たす要素は1ということになる。
   そこで、もしこの演算を加算に変えたとしよう。
   これは第二次変化を起こすことであり、
   それは外部から持ち込まれるものであり、
   グループ内部から決して生まれないものだが、
   そこでは、異なった結果が得られることになる。
   (中略)
   前者はメンバーからメンバーへの変化の水準であり(※群内=第一次変化)、
   そこでは実際、物事が変われば変わるほど、
   それは同じままであるということだし、
   後者ではグループの構造や秩序を支配する
   一群のルールにおける変化をしようとするわけだ。
   (中略)
   第二次変化が常にその本質において不連続、
   もしくは論理的に飛躍するような性質をもつことを考えるならば、
   第二次変化を実践的なところで遂行することは、
   非論理的で逆説的な外観を呈することを期待できる。」

   「システムそのものの変化すなわち第二次変化を伴わないようなシステムを、
   終わりのないゲームに陥ったシステムと呼ぶ。
   それはそれ自体からはそれ自身の変化のための条件を生み出さない。
   またそれ自身の変化のためのルールを生み出さないのである。」

   「同じことを今少し哲学的にいうと、
   我々自身を現実と呼ばれるルールに従うコマと考えるのか、
   我々自身がそれを作り、受け入れている限りの「現実的な」ルールに従って
   ゲームをやっているプレイヤーと考えるかの違いなのだ。
   後者はしたがってルールの改変はいつだって可能なのだ。」


         ――ポール・ワツラウィック他『変化の原理 CHANGE』長谷川啓三訳


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「ものごとを知る仕方を再考すること」(ポラニー)

2013-01-29 | 参照
 
  「ランボーの『地獄の季節』は、その最初の重要な顕現であった。……
  近代人の前例のない批判的明晰さ……こうした自己破壊的な力を、
  我々がものごとを知る仕方を再考することによってやわらげることができる、
  と期待することは途方もないことと思われるかもしれない。
  もし私がそれでも、知識を考えなおすことが今日でもまだ有効であろうと
  信じるとすれば……我々が立っている基盤をふりかえり、それをあらたに、
  そしてより真実にうちかためようと努力することは、価値のあることであろう。」

  「児童の精神の驚嘆すべき発達について考えよう。この発達を促すのは、
  言葉や大人の行動などのかくれた意味を、児童が推測するときの確信のひらめきである。」

          ――マイケル・ポラニー『暗黙知の次元~言語から非言語へ』佐藤敬三訳
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「遠点視線2」

2013-01-27 | photo
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「遠点視線」

2013-01-26 | photo
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「繰り返しのコード」

2013-01-25 | photo
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変わりゆく空に

2013-01-23 | Weblog

   その晩行一は細君にロシアの短篇作家の書いた話をしてやった。――
   「乗せてあげよう」
   少年が少女をソリに誘う。二人は汗を出して長い傾斜を牽いてあがった。
   そこから滑り降りるのだ。
   ――橇はだんだん速力を増す。
   首巻がハタハタはためきはじめる。風がビュビュと耳を過ぎる。
   「ぼくはおまえを愛している」
   ふと少女はそんな囁きを風のなかに聞いた。胸がドキドキした。
   しかし速力が緩み、風の唸りが消え、なだらかに橇が止まる頃には、
   それが空耳だったという疑惑が立こめる。
   「どうだったい」
   晴ばれとした少年の顔からは、彼女はいずれとも決めかねた。
   「もう一度」
   少女は確かめたいばかりに、また汗を流して傾斜をのぼる。
   ――首巻がはためき出した。ビュビュ、風が唸って過ぎた。胸がドキドキする。
   「ぼくはおまえを愛している」
   少女は溜息をついた。
   「どうだったい」
   「もう一度!もう一度よ」と少女は悲しい声を出した。今度こそ。今度こそ。
   しかし何度試みても同じことだった。泣きそうになって少女は別れた。そして永遠に。
  
                        ――梶井基次郎(1901~1932)『雪後』

季節は先回りして
ぼくたちを色づけ

ぼくたちのこころは
いつもおくれて
そのあとを追いかけていく


   夕暮はいかなる時ぞ 目にみえぬ風の音さへあはれなるかな 

                   ――和泉式部『続古今和歌集』

ふたりは河原のせせらぎを聞きながら
冷たい秋の風がわたる河原を歩いた

カラスが西の空を飛んで
夕焼けとコントラストをつくり

小さな点滅をくりかえしながら
遠くに溶けていくのがみえた

水面に反射する赤い光が
河原の道を小さく照らし
名前を知らない植物を風がゆらした

「カラスはなぜ鳴くのでしょう」

夕日に染まった橋の上で
ふたりは声に出して少し笑った


  はかなしや我身の果てよ浅緑野辺にたなびく霞と思へば   

               ――小野小町『和歌文学大系小町集』

ひとつの情景をめぐり
ふたりがそう感じていると
ふたりともが思っているだろう
と、ひとりが信じている

語らないでいるということが
それをそうと感じている心に
ちいさな華やぎを導いていく

「少し寒くなってきたね」

ここにあるものが風景をつくり
ここにないものが意味を振りかける

すべてを見とおせないこころは
季節がつくる感情に染まっていく


  はかなくて雲となりぬるものならば 霞まむ空をあはれとは見よ  

                 ――小野小町『和歌文学大系小町集』

散歩のあと
ふたりはレストランに向かった

ちいさなざわめきが聞こえ
窓から溢れる黄色い光にまじり
夜の闇に溶けていた

テーブルのグラスは冷たく輝き
窓際のコスモスの葉を映していた

人の影が通りすぎるたびに光がゆらぎ
グラスの水が薄緑色に濁った

楽しいなにかが
悲しいなにかが
かたちをつくることができずに
夜の光と溶けあっていた

「この店には一度来たことがあるわ」

紙ナプキンで口のまわりを拭いながら
女はゆっくり男のほうを見た

決して期待を裏切らないブランド品のような
もうひとりの天国と地獄を
残酷に分岐させるうつくしい微笑み

男は表情を宙吊りにしたまま
冷たく光るグラスを見つめていた

外は秋で
どちらに転ぶとも知れない夜を
せつなく染め上げていた

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如来とのメタローグ――Ⅸ

2013-01-18 | Weblog


   宗教―すくなくともキリスト教―は人間が自分自身に対してとる態度である。
   またはいっそう正しくいえば人間が自分の本質に対してとる態度である。(中略)
   神的本質(存在者)とは人間の本質が個々の人間
   ―すなわち現実的肉体的な人間―の制限から引きはなされて対象化されたものである。(中略)
   そのために神的本質(存在者)のすべての規定は人間の本質の規定である。

   人間は自分の本質を対象化し、そして次に再び自己を、
   このように対象化された主体や人格へ転化された存在者(本質)の対象にする。
   これが宗教の秘密である。

   神を富ませるためには人間は貧困にならなければならず、
   神が全であるためには人間は無でなければならない。

           ――ルートヴィヒ・フォイエルバッハ『キリスト教の本質』船山信一訳


「いまどのくらい深刻なのかな」
「レベル7を超えます」
「おっと」
「オフリミット。それ以上標記するすべがありません」
「どう深刻なの?」
「混乱したムカデ状態でしょうか」
「次の一歩を聞かれて、パニックになった例のムカデ?」
「はい。理不尽な指図にさらされている状態ともいえます」
「指図ねえ」
「間断なく繰り返えされる強制始動と強制終了」
「パソコンと同じ?」
「つねにアイドリング状態のエンジンかもしれません」
「なに?」
「だれかの都合で、勝手にクラッチを入れられて走らされる」
「奴隷ということ?」
「現状への従属を学習した奴隷状態かもしれません」
「いいの?如来がそんな冷たい言い方して」 
「生命のあり方の問題です。生きものとして主体が死にかけています」
「ちょっと大袈裟だね」
「状況はきわめて悲惨です」
「原因は?」
「適応についての誤った認識です」
「どんな適応?」
「この世界にどう関わるかということです」
「世界ぜんぶに?」
「目の前にある環境に対してです」
「それぞれの勝手でしょ」
「あらゆる体験がからだを素通りしていきます」
「そうかな」
「生命としてのfeelが見殺しにされています」
「なぜ」
「選択のコマンドが外からやってくるからです」
「コマンドって?」
「最近では、〝でんきが足りない〟といったものもありました」
「信じるバカが大勢いるということ?」
「本当かどうかも重要ですが、外部入力が絶対化される形式が問題です」
「絶対化ねえ」
「外からの情報に対する過剰な依存があります」
「でも一人の能力は限られている」
「もちろん」
「じゃあなぜ?だれも信用できないということ?」
「信頼できる人びとや優れたエージェントは少なからずいます」
「でしょ」
「ええ。でも問題はそこにはありません」
「どこにあるの?」
「問題は、あなたならざる外部に支配される存在の形式です」
「外部ねえ」
「そのことで、あなたのfeelが機能していません」
「役立ちそうな情報を並べて、ましなものを選べばいいじゃない」
「いいえ。どれが正しいかという選択の問題ではありません」
「選択じゃない?」
「並んだ選択肢はあなたのものではありません」
「最後はじぶんで決める」
「すべて据え膳でしかありません」
「そこは自己責任でしょ」
「最初から最後まで、あなたという自己が消えています」
「ちゃんといますよ」
「据え膳を食む生きものは、生命本来の能力を失っていきます」

「どうしろというの?」
「一番は、ふて寝することです」
「ふて寝?」
「冗談だとお思いでしょう」
「冗談でしょう。そのココロは?」
「選択をストップする。自動化された脳の起動をいったん止める」
「ようするに休めといいたいの?」
「はい」
「休むだけでいいの?」
「そうすれば、からだが勝手に動き出します」
「おまかせ?」
「feel」
「例のやつ?」
「根源的な生命力のことです」
「ひょっとしてスピリチャルとかいうやつ?」
「怪しまれるのも当然ですが、決定的にちがいます」
「結局、なんとか商法のたぐいじゃないの?」
「幸せを約束しないのが如来の立場です」
「だから?」
「感じてください」
「不協和音で頭がパンクするかも」
「やがておさまります」

「休んでたら自堕落になる」
「それでいいのです」
「仕事にならない」
「大切なのは生命としての仕事です」
「迷惑がかかる。食えなくなる」
「死ぬことはありません」
「どうして」
「そうすればあなた本来の生が起動します」
「いい加減なこといわないでよ」
「本当です。やがてムカデは歩き始めます」
「生きるために稼がないとね」
「強いられた生は生命として最も悲しい姿の一つです」
「生きていけないでしょ」
「すばやく立ち去ることです」
「行くところがなければ?」
「助けてと叫んでください」
「助ける人いなければ?」
「だいじょうぶです」
「勝手なこといって」
「大事なのは、あなた自身の復興です」
「復興?」
「そうです」
「生命力?」
「とてもシンプルなことです」
「どうシンプルなのさ」
「月をながめるとか、花子さんの前だと胸がドキドキするとか」
「からかってる?」
「大切なことはすべてそこにあります」
「すべて?」
「世界の創り手としてのあなたじしんのことです」
「ベーグルを創るとか?」
「はい」
「それだけのことなの?」
「そうなのですが、本当はもう一つだけあります」
「なに?」
「Being here.」
「なんですか?」
「ここにこうしてあること。あなたがいまここに存在していることです」
「それが何か?」
「そのこと自体が、じつに胸に迫る事態です」
「そうかな。別に迫ってこないけど」
「いま、ここに、在ること」
「わからない」
「はい。いちどは真剣に考えていいことです」
「なにが言いたいのかな」
「あなたが変われば世界が変わります」
「ありえない」
「なにも特別なことではありません。
「どういうこと」
「すべてはあなたのなかの出来事です」
「そんな能力はありません」
「いいえ、簡単なことです、あなたじしんのfeelを受けとめるだけです」
「そんな曖昧なものに任せたら大変なことになるよ」
「それだけが大事です」
「わからない」
「いいでしょう。これですべてです」
「ひょっとしてこれでおしまい?」
「マーキングは済みました」
「え?」
「自然界ではありふれた習慣です」
「犬ちゃんが道端でするやつ?」
「そのとおり」

「あなたは一体何者ですか?」
「あなたじしんです」
「来たよ」
「わたしを使って、あなたがあなたに語っているのです」
「やっぱりね」
「少しもヘンではありません」
「おかしな人は必ずそういう」
「いつもあなたと一緒にいます」
「わからない」
「わたしはあなたであり、あなたはわたしです」
「勘弁してよ」
「いいでしょう」
「よくわからないけど、おカネは頂戴しますよ」
「もちろん」
「とりあえず、ありがとう」
「おつきあいいただき感謝申し上げます」
「いえ」
「お元気で」
「はい、さようなら」

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如来とのメタローグ――Ⅷ

2013-01-16 | Weblog


   世界はただ私にとって存在し、かつ世界は内容的にも、
   それが私にとって存在する姿においてあるものなのだが、
   ただしそうであるというのも、ひとえにただ、世界は、私自身の純粋な生のうちから、
   意味および確証される妥当を、獲得してくるからこそであり、
   またその私自身の純粋な生のうちで開示されてゆく他人たちの生のうちから、
   意味および確証されうる妥当を、獲得してくるからこそである。

              ――エドムンド・フッサール『イデーンⅠ』渡辺二郎訳


「アンサンブルの一員って、またまたデカすぎる話だな」
「そんなことはありません」
「なんで?」
「少し考えればわかります。すべてはあなたの心のなかの出来事です」
「もういい加減にキリつけてほしいんだけど」
「そうします」
「さっさとね」
「世界はすべて人間の心によって創られます」
「人間ってそんなに偉くないでしょ」
「偉いかどうかはどうでもいいことです」
「賢くもないでしょ」
「偉くも賢くもなくても、音楽を聴くことができます」
「そりゃそうでしょ」
「しかしハーモニーが感じられないとき、音はすべてノイズになります」
「騒音ね。だから?」
「あなたの心が感じることがすべてです」
「したがって結論は?」
「つまり、いわゆる客観的な世界は存在しません」
「じゃあ客観って何なの?」
「事後に成立するものです」
「何の事後?」
「体験の母体があって、そこから生まれる確信のかたちです」
「よくわからない例の母体ね」
「feelが、その確信されるものを告げます」
「それで?」
「理性や科学的な思考は、feelの告知があってはじめて動きはじめるものです」
「もういちど訊くけど、feelって何?」
「世界が確かにあるということを告げるものです」
「さっき創るっていわなかった?」
「創りつつ告げるものです。そして、それはそれ以上説明できないものです」
「説明できない?」
「意識の働きにつねに先行するもので、いわば世界体験の一次情報をもたらします」
「絶対的真実?」
「ちがいます」
「なぜ。それは独善的な自我とか呼ばれるものじゃないの?」
「いいえ。この確信のかたちは、ほかの人たちとのつながりのなかで検証されつづけます」
「そうかな」
「feelが体験の疑えなさを告げるとき、同時に他者のfeelが信じられています」
「よくわからない」
「つまり、この感じはだれもがそう感じるだろうと感じられるとき、確信は強度を増します」
「じゃあ、純粋な客観ってないの?」
「永遠の真理なるものは存在しません」
「そうかな」
「正しくは、客観という確信のかたちが生まれるだけです」
「逆の場合は?」
「体験の中身が再検討されます。よくみたらちがった、ということはしばしば起こります」
「だよね」
「しかし、そうした再検討が可能なのも、確かめを可能にする体験の母体が信じられているからです」
「体験の母体」
「はい。アンサンブルに参加しているということです」
「生命の本質」
「いいかえると、ともにあるということ。この深い確信に、人間のfeelが支えられます」
「ちょっと遠いな」

「例えば、パティシエの抱くイメージと、あなたの抱くイメージは同じものでしょうか?」
「でしょ」
「本当ですか、確かめられますか?」
「あたり前でしょ。ドーナツを注文したら、ドーナツが出てくる」
「ひょっとして、それがベーグルの可能性はありませんか?」
「えっ?」
「やっぱり」
「ベーグルとドーナツはちがうものなの?」
「ちがいます」
「どうちがうの」
「ベーグルは砂糖を使わないパンの一種で、ドーナツは甘いおやつです」
「そうなの。同じと思ってた」
「ただ、ちがうままでもかまいません」
「でもおかしいでしょ」
「ちがっても現実に問題はなかった。このとき、何が起きているでしょう」
「なに?」
「二人とも同じドーナツのことを考えているだろう、と二人とも信じている」
「信じあっている?」
「ええ。自分も相手も同じものを見ているという確信、あるいは信頼があるから話が通じる」
「そうね」
「そして…」
「そして?」
「そのことは二人にけっして意識されることがない」
「意識しない」
「つまり、意識されない深い信頼が二人の経験に埋め込まれている」
「ある意味で、妄想と妄想がかみ合ったかたち?」
「ええ。人と人とのつながりはすべて妄想ともいえます」
「うそでしょ」
「確かめられますか?」
「真実を確かめるすべはない?」
「永遠にありません。しかし、確信や信頼は訪れます」
「どんな?」
「わたしと同じものをあの人は信じていると信じている、という確信です」
「なるほどね」
「そこにあるのは、確信あるいは信頼です。そしてそこから世界が組み立てられていく」
「そして、それは意識されない」
「はい。意識してしまうと、ものごとのフローが破られてしまうことにもなる」
「ええ?」
「そこに目を向けると、二人の間に何か別のものが差し挟まれてしまう」
「そうね、関係はぎこちなくなるかな」
「そうですね。ここには、とても深い問題が隠れています」
「どんな?」
「次に出す一歩を訊ねられて、パニックになったムカデと同じようなことです」
「ああ、なんとなくわかるような」
「ムカデは意識したとたんに、歩けなくなってしまった」
「じゃあ意識しちゃいけないの?」
「一概にいけないともいえません」
「どうすりゃいいのさ」
「そこから新たに、みずからのfeelに正直に向き合うことです」

「でも、そんなことは考えないけどね」
「ふだんはそうです」
「考えなくてもいいのかな?」
「やはり、知っておいたほうがいいでしょう」
「どうして?」
「なんらかの理由でこの確信あるいは信頼が失われるとき、feelがゆがみます」
「どうゆがむの?」
「アンサンブルが解体して、楽器同士がそれぞれ孤立するようになります」
「冷たい関係になるのか」
「やがて、どちらが正しいかというバトルが生まれます」
「正しさや真理をめぐるバトル?」
「端的にいえば、エスカレートするだけの意見の対立です」
「お互いに自分の言い分を絶対化するわけか」
「はい。絶対の真理に立て籠るといった、ありえない執着が生じます」
「立ち位置が不安になるから?」
「過剰な不安とともに、他者の抱く確信のかたちを許せなくなってしまいます」
「どういうこと?」
「体験の母体が忘れられてしまうのです」
「アンサンブルの一員であること?」
「ええ。お互いに忘れてしまうとことで、不幸な事態が生まれます」
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如来とのメタローグ――Ⅶ 

2013-01-15 | Weblog

   この調整過程のはたらきは、暗黙知が諸細目を統合する過程と似ている。
   なかんずくそれは、我々が心の中にもっている問題(とくに詩をつくり、
   あるいは機械を発明し、あるいは科学的発見を行うという問題)をみつけ、
   かつそれを解く過程と似ている。
   これらの問題は、まだ関係づけられていないいくつかの事物のあいだに、
   あるまとまりがひそんでいるという内感として、とらえられる。
   また、これらの問題を解決することによって、一つの新しい包括的存在が確立される。
   その包括的存在とは、一篇の新しい詩であり、あるいは新しい種類の機械であり、
   あるいは自然についての新しい知識であるだろう。

   現代の諸問題にとって啓発的であると私が考えるのは、
   潜在的思考にとりまかれた人間というイメージである。
   これによって、我々が絶対的自己決定という愚かな観念におちいることは防がれる。

          ――マイケル・ポラニー『暗黙知の次元~言語から非言語へ』佐藤敬三訳


「おやつのドーナツは中心が空洞です」
「それがなにか?」
「パティシエはこの形のイメージに基づいてドーナツを作ります」
「当然」
「では、このイメージは実在するものでしょうか」
「どうだろ。心のなかにあるんじゃないの」
「そうですね」
「実体はないけど、観念として存在するでしょ」
「観念とは何でしょう」
「人間が頭でこしらえたものでしょう」
「人間がいなければ存在しない?」
「もちろん」
「人間がいなければ存在しない」
「うん。だから?」
「人間がいなければ、おいしいドーナツは存在しない」
「嫌いな人もいるけど」
「ええ。好き嫌いを生むドーナツは、いつも人間とともにある」
「何がいいたいのかな?」
「ドーナツのイメージが、みずから転生してドーナツが出来ることはありません」
「それはまちがいない」
「人間が存在しなければ存在しないものは、ほかになにがありますか?」
「え~と」
「すべて。この世界のすべてと考えることができます」
「またまた言いきっちゃったね」
「とてもとても大事なことです」
「どうして?」
「生命のない世界、単なる物質はドーナツを作ったりしません」
「あたり前でしょ」
「ドーナツのイメージは、人間が滅んでしまえば永遠に消滅します」
「だから?」
「スカイツリーも自動車もハンバーガーも数学もサッカーもケータイも消えます」
「スカイツリーや自動車は消えないでしょう」
「人間がいることでスカイツリーはスカイツリーであることができます」
「自然やモノは勝手にあるものでしょ、人間がいようがいまいが」
「ちがいます」
「どうして?」
「自然それ自体、モノそれ自体というのは、人間にとって存在しないのです」
「それはちがうでしょ」
「すべて人間のイメージが創りあげたものです」
「人間は神ですか?」
「おいしいドーナツと同じように、神も創られました」
「神さまはドーナツと同じですか?」
「世界を創ることが生命の仕事です」
「妄想するのが生命?」
「妄想してみずからを組み立て、世界を組み立てるのが生命です」
「でも妄想には秩序がないでしょ」
「あります。ドーナツも妄想の産物ですが、おいしく食べることができます」
「創造力のこと?」
「はい」
「人間がいなくなったら?」
「スカイツリーは消えます。世界が消えます」
「人間が消えてもなくならないでしょ」
「あなたの〝人間が消えてもなくならないでしょ〟も消えます」
「ぜんぶ消える?」
「〝ぜんぶ消える?〟も消えます」
「ええ?何かとても恐いことを言ってる?」
「けれども消えません」
「ええ?」
「わたしはいつもあなたと一緒にいます」
「またヘンなこと言った」
「おかしくはありません」
「なぜ?」
「〝ハーモニー〟は消えません」
「じゃあ、いつどんなときに消えてしまうの?」
「人間が生命であることをやめるときです」
「ちょっと混乱してきたんだけど」
「考えてみてください」
「なにを?」
「人と人、人と自然、それらすべてが作る大きなアンサンブルの一員だということを」
「このぼくが?」
「はい」
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「知的衝撃波」とエントロピー(コメント)

2013-01-14 | comment


「生命をもたない存在は自己充足的である」(グレゴリー・ベイトソン)

自己充足的であることは、どこか物質に近づくことに似ている。
人間であることは、生命的であることと同時に、
生命的であることを止める倒錯と狂気の自由を獲得することでもあるらしい。

生命の形式が物質の形式を真似ていくとき、存在の主題は量的なものへ移行していく。
そしてすべての生命的存在とその活動は、
物理的衝撃(体罰)とプランによる制御対象となる。

情報を生み、試行錯誤し、フィードバックの回路を回しながら、
主体みずからの状態と、主体どうしの関係のあり方を
書き換えつづけるダイナミクスと生命的よろこびは消え、
すべて物理的量的なものの四則演算による解釈と利用,その効果に移行する。

生命をもたない世界では、みずから変化することに無頓着であり
進化も後退も起きず、誤りを犯すこともない(物質はエラーを起こさない)。
すべてはプランされた軌道を走る物質的運動として配列されていく。

この生命世界から遠ざかる営みのクライマックスには、
クリスタルな結晶化が全面展開する世界が待っている。
これは、第二法則に準じる姿といえる。

こうした事態に抗うことは、端的に「生命でありつづけること」を意味する。
生命とはなにか。情報(負のエントロピー)の産出と変化にほかならない。
物質の自己充足的な存在形式にからはみだしていく、
例えば、まなざしに情報=意味、新たな組織化の契機を見出すような、
みずからのゆらぎにみずからを創発する存在の形式である。
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「らぶれたあ」

2013-01-12 | comment

『さんにゴリラのらぶれたあ』へのコメント
http://ameblo.jp/sanni1132


かつての『らぶれたあ』の直接の読者として――、
学校でのいきいきとしたドキュメントを、
親子で一緒に読むのは毎日の楽しみでした。

子どもには重要な役割が与えられます。
先生の生のメッセージを親に届けるメッセンジャーの「ぼく」。
教室の出来事を一つの物語として、家に運び、学校と家庭をむすぶ任務を果たす。
そんな役割を、子どもは楽しく演じていたように思います。

親にとっては、親子が直接対面しあうベタな関係に、
一息入れるように、先生の子どもへのやさしい視線が入ることで、
こちら側に子どもに向けるまなざしに視差が生まれ、
子との関係をふりかえるきっかけを頂戴していたように思います。

いまの社会は、『らぶれたあ』の世界が、どんどん『1984』的世界に侵食されつつある、
といったら大げさでしょうか。

昔も管理好きの先生はいましたが、そのカウンターとなる先生も同居している、
というのが少し前までの学校にあった雰囲気だったような気がします。

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如来とのメタローグ――Ⅵ

2013-01-11 | Weblog


   ある体が他の体に、ある観念が他の観念に「出会う」とき、
   この両者の構成関係はひとつに組み合わさって、
   さらに大きな力能をもつあらたな全体を構成することもあれば、
   一方が他を分解して、その構成諸部分の結合を破壊してしまうこともありうる。

          ――ジル・ドゥルーズ『スピノザ―実践の哲学』鈴木雅大訳


「アンサンブルにハーモニーが出現するとき、とても大切なことがあります」
「なんでしょう」
「コントロールする特権的な主体が、どこにもいないということです」
「指揮者がいるでしょ」
「指揮者もアンサンブルの一部であり、ハーモニーの創り手ではありません」
「そうかな」
「環境を整えるだけです。ハーモニーに向かう集団のまとめ役」
「楽譜もあるけど。楽譜は演奏を制御するプログラムでしょ」
「コードにハーモニーを書き込むことはできません」
「作曲した人はどう?」
「作曲家は最初にハーモニーを直観人ですが、演奏に関わる人ではない」
「誰もコントロールしていないのかな」
「ええ。ただ、ハーモニーが出現するときの条件があります」
「なんでしょう?」
「呼びかけ-受けとめ-応答。この相互的なプロセスの途切れのない連鎖があります」
「演奏者同士の?」
「はい。このプロセスが起動して、演奏者はみずからをチューニングしつづけます」
「なんとなくわかる」
「チューニングは、かつて-いま-これからという音の連なりのなかで行われます」
「でも、そのチューニングは何を参照して行われるのだろう?」
「観念でも物質でもない、未知なるハーモニーが予感されています」
「未知なる?」
「はい。触ることも説明もできない、ただ体験されるだけのものです。
「でも未知なるものは参照できないでしょ?」
「自然に生成するものとしかいえません」
「精神のなかに?」
「ええ。美しい音楽を聴くときも、わたしたちの精神はこれに触れています」
「予感され、体験されるだけねえ」
「しかしこの予感には確信が伴っています」
「確信?」
「はい」
「触れることも、示すことも、考えることもできないのに?」
「思弁的には特定できません。しかし、生命には別の能力があります」
「何?」
「feel、―それが予感をもたらすものです」
「ええ?」
「感じること。生命にとって基底をなす能力です」
「人間にとっては、理性のようなもののほうが重要じゃないの?」
「ちょっと考えればわかります」
「そうかな」
「例えば、理性でピアノを弾く、理性で野菜を刻む、理性で道を歩く」
「でも科学の世界では、理性が必要でしょう」
「錯覚です」
「おっと、言いきりましたね」
「理性は重要なのはもちろんですが、事後のものです」
「後からできた?」
「というより、後からついていくものです」
「感じることに先行できないということ?」
「まさしく」
「でもなあ」
「すべてのいとなみに、feelが起動しています」
「曖昧でつかみどころがないな」
「でも、美しい音楽があることは疑えません」
「もちろん」
「それを受け取るのは理性でしょうか?」
「ちがうか」
「それは確かにあり、確かに体験として刻まれる。けれど何かは説明できない」
「まあね。説明できたらおかしいのかな」
「はい。feel。それは生命のいとなみの基底、母体を告げるものです」
「生きることぜんぶに?」
「ムカデが歩くときもそうです」
「ビミョーかな。まだ不協和音が鳴っているのだけど」
「わかります。無理もありません」
「だから?」
「逆に、feel―感じることが壊れると何が起こるか、そこから考えてみます」



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如来とのメタローグ――Ⅴ

2013-01-09 | Weblog

  「思考するオフィス」(精神労働)と「思考しない工場現場」(肉体労働)という架空の分離、
  労働者を道具を調整する人から、機械の流れを維持する「装置」に変化させた仕事の細分化、
  「確実で速いこと」を最上位の価値とする仕事の「ファストフード」化、
  選択すべきことが最初から決まってしまっている環境の「メニュー」化があらゆるところで進んでいる。
  「現代の仕事場では経験が衰退」しているのである。

                   ――佐々木正人『ダーウィンの方法』2005年

「あなたの住む世界?」
「そうです」
「ついに出たね、怪しげな本性が」
「神秘めかすつもりは一切ありません」
「あなたは何様のつもりなの」
「如来とお呼びください」
「如来さん、あなたは一体どんな世界に住んでるの?」
「あなたと同じ世界です」
「でしょうねえ」
「まちがいありません」
「でもちがうわけでしょ」
「ちがうけど同じです」
「バカにしてる?」
「いいえ。まったく」
「現状が深刻とおっしゃいますが、それとこれとどう関係するの」
「コトバの使用法とその過信です」
「コトバがどうって?」
「区切り方がまちがっています」
「例の温度設定の話?」
「はい。二重のまちがいがあります」
「どんな?」
「一つは設定エラー。つまり、設定値の陳腐化があります」
「もう一つは?」
「設定思想。いいかえると、傲慢さです」
「手短にまとめて説明して」
「結論からいえば、環境の変化とズレて、全体が不適応に陥っています」
「たとえば?」
「憎しみ、悲しみ、苦しみ、怒り、むなしさ、病いが深く広がっています」
「だから?」
「巨大な悲劇がまた訪れるかもしれません」
「戦争?」
「真綿で絞められるような緩慢な死の可能性もあります」
「立ち直るチャンスはゼロじゃないでしょ」
「マンモスが滅びたように、特定の変数に淫した生物種は滅びます」
「巨大化しすぎた牙ですか。人間にとってのその種の牙があるの?」
「大脳です。大脳という変数の肥大化、暴走といってもいい」
「考える葦じゃないの、人間は」
「そうですが、とりかえしのつかない暴走を秘めます」
「なぜだろう」
「大脳による〝ムカデの演算〟です。コントロール能力への過剰依存、自信過剰です」
「科学信仰とかいう問題?」
「本来あるべき科学とは異なる、科学もどきへの耽溺ともいえますが」
「抽象的すぎるね。ずばりどうすればいいのよ」
「じゃあ、ずばりで」
「はい、どうぞ」
「わたしの世界とのリンクが切れているのです」
「あなたは神か?」
「いいえ」
「ああ、びっくりした」
「つづけましょう」
「どうリンクが切れるのかな?」
「第一には、大脳が暴走すると、生命システムの全域に歪みが生まれます」
「なぜ?」
「生命の母体から遊離してしまうからです」
「あなたは生命の母体なの?」
「わたしは、一つの記号とお考えください」
「生命の母体かと思った」
「そんなことはありません」
「冗談に決まっているでしょ」

「例を挙げます」
「どうぞ」
「音楽で複数の演奏者が協力して演奏することをアンサンブルといいます」
「はい」
「いわば一つの演奏のネットワークの形成です」
「演奏のネットワーク」
「演奏者同士の呼びかけと応答が次々に連鎖することで、一つの音楽が出現します」
「それはそうでしょう」
「一つのシステムとも考えることができます」
「それがリンクの問題と関係するの?」
「まさに。このシステムに加わることで、演奏者の設定値が変化します」
「どんな設定値が、どう変化するの?」
「音の連なりを聴く演奏者の精神が、アンサンブル全体へ拡大します」
「音の連なり?」
「情報といってもいいです」
「どういうことかな」
「アンサンブル全体が一つの情報回路を形成され、演奏者の精神がそれと一体化します」
「それがどうしたの」
「ポイントは、ソロとは異質な音楽体験が演奏者に開かれるということです」
「どんな?」
「アンサンブルには失敗もありますが、めざすのはハーモニーという体験です」
「調和?」
「ええ。このとき、各演奏者はハーモニーをめがけ、みずからをチューニングしていく」
「ハーモニーって何だろう」
「単なる観念でも物質でもない。次元を特定できない、体験の母体というしかないものです」
「また出た。体験の母体ねえ」
「演奏者はそれとリンクすることで、ソロとは異質な音楽のよろこびに導かれる」
「そうでしょうが、ここから何が引き出せるの?」
「音楽のアンサンブルは参加も離脱も自由ですが、そうでないものがあります」
「何?」
「生命として生きるということです」
「ほう」


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如来とのメタローグ――Ⅳ

2013-01-06 | Weblog

   私は、あなたが赤をどのように見ているかを決して知らないし、
   あなたは私がそれをどのように見ているか知らないでしょう。
   しかし、(中略)われわれの最初の運動は、
   われわれの間にある、ある分割されないものの存在を信じることにあるのです。

     ――モーリス・メルロ=ポンティ『知覚の優位性とその哲学的帰結』加藤和雄訳

「現状は深刻です」
「深刻ね」
「きわめて深刻です。悪化の一途です」
「わかる気もするけど、面倒くさいかな」
「従順であることが命取りになります」
「命取り?」
「あなたの生気が根こそぎにされます」
「ちょっと大袈裟かもよ」
「滅びの道ともいいます」
「滅びるまえにあなたが助けてくれる?」
「無理です」
「無理って」
「出会わなければならない現実には出会わなければなりません」
「なんで?」
「それが生きるということです」
「そうかな。逃げる方法もある」
「もちろん」
「逃げたらいい」
「でも逃げられません」
「どうして」
「すべてはすべてとつながっています」
「飛躍しすぎでしょ」
「かもしれません」
「でしょう」
「しかし情況の深刻さは変化を求めています」
「だれが?」
「あなたの顔に、変化したいと書いてあります」
「そうでもないでしょ?」
「現実を直視することです」
「直視してどうなるのだろう?」
「あなたの何かが活性化します」
「ぼくの何が活性化するの?」
「あなたの生命的ポテンシャルが目覚めます」
「ちょっとついていけない」
「じゃあそのことをお話しましょう」
「疲れたな」
「もう少しです」
「まあいいか」

「見ないふり、知らんぷりが命を損ないます」
「知らないほうが幸せということもある」
「知らないままで満足ですか?」
「答えようがないね。知らないのだから」
「自明性は必ず破られます」
「なに?」
「すべては変化するといってもいい」
「それで?」
「あなたがあたり前だと信じている現実です」
「自明性ですか」
「ええ。自明性とは思考における温度設定といえます」
「温度設定?」
「25度以上に室温が上昇すると自動的にスイッチが切れる」
「エアコンのサーモスタット?」
「はい。設定温度の範囲内でモノは考えられます」
「思考には限界があるっていうわけ?」
「そうです」
「限界はあるけど、十分生きていける」
「環境が激変すれば陳腐化します」
「温度設定が?」
「まさしく。現実の深刻さは、この設定エラーに起因します」
「だれのエラー?」
「時代全体と考えられます」
「だったらなおさら、設定値は簡単に動かせないでしょう」
「動かせません」
「それこそ操作じゃありませんか」
「そうです」
「お手上げじゃないの」
「かもしれません」
「じゃ、なぜ」

「ちょっと迂回します」
「面倒だけど、まあいいか」
「限界を設定することが、モノを考えることといってもいい」
「かもしれない」
「本来、世界に区切りは存在しません」
「でも区切りはある」
「はい。この区切りが温度設定といってもいい」
「それが生命活動?」
「正解です。生命が区切りを入れます」
「区切りって何ですか?」
「あっちとこっち、よいと悪い、きれいと汚い、現在と過去、などの区切りがあります」
「区切らないと生きられない?」
「ええ。それが生命の宿命で、同時に限界と可能性をもちます」
「人間も同じ」
「そうですが、自然界には存在しない特殊な区切り方があります」
「かもね。どう特殊なのかな」
「コトバの使用です」
「あいうえお」
「コトバによって、世界は自在に扱える積み木細工のように変化します」
「なんとでも言える?」
「区切ることも結び合わせることも自在です」
「ゴリラとクジラが合わさって、怪獣ゴジラになるとか?」
「はい。幻想領域の誕生です」
「物語、おとぎ話の世界ですか」
「ベタにもネタとしても、いろいろ遊べます」
「ウソがつけるとか」
「きれいはきたない、きたないはきれい、という言い方もできる」
「あらゆるものに名前が付けられる」
「名前のない猫が物語を話す」
「歴史も法律も生まれる」
「無数のシンボルも作られます」
「たとえば?」
「パンとぶどう酒で儀式を行う」
「国旗を燃やすと戦争になることもあるな」
「最初にコトバありきで、神サマが登場します」
「天国と地獄もできた」
「狂気と正気を区切る境界線もある」
「いろいろね。ところで、なにがいいたいのかな」
「そうでした」
「どうぞ」
「世界を区切ったり、結び合わせたりできるのは、ちゃんとした理由があります」
「どんな?」
「区切りのない全体が前提され、信じられているからです」
「どういうこと?」
「どんなにコトバで切り刻んでも、バラバラにならない世界があるということです」
「それはそうでしょうけど」
「一つの生物種として生きられる現実があります」
「人間というより生物?」
「はい。人間ということもコトバですから」
「人間は幻想ですか」
「そうなります」
「人間という幻想を生きるサル?」
「人間のつもりで幻想するサルを幻想する……」
「あっ、サルというのもコトバじゃないの」
「まさしく。本当は何枚めくっても幻想のベールを脱ぐことはできません」
「だから?」
「自由に線を引いたり色を塗ったりできる、永遠に未知なるキャンバスがあるということです」
「要するに、お釈迦さまの掌の上だということ?」
「そのことを深いところで了解しながら、すべての人間かサルか何かが生きています」
「本当かな」
「それがあなたという存在です」
「全然わからないけど」
「わからなくていいのですが、わからなさを誤魔化さないことです」
「別に誤魔化すつもりはないけど」
「いつもそこにわたしがいます」
「どういうこと?」
「わたしの住む世界がそこにあります」
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如来とのメタローグ――Ⅲ

2013-01-05 | Weblog

 「精神の全体についての報告が、
  そのなかの一部分に届けられることはありえないということを、
  押さえておかなくてはなりません。
  部分と全体とが、そのような関係をなすことは、論理的にありえないのです。」

  「生命にとって本質的な機能は、単一の変数の支配に任されてはならない。」

  「私は、いかなる生命のシステムも――つまり生態環境も、人間文明も、
  この両者が合体してできるシステムも――
  相互規定的に動く諸変数の絡みとして記述できるものであり、
  その中のどの変数も、それを超えた時に
  不快と病理と(最終的には)死が確実に訪れる許容の上限と下限の値を持っていると考える。」

               ――グレゴリー・ベイトソン『精神の生態学』佐藤良明訳


「何でしょう、操作も予測もできないものって」
「生命活動と呼ばれるものです」
「そうかな。予測も操作も可能と思うけど」
「錯覚です」
「どうして?」
「単なる物体や機械とはちがいます」
「ちがわないところもあるでしょ」
「生命は物理的存在ですが、物理法則とは別次元にいます」
「どうちがうのかな?」
「物理的に特定できない〝意味〟を生きます」
「機械は?」
「単純なエネルギーのやり取りがあるだけです」
「よくわからない」
「あなたが一匹の犬を蹴るとします」
「はい」
「蹴る行為は物理的に記述できますが、犬の反応は物理的に記述できない」
「まあね」
「逃げるか鳴くか噛みつくか。反応は犬ごとに、状況によっても異なります」
「死んでしまうかもしれない」
「かもしれない」
「それは予測可能なのでは」
「衝撃がある閾値を超えると生命システムが壊れます」
「でしょ」
「壊れた素材は物理法則に完全に支配されます」
「生き物じゃなくなってしまうのか」
「はい」
「でもある程度の予想は可能でしょう」
「予想は確率論的なものにすぎません」
「そうかな」
「じゃあもう一つ」
「どうぞ」
「リンゴという物質は落下する。落下して地面にぶつかる。それだけです」
「当然」
「落下しながら落下する自分を観察し、意味を考え、対処する。それが生命です」
「わかるけど」
「死を覚悟する、パニックになる、態勢を調整する、気を失う、エトセトラエトセトラ」
「それで?」
「ニュートンの法則とは別の次元が生きられる」
「でも、やっぱり操作は可能じゃないかな。例えば、洗脳といったものもある」
「そうみえますが、本当はちがいます」
「洗脳できない?」
「洗脳は起こります」
「じゃあ」
「しかし、それはプロセスと結果を取り違えています」
「洗脳はたまたまということ?」
「洗脳という環境への適応行動です」
「生きるための?」
「そうです。物質は洗脳できません」
「洗脳は操作と同じでしょ」
「操作されるように見えますが、生命的な選択があります」
「こんがらかってきたな」

「整理しましょう」
「どうぞ」
「生物は物理法則の拘束を受けますが、物理法則だけで記述することができません」
「あたり前の話ね」
「ところが物理的拘束を強化できても、別次元に直接触れることはできない」
「なぜ?」
「それは生物が自分の状態をモニターしながら、あり方を変化させる存在だからです」
「モニターね」
「学習ともいいます。状態についての学習が次のあり方を決めていく」
「まあね」
「学習は広大な無意識の領域を含み、その対象はじぶん以外の環境も含みます」
「例えば?」
「学校で1+1=2を学ぶとき、同時に生徒は先生との関係パターンを学習します」
「セットになっている?」
「セットの中身は数え上げられません。級友や教室の風景、その日の気分も入っているかもしれない」
「かもね」
「こうした学習と変化の継続が、生物が生物であるゆえんです」
「だから操作も予測のできない?」
「生命の営みには無数の変数が参加していて、その結果がさらに変数として加算されていく」
「それを一元的に操作するのは無理なのか」
「操作の前提となる状況は、操作の手続きが入ることでどんどん変化します」
「環境も変化していく?」
「コンテキストを変化させずに操作的な介入を行うことはできません」
「わかりにくいなあ」
「生物は関係に意味を見出しますが、関係する二者は相互規定的です」
「はあ」
「一方が変化して、片方が変化しないということはない」
「なるほど」
「この絶えず変化していくものを、超越的に操作したり予測したりすることはできません」
「だからか」
「なんでしょう」
「統治する側は、自由を制限して枠を嵌めたがる」
「まさしく」
「そうしないと統治できない?」
「最初から不可能なチャレンジなのです」

「でも教育は必要でしょう」
「教育が必要な局面があることはたしかです」
「どう考えるべきなの?」
「不可能なことをしている自覚でしょうか」
「でしょうかって」
「社会的な適応のために学ばなければならないことはあります」
「そこに操作する目的も正当性もあるわけでしょ」
「大事なのは、学習の回路を閉じないことです」
「生命として?」
「ええ。一番大事なことです」
「でも」
「でも?」
「カオスになりませんか。世界の秩序が失われるとか」
「どうしてですか」
「操作的な手続きを一切放棄すると、お互いがお互いにとってオオカミになるとか」
「ありえません」
「なぜ」
「動物の世界、生命の世界を見てください」
「なるほど」
「これほど調和的な秩序を、人工的に出現させることはできません」
「でも、自然は美しいだけじゃない」
「わかります」
「でしょ」
「大事なことは、この自然の秩序に人間がどうかかわるかです」
「どうかかわればいいのかな」
「第一には、操作することのリスクを知ることです」

「どんなリスクだろう」
「問題は、人間の意識です」
「はい」
「意識のスクリーンは、生命というシステムの一部にすぎません」
「それはわかる」
「一部にすぎない意識のスクリーンに、意識を含むシステム全体が映されることは原理的に不可能。
「それもわかる」
「けれども、意識がスクリーンに映せるかのようにふるまうときに何が起こるか」
「どうなるのかな」
「システム全体の作動に、誤作動の原因が生まれます」
「なぜ?」
「意識に焦点が集まると、システムは停滞や中断を余儀なくされます」
「つまり?」
「システムの回路をめぐる情報の自然な流れがストップします」
「情報が止まる?」
「まさに。情報という血液の流れが止まり、血栓や梗塞が起こります」
「それが操作的なもの、つまり統治のリスクですか」
「はしょりましたが、そうなります」
「なんとなくわかるような」
「もうすこしお付き合いください」



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