あい見ての のちの心にくらぶれば
むかしはものを思はざりけり
── 権中納言敦忠(906~943)『拾遺集』
絵の主題に絵が追いついていない
けれど描きたいという心がこぼれている
(笑い飛ばすことも勝手に許された)
うまさが際立つ絵には感じられない
稚拙さゆえによりつよく響きあう
そういう絵に出会うことがある
(たしかなことは言えないけれど)
同じような心、経験を引き出され
絵の稚拙さを補うように
心がつよく寄り添うからかもしれない
いまならこう言いたい気がする
君ありてこそ、綾も錦も(和宮)
東福岡図書館(?)の読者カードに石牟礼道子本人の記名を見つけた
それを自慢げに語っってくれた原田さんの姿がいまも残っています。
じぶんを棚に上げたうえで生意気にいいますが、
いい加減でぐだぐだの美術部だった気がしますが、
けっして同人誌的紐帯にのぼせ上らない、むしろそれを積極的に軽蔑する、
キャンパスは真っ白のまま、それだけがただひとつのとりえ、
けれど他では得難いとりえだった、そんなふうにいまも思っています。