ASAKA通信

ノンジャンル。2006年6月6日スタート。

「消費財化」する身体性

2006-11-04 | 私見
(上野千鶴子『サヨナラ、学校化社会』2002年太郎次郎社)より

(小倉千加子『セクシュアリティの心理学』有斐閣選書)思春期とは女の子にとって、自分の肉体が他者の快楽のために存在し、他者から値踏みされる存在であることを自覚するようになる時期であることである、と。自分の肉体が自分に属さない、自分の肉体に価値がつけられ、値踏みされる、その評価軸が自分とまったく関係ないところで他者の手ににぎられているということを自覚していくのが思春期だというのです。思春期に摂食障害が発症するというのは、そのような身体にたいする否定であり、かつそれを自分の領土として再占有するための意志の力の発露であり、征服宣言です。だから自分の身体にたいしてものすごく暴力的なことをやっている。
 思春期の少女の逸脱病理は、摂食障害と性的逸脱とにハッキリ分かれます。(中略)それがセックスに向かわないというのは、セックスだと女という記号性を他者から否応なしに付与されるからです。

女は自分の価値を身体に局限されることに慣らされていて、ずっとそうやって育ってきたわけですが、男もまたそこから逃れられなくなってきました。
(中略)
(八〇年代後半)ときを同じくして、男の子の拒食症の話を聞くようになった。ときあたかも性の自由市場化が進行し、性の自由競争のなかで男が女に選ばれる存在になりました。それを「生産財男から消費財男へ」と呼んだ人がいます。頼れる、食わせてくれる男よりも、いっしょにいて楽しませてくれる男が選ばれるようになった。
 同時に、身体性や美もまた学校的価値にからめとられていきました。ナイスボディは努力すれば手にはいるのに、どうしてあなたは努力しないの――そういうメッセージがエステやスポーツクラブの広告にあふれています。ここには産業資本主義から情報資本主義へと変っていく、後期資本主義の状況が反映しています。


※存在自体が「スペック化」される時代的コミュニケーション関係の中においては、若者だけでなく、ご老人や幼児を含めたあらゆる世代・性・身体性は、例外なく市場的評価システムの場にひきずりだされて無慈悲に査定を受けるという環境が出来上がっている。
結果として、市場価値的に億単位の査定をうける存在がいる一方、二束三文的な査定しか受けられない存在がいるということになっている。
時代的コミュニケーションにおいてこの評価の序列を心理的にスキップすることは至難のワザであり、個々の思考や感情、他者に投げられる視線は、否応なくこの回路を経由することを強いられているようにみえる。
こうした環境に関わりなく、「オレはオレ」「私は私」「アナタはアナタ」という位相をキープするには、市場的査定システムに拮抗できる強度をそなえた価値的信念の定立が前提になるかもしれない。
ここから、例えば拒食や過食や自傷や犯罪に至る逸脱などについて、時代的コミュニケーションが引いた限界線を突き破る「一か八か的」あるいは「八方破れ的」チャレンジとしてみることも可能である。
当然、現状の市場はそれを許さないだろうが、万が一それを評価する非市場的視線がそこに当たられるとしたら、いくらかチャレンジの切迫感や悲壮感は緩和され、ある種の風通しの良さや希望が生まれることになるだろうと思える。
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万歳突撃

2006-08-16 | 私見
 外国人ジャーナリストに広まっているジョークがある。
 沈没しかけた船では、最後に男性が救命艇に乗船するけど、最後に乗ることをクルーが説得すると きの言葉。
 米国人には「女性が見てらっしゃいます」。
 ドイツ人には「上からの命令です」。
 英国人には「女王陛下の名誉のために」。
 そして日本人には「みなさんそうしてらっしゃるようです」。
 ……公共性を実現するためにすら、いったん「みんながやっている」文化に内在する必要が出てく る。(宮台真司×宮崎哲弥『ニッポン問題』2003年インフォバーン)


 日本における「公共性」の範囲は、TPOに応じてあるいは応じることなく、自在に伸縮したり、飛び石的に次々に入れ替わったり、意図的にすり替えられたりする。
 その範囲や内実は幅広く、地球レベル、国家レベルから数人規模の小さなサークルにわたって、任意の選択対象が重層的に混在している。
 そうした選択決定の基本は、ご都合主義的、融通無碍、付和雷同という以前に、「公共」そのものの概念の希薄さ、強度不足、あるいは不在に由来しているようにみえる。
 そこで、「公共性」をめぐって議論する場合も、それが地球レベルなのか、国家レベルなのか、党派や所属集団レベルなのか、地域ローカルレベルなのか、サークルレベルなのか、居酒屋で一杯レベルなのか、収拾がつかないという事態が生まれる。
 ちなみに、国内外の批判もものかは、靖国参拝を強行した日本国首相、すなわち「公共」の番人のトップたるべきポジションにある人物が自画自賛的に強弁したのは、心情=ココロレベル。どちらかと言えば、仮にその裏に大いなる打算や美学があるにしても、居酒屋レベルに近い。
 これこそが、それが何かもどこにあるのかも定かでないはずの、我が伝統のジャパネスクたる「大和魂」(万歳突撃)とでも言えばよろしいのか。
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「脱中心化」の問題

2006-08-08 | 私見
「新しく赤ん坊ができたことを知ったときその幼児に起こった嫉妬は、その本質において、状況が変わることに対する拒否である。(中略)
ところで、感情的現象と言語現象との間の結びつきが明瞭にうかがわれるのは、この嫉妬の「超克」の段階においてです。つまり嫉妬が克服されるのは、<過去―現在―未来>という図式が構成されたおかげなのです。事実、この幼児の抱く嫉妬の本質は、自分の現在にしがみつこうとするところに (中略) 彼はこの現在を絶対的なものと考えていたのです。(中略)
このようにみますと、そうした時間的構造が習得されることと――それによってその時間構造に対応するさまざまの言語的手段が生きてくるわけですが――嫉妬が克服されている状況との間には、関連があるということがお分かりでしょう。
嫉妬の状態はその幼児にとって、自分がその只中で生きている他人との関係の構造を再編成し、それと同時に実存の新しい次元(過去・現在・未来)を手に入れ、しかもそれらを自由に組み合わせたりするその機会だったといえるわけです。
ピアジェの言葉を借りれば、嫉妬を克服する際の問題はすべて「脱中心化」(decentration)の問題だということができそうです。」
(M・ポンティ著『幼児の対人関係』滝浦静雄訳/1966年みすず書房より)


幼児にみられた「現在を絶対なもの」と捉える思考から派生する感情は、「成人」でも無縁ではない。
ここで語られる「時間的構造」が介在しない思考は、単に個人だけでなく、社会的な状況においても非常に大きなテーマとして現象することになる。
例えば、大衆的な動員に動機づけられたある種の人間や組織にとって、こうした心理の原型的メカニズムは、大衆の操作可能性や利用可能性を高める上で、きわめて重要なリソースとなりうる。
現在、メディア、政治、官、宗教、各種利益団体など、社会的な機能集団の多くは、このリソースの利用を最大化することに血道をあげ、メッセージの中味を練り上げ、動員を競い合っているようにみえる。
具体的には、笑い・怒り・哀歓・嫉妬・同情・正義・義憤・裁断など、幼児と成人が共有する「いまここ」における感情的リアクションの喚起と共感、共有の醸成がメインテーマになっており、それが組織利益と直結している。
より本質的にいえば、「時間的構造」をその思考に組み込んだ「成人」の社会システムに向けた(あるいはその成育へ向けた)コミュニケーションではなく、逆に「成人」からの退行を促すような社会的コミュニケーションが幅広く機能しているということになる。
引用文からいえば、「脱中心化」ではなく、単なる「中心化」。
現象からいえば、「幼児」性をまぶされたり、つけこまれたりする情報・サービス・商品によるコミュニケーションと消費である。
こうしたカタチで現に回っている社会システムがあるということ、そして日々の生活のあらゆる場面で影響や拘束を受けているということを、「成人」としてどう捉えるのか。「成人」として、「脱中心化」をどう行使したらよいか。しかも、果たしてそれが可能な余裕のある社会なのか、という問題を含めて、このことはきわめて重大な意味をもっていると思う。







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