(上野千鶴子『サヨナラ、学校化社会』2002年太郎次郎社)より
(小倉千加子『セクシュアリティの心理学』有斐閣選書)思春期とは女の子にとって、自分の肉体が他者の快楽のために存在し、他者から値踏みされる存在であることを自覚するようになる時期であることである、と。自分の肉体が自分に属さない、自分の肉体に価値がつけられ、値踏みされる、その評価軸が自分とまったく関係ないところで他者の手ににぎられているということを自覚していくのが思春期だというのです。思春期に摂食障害が発症するというのは、そのような身体にたいする否定であり、かつそれを自分の領土として再占有するための意志の力の発露であり、征服宣言です。だから自分の身体にたいしてものすごく暴力的なことをやっている。
思春期の少女の逸脱病理は、摂食障害と性的逸脱とにハッキリ分かれます。(中略)それがセックスに向かわないというのは、セックスだと女という記号性を他者から否応なしに付与されるからです。
女は自分の価値を身体に局限されることに慣らされていて、ずっとそうやって育ってきたわけですが、男もまたそこから逃れられなくなってきました。
(中略)
(八〇年代後半)ときを同じくして、男の子の拒食症の話を聞くようになった。ときあたかも性の自由市場化が進行し、性の自由競争のなかで男が女に選ばれる存在になりました。それを「生産財男から消費財男へ」と呼んだ人がいます。頼れる、食わせてくれる男よりも、いっしょにいて楽しませてくれる男が選ばれるようになった。
同時に、身体性や美もまた学校的価値にからめとられていきました。ナイスボディは努力すれば手にはいるのに、どうしてあなたは努力しないの――そういうメッセージがエステやスポーツクラブの広告にあふれています。ここには産業資本主義から情報資本主義へと変っていく、後期資本主義の状況が反映しています。
※存在自体が「スペック化」される時代的コミュニケーション関係の中においては、若者だけでなく、ご老人や幼児を含めたあらゆる世代・性・身体性は、例外なく市場的評価システムの場にひきずりだされて無慈悲に査定を受けるという環境が出来上がっている。
結果として、市場価値的に億単位の査定をうける存在がいる一方、二束三文的な査定しか受けられない存在がいるということになっている。
時代的コミュニケーションにおいてこの評価の序列を心理的にスキップすることは至難のワザであり、個々の思考や感情、他者に投げられる視線は、否応なくこの回路を経由することを強いられているようにみえる。
こうした環境に関わりなく、「オレはオレ」「私は私」「アナタはアナタ」という位相をキープするには、市場的査定システムに拮抗できる強度をそなえた価値的信念の定立が前提になるかもしれない。
ここから、例えば拒食や過食や自傷や犯罪に至る逸脱などについて、時代的コミュニケーションが引いた限界線を突き破る「一か八か的」あるいは「八方破れ的」チャレンジとしてみることも可能である。
当然、現状の市場はそれを許さないだろうが、万が一それを評価する非市場的視線がそこに当たられるとしたら、いくらかチャレンジの切迫感や悲壮感は緩和され、ある種の風通しの良さや希望が生まれることになるだろうと思える。
(小倉千加子『セクシュアリティの心理学』有斐閣選書)思春期とは女の子にとって、自分の肉体が他者の快楽のために存在し、他者から値踏みされる存在であることを自覚するようになる時期であることである、と。自分の肉体が自分に属さない、自分の肉体に価値がつけられ、値踏みされる、その評価軸が自分とまったく関係ないところで他者の手ににぎられているということを自覚していくのが思春期だというのです。思春期に摂食障害が発症するというのは、そのような身体にたいする否定であり、かつそれを自分の領土として再占有するための意志の力の発露であり、征服宣言です。だから自分の身体にたいしてものすごく暴力的なことをやっている。
思春期の少女の逸脱病理は、摂食障害と性的逸脱とにハッキリ分かれます。(中略)それがセックスに向かわないというのは、セックスだと女という記号性を他者から否応なしに付与されるからです。
女は自分の価値を身体に局限されることに慣らされていて、ずっとそうやって育ってきたわけですが、男もまたそこから逃れられなくなってきました。
(中略)
(八〇年代後半)ときを同じくして、男の子の拒食症の話を聞くようになった。ときあたかも性の自由市場化が進行し、性の自由競争のなかで男が女に選ばれる存在になりました。それを「生産財男から消費財男へ」と呼んだ人がいます。頼れる、食わせてくれる男よりも、いっしょにいて楽しませてくれる男が選ばれるようになった。
同時に、身体性や美もまた学校的価値にからめとられていきました。ナイスボディは努力すれば手にはいるのに、どうしてあなたは努力しないの――そういうメッセージがエステやスポーツクラブの広告にあふれています。ここには産業資本主義から情報資本主義へと変っていく、後期資本主義の状況が反映しています。
※存在自体が「スペック化」される時代的コミュニケーション関係の中においては、若者だけでなく、ご老人や幼児を含めたあらゆる世代・性・身体性は、例外なく市場的評価システムの場にひきずりだされて無慈悲に査定を受けるという環境が出来上がっている。
結果として、市場価値的に億単位の査定をうける存在がいる一方、二束三文的な査定しか受けられない存在がいるということになっている。
時代的コミュニケーションにおいてこの評価の序列を心理的にスキップすることは至難のワザであり、個々の思考や感情、他者に投げられる視線は、否応なくこの回路を経由することを強いられているようにみえる。
こうした環境に関わりなく、「オレはオレ」「私は私」「アナタはアナタ」という位相をキープするには、市場的査定システムに拮抗できる強度をそなえた価値的信念の定立が前提になるかもしれない。
ここから、例えば拒食や過食や自傷や犯罪に至る逸脱などについて、時代的コミュニケーションが引いた限界線を突き破る「一か八か的」あるいは「八方破れ的」チャレンジとしてみることも可能である。
当然、現状の市場はそれを許さないだろうが、万が一それを評価する非市場的視線がそこに当たられるとしたら、いくらかチャレンジの切迫感や悲壮感は緩和され、ある種の風通しの良さや希望が生まれることになるだろうと思える。