――G・ベイトソン『精神の生態学』佐藤他訳
ある個人が別の人間と何らかの関係にあるとき、
その関係内で生ずる出来事には
極めて限られたコントロールしかもちえない。
彼はふたりでひと組の単位の部分であって、
部分が全体に対して持ちうるコントロールというものは、
厳しく制限されているのである。
全体は部分に対して常にメタの関係にある。
論理学において、命題が決してメタ命題を決定できないのと同様に、
コントロールの問題においては、小さい方のコンテキストが
大きい方を決定することはあり得ない。
――G・ベイトソン「都市文明のエコロジーと柔軟性」『精神の生態学』佐藤良明他訳
社会的柔軟性というものは、オイルやチタンに劣らず貴重な資源であり、
(サナギが脂肪を使うように)必要な変化に当てられるよう、
その〝予算案〟の作成には細心の注意が払われなくてはならない。
柔軟性を〝食う〟のは、大まかにいって文明内の増殖的(regenerative)な、
エスカレートするサブ・システムであるから、それらの最終的抑制を図ることが肝要になる。
(例えば)食べることの誘因が多岐にわたるということは、
食べるという生命維持に欠かせない行為が、きわめて広い状況で、
さまざまな圧力の下で、間違いなく生じることを確証するものである。
もしそれが、血糖値の低下だけの直接的コントロールにおかれていたら、
その一つのコミュニケーション経路に何らかの異変が起これば簡単に死んでしまう。
生命にとって本質的な機能は、単一の変数に支配に任されてはならない。
――竹田青嗣『完全読解・フッサールの現象学の理念』2012年
世界観における特権的な「超越項」は、人間の生の意味と価値を一元化し、
そのことでしばしば知の絶対的権威性とこれに対抗する異端との二元的対立を生みだす。
しかしこの思想的対抗はほとんどの場合、反対超越項を作り出すことで終わる。
知と価値の普遍性というものは、真理の絶対性とは異なったものだ。
後者は、巨大で動かしがたい権威と威力から、あるいはそれへの対抗的反動から生じる。
「普遍性」とは、世界の意味と価値についての多様な偏差の中から、
そのことが必要であるとき、そこに生じる対立を乗り越え、
新しい共通了解の地平を創出しようとする意志と努力によって成立する。
現象学の観点からは、「絶対に疑えないもの」として存在するのは、
ただ個々人の「意識体験」それ自体である。
これに対して、この意識体験から構成されてくる、世界のあるいは諸事物についての存在確信は、
これまた原理的に、どこまでも相対的な可疑性(疑わしさ)をもっている。
というのも、世界や事物についての一切の存在確信は、現象学的には、
この「意識体験」(=超越論的主観性)から形成された「意味の網の目」(*信憑構造)と考えるべきものだからである。
――田原牧『中東民衆革命の真実-エジプト現地リポート』2011年
その日常に決別するには儀式がいる。
ジャスミン革命においては、外交公電の暴露がその役を担った。
自分たちが世界の片隅に捨てられた存在ではなく、
世界という有機体の一部であること、その確認が希望に転化する。
ウィキリークスは、その伝達者としての役も果たした。
マニングのリークは、結果としてチュニジア革命の跳躍台を提供した。
彼に革命の意図などなかっただろう。…でも、このことは覚えておきたい。
彼を行動に駆り立てたのは、革命理論とも、青写真とも無縁な、人としての倫理だった。