https://www.youtube.com/watch?v=h4X3rAg6lhY
「……〈他者の両犠牲〉のうち、生きるということの意味と歓びの源泉である限りの他者と、
生きるということの困難と制約の源泉である限りの他者とは、その圏域を異にしている。
圏域を異にしているということの単純な認識が、
社会構想の理論にとって、実質上決定的な意味をもつ前提である。
たとえば20世紀を賭けた「コミュニズム」という巨大な実験の破綻は、
この圏域の異なりに無自覚であったということに起因するとさえいってよいものである。
全域的ではありえないものの美しい夢を、全域であるもののように、ありうるもののように、
あるべきもののように、あるはずのもののように、
幻想した自己欺瞞の内にあったとさえいってよいものである。
………
他者との関係のユートピアの構想の外部に、あるいは正確には、
無数の関係のユートピアたちの相互の関係の構想として、
……関係のルールの構想という課題の全域性はある。
圧縮すれば、われわれの社会の構想の形式は、
〈関係のユートピア・間・関係のルール〉という重層性として、
いったんは形式化しておくことができる」 ──見田宗介『社会学入門』2006年
アンサンブルから〝第三の音〟が生成する。
比喩的にも実践的にも、アンサンブルは非人称的な奏者として音を奏でる。
このとき、アンサンブルを構成するどのプレーヤーにも帰属できない、
いわば〝全体包括的な現われ〟としての第三の音をわれわれは聴いている。
すべてのパートを貫く〝全体包括的な現われ〟としての第三の音。
生きる「圏域」を異にするプレーヤーたちのプレーの、自由意思の、
「第三の音」(音のエロス)が出現する位相への焦点化。
この焦点化は、単独では奏でられることのない未生の音のエロスの出現、
そのことへの予期と確信によって生まれ、アンサンブルの基底を支えている。
*
「生きるということの意味と歓びの源泉である限りの他者」
「生きるということの困難と制約の源泉である限りの他者」
この「他者の両義性」は動的な関係のダイナミクスにおいて、
シャッフルされ、規定不可能な多義性を帯び、
いちどかぎりの「音のエロス(価値)」創発の磁場を形成する。
未生の「第三の音」(音のエロス)創発への焦点化──
ここにはもう一つの〝両義性〟が存在する。
それぞれのパートには固有の音を奏でる奏者=プレーヤーがいる。
第三の音はそれぞれプレーヤーの固有の音を条件として生成する。
全体包括的な第三の音の生成は、(一見全体従属的にみえる)
すべてのプレーヤーが奏でる音の独立性にささえられている。
相互に独立的であり、非融合的であり、異質であることを条件として、
アンサンブルが構成され第三の音が立ち上がっていく。
プレーヤーの独立性と固有のプレースタイル──
ここには非人称的奏者(アンサンブル)の一構成者でありながら、
全面的に服属しない独立性ゆえにアンサンブルが成立するという、逆説がある。
この独立性が失われるとき、アンサンブルの果実(エロス)の生成は止まる。
独立的でありつつプレーヤー相互の意思の焦点化が起こるとき、
演奏の奇跡性(音のエロスの生成、新たな価値創発)の基盤が生まれる。
*
「関係のエロス」は関係しあうものの独立性を条件として創発する。
関係し合うもの同士のへだたり、それぞれの独立性、固有の演奏、
相互に異なる圏域を生きるプレーヤーであることの相互的な了解。
相互に異なる生の圏域と圏域を結んで成立するアンサンブルは、
圏域の固有性がキープされるかぎりにおいて「音のエロス(価値)」創発の条件をつくる。