ASAKA通信

ノンジャンル。2006年6月6日スタート。

フォーメーションⅡ

2017-04-22 | Weblog

        https://www.youtube.com/watch?v=qQboPV5GZzI


フォーメーションの連続的な接続の結び目に
わずかなスキマが存在する、という新たな直観が動くことがある。

選択に出会う──あれか/これかという単純な選択肢の提示でもない。
ある種の「自由」の感覚が生きる、
経験の拡張可能性のスキマ、あるいはトビラのようなものとの遭遇。

新たなフォーメーションの「ありうる」が点滅する第三のエリア。

この位相を見逃すと、〈世界〉は手のほどこしようのないもの、
あるいは「なるようにしかならない」ものとして現われ、
因-果連関の必然的展開としてだけ、
世界は無機的な接続の連鎖としてのみ訪れる。

 

 

コメント

「普遍化欲求」

2017-04-19 | Weblog

      https://www.youtube.com/watch?v=tKAh--ss1r0


わたしの感情、わたしの信条、わたしの愛、わたしの理想、わたしの世界観。
それらが客観的で普遍的な意味や価値をもつという内在的な根拠はどこをさがしても存在しない。
どこにも存在しないが、(なぜか)普遍的価値とつながるものでありたいという内的要請は存在する。

この普遍化欲求はかならず他者の承認を求めるようにベクトルを定めている。
このことはそのままでは障害に出会い、不首尾におわる。
この欲求の固有性(自己中心性)は、同等の固有性において生きる他者に出会うからである。
複数の確信が出会う場面においては、必然的に相互的な「相対化の渦巻き」が生成する。
この渦巻きを乗りこえて一歩進むには、(その教義化を望まないのであれば)
かならずそこをくぐらなければならない条件がある。

 

 

コメント

「非思想的」

2017-04-18 | Weblog

           https://www.youtube.com/watch?v=T4To7TcyZGU


         いとにからみからまれほつれあひ
     むすびむすばれちぎりちぎられし
     かりそめならずやわれもおんみも
     ひかりあるやなきやのうたかたに
      つたなくめめしふさはこひこがれ
     すかれきらわれあいしにくみあふ
     あやなきよのことわりつれなくに
     しのぶれどうたてうらみつらみに
      かなしみねたみひそみものぐるい
     よろこびいかりなげきうみそだて
     こころあらばあはれにはかなくも
     なでかころしころされさしちがえ
     いづこよりきたりていづかたへか
     まにまにであいわかれすれちがひ
     よしなきたまゆらともにいきしに
     いまわのはてにいとどなつかしき
     あかずみじかよのみはてぬるゆめ


 

コメント

「関係のエロス」

2017-04-15 | Weblog

      https://www.youtube.com/watch?v=h4X3rAg6lhY

「……〈他者の両犠牲〉のうち、生きるということの意味と歓びの源泉である限りの他者と、
生きるということの困難と制約の源泉である限りの他者とは、その圏域を異にしている。
圏域を異にしているということの単純な認識が、
社会構想の理論にとって、実質上決定的な意味をもつ前提である。
たとえば20世紀を賭けた「コミュニズム」という巨大な実験の破綻は、
この圏域の異なりに無自覚であったということに起因するとさえいってよいものである。
全域的ではありえないものの美しい夢を、全域であるもののように、ありうるもののように、
あるべきもののように、あるはずのもののように、
幻想した自己欺瞞の内にあったとさえいってよいものである。
………
他者との関係のユートピアの構想の外部に、あるいは正確には、
無数の関係のユートピアたちの相互の関係の構想として、
……関係のルールの構想という課題の全域性はある。
圧縮すれば、われわれの社会の構想の形式は、
〈関係のユートピア・間・関係のルール〉という重層性として、
いったんは形式化しておくことができる」       ──見田宗介『社会学入門』2006年


アンサンブルから〝第三の音〟が生成する。
比喩的にも実践的にも、アンサンブルは非人称的な奏者として音を奏でる。

このとき、アンサンブルを構成するどのプレーヤーにも帰属できない、
いわば〝全体包括的な現われ〟としての第三の音をわれわれは聴いている。

すべてのパートを貫く〝全体包括的な現われ〟としての第三の音。
生きる「圏域」を異にするプレーヤーたちのプレーの、自由意思の、
「第三の音」(音のエロス)が出現する位相への焦点化。

この焦点化は、単独では奏でられることのない未生の音のエロスの出現、
そのことへの予期と確信によって生まれ、アンサンブルの基底を支えている。

「生きるということの意味と歓びの源泉である限りの他者」
「生きるということの困難と制約の源泉である限りの他者」

この「他者の両義性」は動的な関係のダイナミクスにおいて、
シャッフルされ、規定不可能な多義性を帯び、
いちどかぎりの「音のエロス(価値)」創発の磁場を形成する。

未生の「第三の音」(音のエロス)創発への焦点化──
ここにはもう一つの〝両義性〟が存在する。

それぞれのパートには固有の音を奏でる奏者=プレーヤーがいる。
第三の音はそれぞれプレーヤーの固有の音を条件として生成する。

全体包括的な第三の音の生成は、(一見全体従属的にみえる)
すべてのプレーヤーが奏でる音の独立性にささえられている。

相互に独立的であり、非融合的であり、異質であることを条件として、
アンサンブルが構成され第三の音が立ち上がっていく。

プレーヤーの独立性と固有のプレースタイル──

ここには非人称的奏者(アンサンブル)の一構成者でありながら、
全面的に服属しない独立性ゆえにアンサンブルが成立するという、逆説がある。

この独立性が失われるとき、アンサンブルの果実(エロス)の生成は止まる。
独立的でありつつプレーヤー相互の意思の焦点化が起こるとき、
演奏の奇跡性(音のエロスの生成、新たな価値創発)の基盤が生まれる。

「関係のエロス」は関係しあうものの独立性を条件として創発する。
関係し合うもの同士のへだたり、それぞれの独立性、固有の演奏、
相互に異なる圏域を生きるプレーヤーであることの相互的な了解。

相互に異なる生の圏域と圏域を結んで成立するアンサンブルは、
圏域の固有性がキープされるかぎりにおいて「音のエロス(価値)」創発の条件をつくる。

 


 

コメント

「……, play what’s not there.」

2017-04-05 | Weblog

              https://www.youtube.com/watch?v=kbxtYqA6ypM


「Call&Response」──
個(単眼)の経験のモードの変化と転位をつくる個と個の相互作用。

相互的な視覚のかさなり、関係記述、多重記述から生成し、
その連続的展開において生きられる〝世界の奥行き〟(両眼視覚)。

「Call&Response」の連続的展開から生成変化する「経験相」(両眼視覚)は、
個(単眼)では実現できず、個(単眼)で支えつづけることもできない。

第三の経験相として生成する「両眼視覚」は、
世界経験の基底として生涯にわたって「引き剥がすことができない」ものになる。

創発の起源としての多重記述、
経験のボーナスを生成するmulti-description。

しかし「Call&Response」が消えると、「関係」はバインドされる。
「関係」の定数化・固定化、つまりは関係がコード化されるとボーナスは生成しない。

 


 

コメント

「Don't play what's there,…」

2017-04-01 | Weblog


            https://www.youtube.com/watch?v=Fw5kBTFJCfs

世界の訪れ、その報告=プレゼンテーションとしての感覚と情動の作動。
知(意識)はそのつどおくれて動き出す。

情動は走り、〝世界〟はさまざまに色めき立ち、知(言葉)はおくれて動き出す。
情動はつねになんらかの「差異」に反応し、ある表象としてそのことをリプレゼントする。

みずからのフォーメーションに「差異を生む差異」としての情報、
としてのプレゼンテーションがみずからに現象し、
知(言葉)はそれをメッセージとして受け取ることで作動を開始する。

この構造は一貫している。

どんな自由の自覚を知(意識)が抱いているにしても、
知(意識)はつねにその自覚に先行してなんらかの「資源(としての世界)」を受け取っている。
知はなんらかについての知であり、対象をもたない知は作動できない。
資源としての世界イメージ、その訪れの始原的先行性という根本的な事実。

世界の訪れ──それは拘束条件であると同時に、自由の入口であり条件でもある。

世界体験の主体としての身体(幻想的身体)、
世界体験の報告=プレゼンテーションとしての感覚・情動のうごき。

すべては意識の水面において現象する、わけではない。
が、意識にとって水面下のことは由来を明示できない非知に属する。

この非知性との関係、向かい合い、かまえ、もてなしの作法が、
つまりは知(意識)の流儀というものが、形成運動としてのフォーメーションの動向を決定する。

フォーメーションと訪れとしての世界との関係のありかた、
「訪れとしての世界」の取り扱いコード、その固有性と改編可能性。
それがフォーメーションの形成運動にとって決定的な意味をもつ。

 

 

 

コメント