ASAKA通信

ノンジャンル。2006年6月6日スタート。

2011 居酒屋にて

2011-10-25 | Weblog

とりあえずビールでいきますか。
ノープラブレム!
どこをどうネグって、どうめぐりめぐってビールなのか。
検討に検討を重ねた上で、というわけではないけれど。
なんとなく安心しますでしょ。
大ジョッキ十杯ね!
とりあえずビールで波風立たず。
そんなこんなで乾杯といきますか。
いやあ、生き返りますな。
コレですな。
いやあ、民主党はなっとらんね。
おっとっとっとっとぉ。
そこが狙い目なんだよ。
それにしても巨人は弱い。
アレいきますか、部長!
いいねえ。
おいしいオツマミが揃えば、なんとなく盛り上がりますでしょ。
お仲間同士、和気あいあい。
ノドをごろごろ鳴らして。
ワッハッハッハッハッ。
ご冗談でしょう。
おっと、そうきましたか。
会見はうまくいきましたね。
隅に置けないねえ。
いやあ、あいつはヤな奴でねえ。
論理が甘いんだよ。
性格ですかね。
能力的にもちょっと。
一理あるかも。
まあ飲め!
気分も上々、宴もたけなわ。
大ジョッキ三杯追加ね。
責任とれるわけねえだろ。
オレ焼酎がいいな。
酔いが回れば、平手の一発や二発。
生育環境の問題だよ。
そうかな?
単なるゴロツキでしょ?
なんだよ。
でめえ、この野郎。
まあ、まあ、まあ。
言質与えてどうする。
いいじゃないですか。
わかっとるな!
溜まっとるんですよ。
公的な責任もある。
だからやってるわけだろ。
大勢からみてどうなの。
ハイ大丈夫です。
要するに自己責任ね。
ボクはちがうと思うな。
おい、舐められるなよ。
どうです、ひとつ歌でも。
一発決めれば、おのずとこころも晴れやか。
もっと叩け、遠慮はいらん。
生意気なんだよ。
相手の生活もありますから。
最近、色っぽいねえ。
警察を呼びますよ。
ひゅーひゅー。
駆けつけ三杯ね。
盛り上ってるねえ。
いやはや、あのツッコミにはまいった。
なんだかなぁ。
長期戦だからな。
ちょっと聞いてくださいよ。
頑張っているらしいじゃないか。
棄民政策?
オレ達がどれだけ頑張っているか。
キミ、ちょっとそれは問題発言だね。
付き合いきれねえよ。
そんなつもりは。
バッカじゃねえの。
オレはわかっとるぞ。
何様のつもりだ!
世間を知らねえな。
知ってどうする!
うん、うん、わかる、わかる。
わかりすぎるほどわかるなあ。
よせよ。
おい、表に出ろ。
カミサン泣かすなよ。
耐えられねえ~。
近頃トンと。
まあ、いいじゃないか。
ビール遅っせえぞお。
どこでもやってるよ。
いい奴だよなあ。
結局、カネだろ。
やがてわかるよ。
終わってる。
流石ですねえ。
責任取りようがねえだろ。
付け替えとけ。
そこはちがうんじゃないですか。
若いなあ。
焼酎のお湯割りおかわり。
おっ、ハードル上げたな。
喰うか喰われるかだろ。
やってやろうじゃねえか。
つまみが足りないな。
おい、いいかげんにしろ。
公的責任ねぇ。
オレちょっと急ぎの仕事があるんで。
空気読めよ。
ほんとは刑事案件じゃないですか。
ただちに被害はありませんから。
読んでたまるか。
豚トロ三本ね。
将来を考えろよ。
もう食えねえ、限界だあ。
白けるなこの野郎。
オレはやめた。
まだまだだな。
オマエに聞いてねえよ。
ふぅ~。
そろそろ次にしますか。
後でゆっくりやってくれ。
なにはともあれ心を一つにしましてね。
オマエは馬鹿か。
そうしましょう。
ワッハッハッハッハッ。
ワッハッハッハッハッ。
ワッハッハッハッハッ。
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「go out on a limb」(参)

2011-10-15 | Weblog

You find something new every time.
I do, anyway, and I hope always will.
I try not to imitate myself.
It's dangerous if you're too pleased with what you've done,
or if you get into a routine, because you start to imitate yourself.
I like to go out on a limb sometimes, so it doesn't happen to me.

― Martha Argerich
コメント

「歴史的労作としてのコモンセンス」(参)

2011-10-10 | 参照

(見田宗介『社会学入門』2006年)より

「第一に、失われた至高性を回復すること。
 第二に、他者に強いられた至高性の一切の形式を否定すること。
 ニーチェにとっては、失われた至高性を回復することが肝要だった。伝統的な至高性に対しては、ニーチェはコミュニストと同じ態度をとった。だが彼は、人間が―ひとりひとりの人間がーある集団的な企画の手段であって目的ではないような世界を受けいれることができなかった。……ニーチェを神あるいは道徳から遠ざけていたのは、享楽への個人的欲望ではなく、一つの抗議であった。……人を隷属させるような至高性のかたちと、理性が自己目的化されるために主体的な生や思想が閉塞させられてしまうような状況との双方に、同時に向けられた抗議であった」(G・バタイユ『至高性』)

〈他者の両犠牲〉のうち、生きるということの意味と歓びの源泉である限りの他者と、生きるということの困難と制約の源泉である限りの他者とは、その圏域を異にしている。圏域を異にしているということの単純な認識が、社会構想の理論にとって、実質上決定的な意味をもつ前提である。
たとえば20世紀を賭けた「コミュニズム」という巨大な実験の破綻は、この圏域の異なりに無自覚であったということに起因するとさえいってよいものである。全域的ではありえないものの美しい夢を、全域であるもののように、ありうるもののように、あるべきもののように、あるはずのもののように、幻想した自己欺瞞の内にあったとさえいってよいものである。

他者との関係のユートピアの構想の外部に、あるいは正確には、無数の関係のユートピアたちの相互の関係の構想として、……関係のルールの構想という課題の全域性はある。圧縮すれば、われわれの社会の構想の形式は、〈関係のユートピア・間・関係のルール〉という重層性として、いったんは形式化しておくことができる。







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