ASAKA通信

ノンジャンル。2006年6月6日スタート。

「経験としての世界~現象学的アプローチ」

2014-10-29 | Weblog


「我れ思う、なんて言うのは誤りです。他人が吾れについて考える、と言うべきです。
地口を言っているようで御免下さい。『我れ』は一個の他者であります」 
(アルチュール・ランボー、恩師J・イザンバール宛の手紙/平井啓之訳)


なぜ、なんのために
いま、ここで
こうして、ぼくは存在しているのか――

問うことの手前に
すでに
地平は開かれ

情動は走り
ことばはおくれて
かたちを結んでいく

気づくより早く
かんがえること
問うことに先んじて

ぼくのまえに
「いま」を生き
「いま」を告げるものがいる

いまここに
こうしてあるという感触は
つねに、すでに
あらゆる場面で、
ぼくに先行してぼくに告げられる

それは一つの訪れとして
いま、ここに
こうしてあることの
かたちと意味を告げる

世界は存在し、たしかに生きられている――

透きとおった確信のかたちにおいて
いい感じとして、いやな感じとして
ぼくの思考と感情に先行する
ひとつの訪れとして

知ることより深く、感じることより早く、
知ること感じることすべてを含んで
いまを、駆け抜けているものがいる

いつも、すでに、あらゆる場所で
ひとつのかたちを告げる

ことばを結ぶことの手前で、
「いま」を生き抜いている
もう一人のぼく、一人の他者がいる

 

「君が現象学者だったら、このカクテルについて語れるのだ。そしてそれが哲学なのだ」(レイモン・アロン)。サルトルは感動で青ざめた。――S・ボーヴォワール『女ざかり』朝吹他訳


いまフッサールが生きていたら、このレイモン・アロンの挑発的に次にように答えたかもしれない。

「人間は徹頭徹尾、主観的な存在である」――これがすべての出発点である。
ぼくは決してぼくの主観の外に出ることはできない。
ぼくはきみの主観を内側から経験することは決してありえない。

ぼくが見る空ときみが見る空が同じであることを証明することはできない。
このことは、原理的である。

ところがぼくたちの主観は、この原理を裏切る〝信憑〟を抱きながら生きている。
「ぼくはきみのことを心から理解する」
そうなのだ。ぼくはぼくの主観を超えて、きみの主観に潜入できると信じられている。

このことは、さらに一般化することができる。
ぼくの外に、ぼくを超えて、世界は、客観的に、実在している。
ぼくたちは正しい方法と認識を用いさえすれば、いつか必ずそこに至ることができる、と。

つまり、徹底的に主観的な存在でありながら、そのことを知っているにもかかわらず、
ぼくたちはそれを離脱できる存在である、そんな〝信憑〟が成立しているのだ。

ぼくたちの生がつねにそこから出発し、そして帰還しつづけている場所がある。
この往還は一つの〝確信〟のかたち、人間の認識内部で生起する思考のマジカルな往還でもある。

人間はみずからが「客観的」であり、「真理のそばにいる」と信じることができる。
「それは主観的だ。もっと客観的であるべきだ」と言明できるのも、
こうした、この確信の構造に由来している。

人間の歴史は、信憑された「客観」や「真実」や「絶対」をめぐり、
それぞれの「正当性」を主張しあうことで血なまぐさい闘争を繰り返してきた。

もちろん負の歴史ばかりではない。信憑された「客観」や「真実」や「絶対」をめぐり、
人間と人間のつながりが生まれ、奇跡のような愛や融和の関係の結節を結ぶこともある。

なぜだろうか。

さしあたり問題は、歴史に刻まれつづける人間と人間の関係における負の決算だ。
主観であるほかない者たちが「みずから信じる真理と正当性」を強弁し、
全否定の感情に担われ、無慈悲な罵倒と暴力、血で血を洗う争い、殺戮の歴史を繰り返していく。

そのとき、人間はいつも「客観=正しさ=真理」という主題を、
みずからの側の「確信」として置いていた。

相互に「「客観=正しさ=真理=絶対」をいいつのり、相互に否定しあう――
これまで繰りかえされてきた歴史が事実から、一つの設問が動いていたことがわかる。

「世界は普遍的な法則と秩序のもとで〝客観的〟に存在している」――
この客観=真理にだれがいちばん近く、それを知る者は一体だれなのか。

それは、わたしであり、わたしの仲間たちであり、わたしたちの王であり神である、と。

ぼくたちは自然な生活感情をみずからの底に埋め込みながら、
それぞれの生活にふさわしい確信、信仰に等しい信念を抱きながら生きているらしい。

いま、このレストランでボクはキミとテーブルを囲んでいる。
淡紅色の液体が入ったカクテルグラスが照明の光に輝いている。

テーブルの上のカクテルグラスは、ぼくにとっても、キミにとっても、
唯一同一のモノとして〝客観的に〟存在している――
というぼくに内在する確信は、ぼくの自由にならない原的な事実としてぼくの意識を訪れている。

この透明な確信は、一寸の疑いようもなく、
ぼくの主観の外に「カクテルグラス(客観世界)が実在する」と告げている。

「客観としての世界」――それはさまざまな形式において人間を訪れている。
これまで一度もアメリカという国を訪れたことのない人間も、
「アメリカは存在する」という事実を疑うことなく暮らしている。

カクテルグラスもシロナガスクジラもエボラウイルスもブラックホールも、
そして自然全体もそれぞれの強度において客観的に存在している――

ぼくたちの世界像を構成する無数のアイテムの実在について、
ぼくの意識はすでに主題化を完了させ自明性の海に沈めている。

訪れとしての世界――それは疑いようもない〝事実〟としてぼくに現象する。

ぼくがカクテルグラスを見つめているときも眼をそらしたときも、
カクテルグラスが存在しつづけるというぼくの確信は揺るがない。

知覚や直観をとおして告げられる世界の色合いや意味について、
ぼくの意識に訪れるメッセージはボクの勝手な恣意ではない――

ぼくの〝自由にならない〟そうした確信の構造の由来と理由を問えば、
人間が世界で生きるための必然であり、あたりまえ前提でもあるようだ。

ぼくの自由にならない、「世界の訪れ」はぼくに世界の実在を告げる。
本当は幻や夢ではないかと無理やり疑念を抱こうとしても、
それを振り切るように〝カクテルグラスの実在の意識〟は、ぼくの心を占領してしまう。

世界はいつもぼくを訪れる。その訪れは「主観の外にグラスは客観的に存在する」と告げ、
グラスを含む広大な世界と宇宙の実在を疑いえない事実として告げている。

そうなのだ。たしかにぼくは疑いようもなく〈世界〉を経験している。

――しかし、ほんとうにぼくの外に〝このカクテルグラス〟は存在しているだろうか?
――ほんとうは逆向きに考えるべきではないのか。
――客観としての世界=真実とはひとつの〝信憑〟
――つまり人間の主観の内側で、あまねく現象する物語のことではないのか。

そう考えることが現象学者としてのぼくの出発点だ。
ここから、人間にとっての〝経験としての世界〟を記述していくことがぼくの仕事になった。
そしてここから、人間のエピステもロジーに根本的な修正がもたらされるはずだ、
という信憑が、ずっとぼくを訪れてつづけている。

 

コメント

最後のコスモス

2014-10-27 | Weblog


【SOCCER21~ゲームとルールの本質】


伝統的に存続してきたゲーム、そしてゲームを構成するルールや概念は、
人間の歴史が試行錯誤のすえに鍛え上げてきた知恵がささえている。


サッカーが世界のスポーツとして君臨する背景には、
一つの決定的な発明――「オフサイド」というルールの誕生がある。

仮に「オフサイド」というルールが消えると、
攻撃面においては、パスを受ける禁忌のエリアが消滅してゴール前は「普遍闘争」状態になる。
守備面においては、ラインコントロールという戦術が意味を失い、同じくゴール前は「普遍闘争」状態になる。
すべからく最終ラインというをめぐる攻防が消え、サッカーというゲームのもつ駆け引きの醍醐味や味わい、
ひいてはゴールするスリルや歓喜、すべてのプレーを意味づける期待の強度も限りなく減衰することになる。

同じく、民主主義が政治ゲームの黄金律として君臨する背景には、
一つの決定的な発明――「人権」という概念の誕生がある。

仮に「人権」という概念が消えると、
政治ゲームは数と暴力の強度を争う、むき出しのパワーゲームが展開する可能性がめざめる。
恣意的なルール解釈と設定、手段を選ばない勝てば官軍の力の論理による正当化がまかり通り、
敵と味方という二分された陣地をめぐる対峙は、血で血を洗う「普遍闘争」状態を招来することになる。

ゲームの世界においてそれぞれのゲームにはそれぞれに多様な存続の理由や根拠がある。
しかし共通する本質を問えば、それは人間にとって「生の享受」という一点に集約することができる。
「生の享受」は、プレーヤーそれぞれの「自由」を本質として、
一人一人の能力の「ありうる」をめがける試行可能性が支えている。

すべてのゲームに参加するすべてのプレーヤーが、おのれの可能性においてトライ&エラーをくりかえし、
そのことで生を楽しみ、歓びとするフィールドを確保すること――
そこにゲームに記述された「ルール」や「概念」の存在理由がある。

「ルール」や「概念」は、ゲームに参加するプレーヤーたちの相互的な了解と合意から生成する。
そこには、ゲームに参加するすべての人間とともにわかちあう共通の願いや希望が存在している。
もしルールがその願いや希望にそぐわないものであれば、新たな合意に基づいて書き換え可能であること。
また、よりよきフィールドの形成のために、新たなルールの発明に開かれていること。
そこにも、ゲームとルールの本質に内在する大事な格律がある。

サッカーでは参加者全員の合意(一般意志)に基づく共通ルール、プレーヤーの自由と相互承認が確立している。
敵/味方にわかれて競技しあう以前に、相互的なリスペクト、ルールにもとづくフェアネスの尊重、
つまりは、一つのゲームに参加しているという共有されたメンバーシップが確立している。

このメンバーシップは、ゲームおよびそのルールの意味と本質をとらえる再帰的なまなざし、
つまりはゲームの存続を維持するという意思と終わりのないメンテナンスの実践によって支えられている。

 

コメント

「新しい朝」

2014-10-23 | Weblog


*フッサール『現象学の理念』(立松弘孝訳)から

主体にとって「見えている世界」「味わわれている世界」、
その現われそのものが世界へ向けられるのまなざしの特性と相即している。

いま、世界がどう現われているのか、どう意味づけられ価値づけられているのか。
みずからに訪れている世界の姿(=フッサール「このこれ」)それ自体が、
みずからの「世界観」をみずからにプレゼンテーションしている。

あるモノものやある事象を「うつくしい」と感じる、「みにくい」と感じる。
そう感じること、そのこと自体は疑えない出来事=〝わたしの体験〟として〝わたし〟を訪れる。

〝わたしの体験〟として〝わたし〟を訪れ、開示される世界――、
それが〝わたし〟にとっての〝経験としての世界〟の起点でありつづけている。

「そう感じる」ということそのこと自体は、〝わたしの自由にならない〟。
そのことは存在の被拘束性として捉えることも可能だが、
ただし、拘束性と捉えることそれ自体も、体験としての世界に後続する思考に因る。

世界の訪れ、その現われ自体の意味を考える、あるいは真偽を問う、
といった内省する心は体験としての世界の訪れののちに動きはじめる。

「冷たい感じがする」「温かい感じがする」「暗くて重い」「華やいでいる」

世界はさまざまな感触、色合いに変化する。人や自然との関係の意識も日々変化していく。
その変化していくパターンやリズムも同じく、みずからのまなざしの変化と相即している。

「しかたがないな」と思う、「そうじゃないだろ」と思う。

言葉を尽くす。言葉をひかえる。行為を組み立てる。行為をためらう。
それらすべてが一つの行為=〝わたし〟の姿を、〝わたし〟にプレゼンテーションしている。


こうした「世界の現われ」は、ただちに〝あなた(たち)〟と関係する位相へ持ちこまれていく。
〝わたし〟が考える〝わたし〟を含む〝あなた(たち)〟がつくる〈世界〉は、
〝わたし〟にとっての「世界」とは別の位相にある、という〝わたし〟の信憑によって成立している。

〝わたし〟=主観内に生成する〝わたし〟と〝あなた(たち)〟という観念的差異が、
〝わたし〟の思考を主観の内部に閉じることを不可能にしていると同時に、
〝わたし〟の思考をとめどなく駆動させる構造として機能している。

哲学の世界ではこの事態から、人間という存在のあり方を「共存在」「関係存在」と呼び、
あるいはそうした位相を「共同主観性」「間主観性」と呼んでいる。

そして、こうした理解の仕方からどんな「理解のポーナス」が得られるのか――
あるいは現在における認識(論)にどんな修正がもたらされるのか――
フッサールが提示する「思考の原理」の先にそうした問いが接続されていく。

コメント

「ゲームの多様性と多数性」

2014-10-08 | Weblog


ゲームの多様性と多数性において、関係はさまざまに遷移していく――

野球では敵と味方でも、サッカーではチームメイトであることもある。
サポーターや審判、あるいはゲームの外にいる部外者でもありうる。

サッカーと野球、同時に二つのゲームを営むことはできない。
しかしゲームの多様性と多数性において、時間軸上ではさまざまに関係は交差していく。

時間を引き伸ばして「永遠の相の下」に世界をみれば、(人間の生の時間にとっては〝超越的〟)、
すべては交わりあい作用しあう一つのゲーム(世界というゲーム)が〝幻視〟されうる。

この時間軸に対する認知が消えると、人間はいまここにおけるゲームの推移・動向のなかでのみ、
みずからの生の意味・価値を見出すしかなくなる(「関係の絶対性」)。

この「関係の絶対性」を少しでも離脱するには、ゲームの「時間スケール」を多元化し、
ゲームを多様化・多数かすること、そして同時に、
ゲームの多様性・多数性をキープするという「意識的な営為」が必要になる。

それは〈世界〉の多様性・多数性=そこから引き出せる豊かさの可能性に開かれること、
さらにゲームの豊かさを創発するみずからの可能性を開くことでもある。

 

 

コメント

「外交の基本」(twitter)

2014-10-03 | twitter


  生活のコンテキストの学習は、
  一個の生物の中で論じられるものではなく、
  二個の生物間の外的な関係として論じなければならない。
  そして関係とは常に、二重記述の産物である。
 
  相互作用に関わる二者は、いわば左右の眼だと言ってよい。
  それぞれが単眼視覚を持ち寄って、奥行きのある両眼視覚を作る。
  この両眼視野こそが関係なのである。
  この発想に立つことは、大きな進歩である。
 
             ――G・ベイトソン『精神と自然』佐藤良明訳


近づきすぎず、離れすぎず、正義を僭称せず、悪を押し付けない。
関係を固定せず、相互の差異を殺さない礼節あるへだたりと、
自由の相互的な承認において作用しあい、
つねに新たな関係がそこから創発する「交渉のテーブル」をキープしつづける。

「変化」(新たな〝ありうる〟)の契機は、その用意を整える意思と環境を必要とする。
二重記述される「関係」が変化するには、単眼視覚へのこだわりをカッコに入れ、
左右の眼どちらにも帰属しない「両眼視野」という発想において、
さらに多重化されていく新たな記述可能性へ開かれていなければならない。

 

 

コメント

2014 「バンザイ・マジック ―― Ⅰ」

2014-10-01 | Weblog


ふたつの演算装置(第一原因)は同列に作動することはできない。
ふたつのゲームを同時にすることはできない。

「あれか、これか」。生存を駆動するCPUとしてどちらを選ぶか――
この選択可能性は人間にそなわる「意識の自由」という原理に由来する。

仮に、外付けの演算装置に接続して依存すれば、
みずからの演算機能は凍結状態に置かれる。

「みんな=帰属集団」が主語(第一人称)として生きられると、
第一原因はすべて「みんな=帰属集団」にあり、
そして、行為の原因とその帰結を個人が負うことはない。

外部的な接続先を変更してもこの凍結状態は解除されない。
この定常性は倫理ではほどくことができない。

なぜか。そこには一つの「全円性」が生きられるからということができる。
つまり、〈世界〉への適応課題において必要な形式上のフルユニットが満たされる。

「みんな」の範囲は全生存をカバーすることはない――
「みんな」という設定はつねに「みんな以外」という境界線を引く。

コメント