「我れ思う、なんて言うのは誤りです。他人が吾れについて考える、と言うべきです。
地口を言っているようで御免下さい。『我れ』は一個の他者であります」
(アルチュール・ランボー、恩師J・イザンバール宛の手紙/平井啓之訳)
なぜ、なんのために
いま、ここで
こうして、ぼくは存在しているのか――
問うことの手前に
すでに
地平は開かれ
情動は走り
ことばはおくれて
かたちを結んでいく
気づくより早く
かんがえること
問うことに先んじて
ぼくのまえに
「いま」を生き
「いま」を告げるものがいる
いまここに
こうしてあるという感触は
つねに、すでに
あらゆる場面で、
ぼくに先行してぼくに告げられる
それは一つの訪れとして
いま、ここに
こうしてあることの
かたちと意味を告げる
世界は存在し、たしかに生きられている――
透きとおった確信のかたちにおいて
いい感じとして、いやな感じとして
ぼくの思考と感情に先行する
ひとつの訪れとして
知ることより深く、感じることより早く、
知ること感じることすべてを含んで
いまを、駆け抜けているものがいる
いつも、すでに、あらゆる場所で
ひとつのかたちを告げる
ことばを結ぶことの手前で、
「いま」を生き抜いている
もう一人のぼく、一人の他者がいる
「君が現象学者だったら、このカクテルについて語れるのだ。そしてそれが哲学なのだ」(レイモン・アロン)。サルトルは感動で青ざめた。――S・ボーヴォワール『女ざかり』朝吹他訳
いまフッサールが生きていたら、このレイモン・アロンの挑発的に次にように答えたかもしれない。
「人間は徹頭徹尾、主観的な存在である」――これがすべての出発点である。
ぼくは決してぼくの主観の外に出ることはできない。
ぼくはきみの主観を内側から経験することは決してありえない。
ぼくが見る空ときみが見る空が同じであることを証明することはできない。
このことは、原理的である。
ところがぼくたちの主観は、この原理を裏切る〝信憑〟を抱きながら生きている。
「ぼくはきみのことを心から理解する」
そうなのだ。ぼくはぼくの主観を超えて、きみの主観に潜入できると信じられている。
このことは、さらに一般化することができる。
ぼくの外に、ぼくを超えて、世界は、客観的に、実在している。
ぼくたちは正しい方法と認識を用いさえすれば、いつか必ずそこに至ることができる、と。
つまり、徹底的に主観的な存在でありながら、そのことを知っているにもかかわらず、
ぼくたちはそれを離脱できる存在である、そんな〝信憑〟が成立しているのだ。
ぼくたちの生がつねにそこから出発し、そして帰還しつづけている場所がある。
この往還は一つの〝確信〟のかたち、人間の認識内部で生起する思考のマジカルな往還でもある。
人間はみずからが「客観的」であり、「真理のそばにいる」と信じることができる。
「それは主観的だ。もっと客観的であるべきだ」と言明できるのも、
こうした、この確信の構造に由来している。
人間の歴史は、信憑された「客観」や「真実」や「絶対」をめぐり、
それぞれの「正当性」を主張しあうことで血なまぐさい闘争を繰り返してきた。
もちろん負の歴史ばかりではない。信憑された「客観」や「真実」や「絶対」をめぐり、
人間と人間のつながりが生まれ、奇跡のような愛や融和の関係の結節を結ぶこともある。
なぜだろうか。
さしあたり問題は、歴史に刻まれつづける人間と人間の関係における負の決算だ。
主観であるほかない者たちが「みずから信じる真理と正当性」を強弁し、
全否定の感情に担われ、無慈悲な罵倒と暴力、血で血を洗う争い、殺戮の歴史を繰り返していく。
そのとき、人間はいつも「客観=正しさ=真理」という主題を、
みずからの側の「確信」として置いていた。
相互に「「客観=正しさ=真理=絶対」をいいつのり、相互に否定しあう――
これまで繰りかえされてきた歴史が事実から、一つの設問が動いていたことがわかる。
「世界は普遍的な法則と秩序のもとで〝客観的〟に存在している」――
この客観=真理にだれがいちばん近く、それを知る者は一体だれなのか。
それは、わたしであり、わたしの仲間たちであり、わたしたちの王であり神である、と。
ぼくたちは自然な生活感情をみずからの底に埋め込みながら、
それぞれの生活にふさわしい確信、信仰に等しい信念を抱きながら生きているらしい。
いま、このレストランでボクはキミとテーブルを囲んでいる。
淡紅色の液体が入ったカクテルグラスが照明の光に輝いている。
テーブルの上のカクテルグラスは、ぼくにとっても、キミにとっても、
唯一同一のモノとして〝客観的に〟存在している――
というぼくに内在する確信は、ぼくの自由にならない原的な事実としてぼくの意識を訪れている。
この透明な確信は、一寸の疑いようもなく、
ぼくの主観の外に「カクテルグラス(客観世界)が実在する」と告げている。
「客観としての世界」――それはさまざまな形式において人間を訪れている。
これまで一度もアメリカという国を訪れたことのない人間も、
「アメリカは存在する」という事実を疑うことなく暮らしている。
カクテルグラスもシロナガスクジラもエボラウイルスもブラックホールも、
そして自然全体もそれぞれの強度において客観的に存在している――
ぼくたちの世界像を構成する無数のアイテムの実在について、
ぼくの意識はすでに主題化を完了させ自明性の海に沈めている。
訪れとしての世界――それは疑いようもない〝事実〟としてぼくに現象する。
ぼくがカクテルグラスを見つめているときも眼をそらしたときも、
カクテルグラスが存在しつづけるというぼくの確信は揺るがない。
知覚や直観をとおして告げられる世界の色合いや意味について、
ぼくの意識に訪れるメッセージはボクの勝手な恣意ではない――
ぼくの〝自由にならない〟そうした確信の構造の由来と理由を問えば、
人間が世界で生きるための必然であり、あたりまえ前提でもあるようだ。
ぼくの自由にならない、「世界の訪れ」はぼくに世界の実在を告げる。
本当は幻や夢ではないかと無理やり疑念を抱こうとしても、
それを振り切るように〝カクテルグラスの実在の意識〟は、ぼくの心を占領してしまう。
世界はいつもぼくを訪れる。その訪れは「主観の外にグラスは客観的に存在する」と告げ、
グラスを含む広大な世界と宇宙の実在を疑いえない事実として告げている。
そうなのだ。たしかにぼくは疑いようもなく〈世界〉を経験している。
――しかし、ほんとうにぼくの外に〝このカクテルグラス〟は存在しているだろうか?
――ほんとうは逆向きに考えるべきではないのか。
――客観としての世界=真実とはひとつの〝信憑〟
――つまり人間の主観の内側で、あまねく現象する物語のことではないのか。
そう考えることが現象学者としてのぼくの出発点だ。
ここから、人間にとっての〝経験としての世界〟を記述していくことがぼくの仕事になった。
そしてここから、人間のエピステもロジーに根本的な修正がもたらされるはずだ、
という信憑が、ずっとぼくを訪れてつづけている。