生まれ落ちる場所を選ぶことはできない。
そこは同時に拘束であり可能性でもある。
生誕は祝福でも呪いでも、幸運でも逆境でもありうる。
人生のピカピカのルーキーたちは、裸一貫、ただちに修業時代に入る。
終わりのない修業時代が開始される、ともいえる。
「快/不快」を分節するカラダが教える世界に訣かれを告げるように、
経験は新たな関係の位相へ転移させなければならない。
「言語ゲーム」が創成する〝世界〟へ。
日々、刻々と示される「この世」についてのガイダンスとオリエンテーション。
プレーの試行と新たな意味と価値との遭遇、状況判断とその連続的展開。プレー身体の変容。
公式、非公式の学習場としての日常の中で、
胸の内に収めていくべき多くのことがある。
修業は新鮮な驚きや歓びであるとともに巨大な労苦でもある。
そしてさまざまな「カミ」との出会い。ロマン、憧憬の触発。
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学習と変化。存在のフォーメーションを編み替える能力。
プレーヤーとして成熟する場、関係場としての言語ゲーム。
能力を十全に展開させるには条件がある。
どこで、どんな場所で、だれと、どんな関係において学ぶか。
「なにを学ぶか」ということ以上に、「どのように学ぶか」ということ。
学習エンジンはつねにこの二つを〝ダブルテイク〟していく。
関係の絶対性と関係の相対性。深く学ぶことと広く学ぶこと。
真、善、美。絶対化と相対化。生成として世界と事実として世界。
言語ゲームの展開は、生成としても事実としても展開していく。
学びのコンテクストの多様性と多数性。
そのすべてに目がとどくわけではない。
未知性、未規定性、不確実性へのかまえが、
身を浸したコンテクストの意味と価値をさまざまに変位させる。
一つの学びのコンテクストに深く埋め込まれ、〝コレが世界〟になると、
新たなコンテクストに移行したり踏み上がることができなくなる。
学習エンジンは多様な作動形式をもち、新たな作動形式を形成することもできる。
このポテンシャルを解発するように、あるいは刈り込むように言語ゲームが展開する。