MEDINT(医療通訳研究会)便り+

医療通訳だけでなく、広く在住外国人のコミュニケーション支援について考えていきます。

ドタキャンの理由

2007-01-31 00:00:00 | 通訳者のつぶやき
先週、ドタキャンする外国人患者の話を書きました。随分いい加減な人がいるのだなあと呆れた人もいるかもしれません。今週は、ドタキャンする立場の人の視点から書きます。実は、先週の話題は、こられない外国人患者の言い分についても皆さんに知って欲しいと書いたものだったのです。
意外とよくある理由に、通訳者をつれていけなかったからというのがあります。初診のときに「次回は絶対日本語の話せる人を連れてきてください」「通訳がいなかったら診ませんよ」といわれることがあります。そうすると患者としては、通訳の目途はないけれど、一応「はい」といって次回予約をとります。でも、病院は月~金の午前中とかなので、働いている家族や友達には頼めません。学校にいっている子供がいれば、子供を休ませて連れて行く人もいますが、教育熱心な親の場合子供を親の都合で休ませることに抵抗があります。通訳を見つけることができなくて、仕方なくドタキャンしてしまい、折角の治療の機会を逃して悪化させてしまうということがあるのです。平日昼間に通訳者を連れてくることが容易でないということをご理解いただき、通訳同行を診察の「絶対条件」にしないようにしていただければと思います。
もうひとつはお金の問題です。いくらくらいかかるのだろうという目途がたたないまま、たくさんの検査予約(特にMRIやCTなど)をされると、給料日まで持ち合わせがないことがあります。その場合は検査予約を断ることもできず、予約はとるもののお金が調達できなくてドタキャンということもありえます。この検査にいくらくらいかかるか、分割の支払いは可能か、またどうしても○○を調べるためには必要な検査なので、やっておかなくてはならないということを伝えてもらえれば、患者としてももう少し考えたかなと思うのです。
あと治療を日本で受けるか、帰国するのかを悩んでいて、結論が出ないまま診療日がきてしまったということもあるでしょう。外国人の場合、病気や治療に関しての情報が得にくい環境にあります。少ない情報に振り回されたり、民間療法に頼って治療が遅れることも少なくありません。
来ない人の中には、ルーズなだけでなく、いろんな思いを持った人も少なからずいます。もしかしたら・・・と少し思ってもらえれば、外国人医療の難しさを理解してもらえるかなと思います。


よい患者になること

2007-01-24 00:00:00 | 通訳者のつぶやき
先日の精神科医の阿部先生のお話のなかで、「中南米の人は、予約していても来ないことが多い。」というお話がありました。阿部先生はスペイン語をお話り、中南米人の患者さんも多いので慣れたという感じでお話していましたが、聞いていて私は頭を抱えてしまいました。
中南米の人は明るくて鷹揚なイメージが定着しています。サンバや太陽のイメージがあるのでしょうね。その分、約束や時間にルーズだと思われることもあります。ただ、日本に長い間暮らしていて、きちんと生活している中南米の人たちは、日本のルールに従って仕事も生活もしています。なので、時間についてもきちんと守る人がほとんどだと感じます。(もちろん、お祭りやフィエスタなどの遊びの時は別ですが。)中南米人だから時間にルーズだとはあまり思いません。ルーズな人はもともとルーズな人です。本国でもたぶんルーズに暮らしていたのでしょう。
ただ、私自身も中南米の田舎に住んでいて、待つ時はあまり気にしないという習慣がついています。バスを4時間待った(結局その日はこなかった)こともあるし、午後8時の約束でフィエスタに行く予定が、道がぬかるんで午前2時に誘いに来たということもありました。ただし、電話が家にないとか、時計がないとか、もちろん電気がないからテレビもないし、天気予報がないので突然雨が降って道がぬかるんで動けなくなるとかといったことが日常に起こり、予定時刻にいけなくなっても連絡のしようがなく、かといって本人に罪はないということも多いので、いらいら待つことをやめたというのが実情です。
しかし、現代の日本には公衆電話も携帯電話もあるし、時計だってどこにでもあります。一部の外国人患者が約束や予約を守らないことで、中南米の人はルーズというイメージがつくのは大変残念なことです。そういう患者さんには、日本人で約束を守らない人と同様に対処してもらいたいと思います。実は、外国人支援をしていて、だらしない外国人に甘い日本人に出会います。私はそういう人を見ると逆差別だなと不快な気持ちになります。むしろ、きちんと怒ってくれる人に好感を持ちます。差別せずに日本人と同じように扱ってくれているからです。
外国人医療を定着させるには、たくさんの難題があります。言葉や文化、制度の問題をクリアさせる前に、まずは患者も最低限のルールを守ることが大切な気がします。

震災の記憶

2007-01-17 00:00:00 | 通訳者のつぶやき
今日は阪神・淡路大震災から12年です。
震災が起こった時は外国人相談の仕事をはじめて2年。やっとなれてきた頃でした。
たぶん、今でもこの仕事を続けている理由は震災の時にできなかったことに対する後悔にあります。避難先から事務所にくるだけで3時間ちかくかかりました。気になることはたくさんあったけれど、訪ねてきてくれる外国人たちやかかってくる電話のために待っていることしかできませんでした。その中で大阪国際センターの相談員や当時活動していたRINKやAPTの人たち、神父さんからの情報や励ましはとても心強かったです。
しかし、震災後の外国人支援は直後よりも1年後、そして3年後といった後になればなるほど大変でした。一番大変だったのは、お金や住宅の問題もあるけれど不定愁訴や精神不安を繰り返す外国人被災者の人たちでした。耳が聞こえない。体がだるい。アルコール依存。避難所ストレス。日本人だけでなく、外国人被災者も同じような苦しみを抱えて暮らしていました。
私は被災から1年は、街と一緒に自分が生き残ったのかどうなのかわからない感覚に悩まされました。生き残ってよかったのかどうかもわかりませんでした。
医療通訳の制度化にむけての活動をはじめた動機のひとつとして、こうした災害の時でも一時的ではなく、恒常的に安心して医療が受けられる、一緒に暮らしていこうというメッセージを、在住外国人の人たちに伝えたいという思いがあります。


異業種交流の大切さ

2007-01-10 00:00:00 | 通訳者のつぶやき
今週の土曜日に「第14回びわ湖国際医療フォーラム(旧滋賀国際医療研究会)」が大津市で開催されます。僭越ながら今回は私が当番世話人にあたっていますので、宣伝もかねて少し紹介させてもらいますね。
このフォーラムの特徴は、国際医療・国際協力・在住外国人医療などの多岐にわたる分野の方々が一同に会して、研究成果を報告するところにあります。もちろん研究者や医師や看護師、保健師といった医療従事者が中心となっていますが、学生、青年海外協力隊OV、NGO/NPOや在住外国人まで、資格や肩書きでなく、同じ志をもった人々に広くフォーラムを開放していて、参加資格が必要ないというのがこのフォーラムのすばらしさです。これは主宰の井田先生のお人柄によるところがたぶんにあると思います。
このフォーラムができるまで、実は私達医療通訳NGOも医師と直接知り合う機会が非常に少なくて困っていました。ここでは、関西圏だけでなく様々な医療従事者・研究者の方々と知り合うことができますし、寄生虫やHIV、SARSといった日常ではなかなか知ることのできない医療知識を得ることができます。そしてなんといっても、特定の資格がなくてもこうした場所で発表できることが、これからの活動の自信につながります。このフォーラムに出会うことで在日外国人医療の輪が大きく広がったと思います。
私達の活動では、異業種の方の話をきちんと聞く機会が大切です。通訳者や外国人支援団体の間での交流は様々な機会に持つことができますが、医師や医療従事者、病院経営者(事務担当)、保健師、行政などの方々に会う機会は個人的な範囲に限られるのが現実です。
私がMEDINTを作ることができたのも、AMDA兵庫という医療者の団体が応援してくれたことが非常に大きいですし、対立ではなく対話の中で制度を生み出していくには、どうしてもそれぞれの分野の専門家が垣根を越えて集まって建前でなく本音で話し合う機会が不可欠です。今後、こうしたフォーラムが増えてくれればもっと交流が深まると思います。
今回、はじめて医師・研究者でない当番世話人ということで、重責をかんじつつ、このフォーラムのいいところを是非多くの方に知っていただきたいという思いから、及ばずながら一所懸命つとめたいと思います。
お正月明けの忙しい、また一番寒い時期でもありますが、少しでも多くの方にご参加いただけるとうれしいです。



新年のご挨拶2007

2007-01-03 00:00:00 | 通訳者のつぶやき
旧年中はお世話になりました。
本年も医療通訳研究会(MEDINT)をよろしくお願いいたします。

「格差社会」という嫌な言葉が2006年を象徴する言葉としてしばしば年末のテレビに登場しました。「格差」はもともとどんな社会にも存在するものだとは思いますが、それを開き直って認めてしまうというか奨励しているような姿勢になんとなく違和感を感じます。
「格差」の問題だけでなく、ここ数年戦後日本が築いてきた様々なよいものが少しずつ崩壊していく感じがしてなりません。愚直なまでの憲法9条への想い、技術協力を中心とした開発途上国との外交、まじめに働けば普通の生活ができる社会、謙譲の美徳、そして安全。何でもお金で解決してしまう社会や力でねじ伏せてしまう制度は、本来の日本にはなじみにくいのではないかと思うのですが、現実は逆の方向に進んでいるように思えてなりません。
私達の世代は、高度経済成長のレールが引かれた上を歩んできた世代です。しかし「多文化共生」は、これから私達自身が解決していかなければいけない課題です。外国から日本へやってきた人に日本的な社会の中で子供を育てたいといわれると、とてもうれしく感じますが、本当にそうした期待に沿える社会だろうかとも不安になります。愛国心は強要されるものではなく、そうした社会を一緒に築いていこうという心であり、そこには国籍や民族は関係ありません。「多文化共生」はこれからの日本社会の試金石となるでしょう。