MEDINT(医療通訳研究会)便り+

医療通訳だけでなく、広く在住外国人のコミュニケーション支援について考えていきます。

餅は餅屋に

2008-02-27 00:00:00 | 通訳者のつぶやき
MEDINTは4月はじまり3月終わりの年度制をとっているので、この時期にはあまり事業がありません。
来週末の英語上級講座が今年度最後の事業になり、4月からまた新しい年度がはじまります。皆さん、2007年度もお世話になりました。

MEDINTは毎年ひとつづつ、事業を増やすことを目標にしてきました。
今年は医療中国語と医療スペイン語の言語別分科会をAMDA兵庫県支部さんの援助で開催しました。
これからも一年にひとつづつ増やし続けていければいいなと思っています。

ただ、ひとつだけ、私自身必要性は感じているのに、どうしてもはじめることのできない講座がありました。
それは医療職向けユーザートレーニングです。
実は、MEDINTの講座を企画している私も事務局のIさんも通訳者で、今までは自分達が学びたい!、知りたい!(時にはこの講師に会いたい!)講座を中心にやってきたのですが、いわゆる医療職・看護職の方々のニーズはいちまちピンとこなかったのです。
なので、医療職ユーザー向けの講座は、語学講座以外1年ごとに先延ばしになって、本当は外国人医療の現場にいる看護職の方々にもっと仲間になってもらいたいと思っているのに事業展開が遅れてきました。

しかし、今年になって有力な助っ人達が現れてくれています。青年海外協力隊の帰国隊員や大学で国際母子保健を学んでいる看護学生の方々です。
今年度は彼らの視点で、必要な講座や研修を考えてもらおうと思っています。

よく考えれば、私がMEDINTの活動を始めるにあたって、いつまでも医療通訳ボランティアのために教えてあげる、最低限知っておくことといった講座ではなく、医療通訳のプロを意識した語学や医療のプロによる講座に参加したいという強い想いがありました。
それは司法通訳人協会の方々が弁護士を講師に招いて、実践の学習をしていかれた過程をまねようとしたものです。
だから、看護職の人たちにも、看護職者の視点から学びたいこと、聞きたいこと、話したい人を探してきてもらったほうが、面白い講座が組めると思うのです。
餅は餅屋にまかせて、外国人医療に関心の高い看護職の方々とのネットワークが広がればいいなと思っています。
是非、期待してください。



小さな政府 大きな政府

2008-02-20 00:00:00 | 通訳者のつぶやき
仕事をしていて、時々疑問に思うことがあります。

最近、指定管理者制度の導入で、図書館や体育館などの施設管理が次々と入札による民間への業務委託へと移行しています。

先日、大阪府の橋下知事は「83の府立施設のうち、中之島図書館(大阪市北区)と中央図書館(東大阪市)の2施設以外は不要」との発言をしました。

「民間でできることは民間で」のかけ声のもと、郵便局も民営化されました。

世の中は公共サービスを縮小し、どんどん小さな政府の方向に進んでいるように感じます。

でも、行政の窓口にいて、人々が昔に比べて公共サービスを必要としなくなったとはとても思えません。
今でも、ご近所トラブルから夫婦の問題、子供の教育、消費トラブル、生活苦など様々な問題が行政に持ち込まれ、対処を迫られています。
昔、家族やご近所や友達同士で解決してきた問題も行政や公の場所に持ち込まれます。
また、若い世代にとっては快適な道路や公衆トイレ、公共施設、安全な水など自分で努力しなくても手に入る環境です。
こうしたものは、空気のように公共サービスによって支えられてきました。
民間が参入して儲けの出ないもの、効率が悪く参入したくない場所には、特に必要です。
知り合いの社会福祉協議会の人に聞いたのですが、介護事業に民間が参入して以降、比較的元気な経度の方のお世話は民間がやるけど、独居、痴呆など問題の多い方は取り残されるというお話をされていました。

極端なことを言えば、人々や日本の経済が元気なときには公共サービスなんていらないのかもしれません。
でも、運悪く生活が立ちいかなくなることは誰にでもあります。
そんなときにきちんと守ってくれるセーフティーネットとしての行政機能があるから、私たちは安心して暮らしていけるのではないでしょうか。
公共サービスを何でもかんでも悪者扱いして手放してはならないと思っています。

パブリックサービスとしての母語通訳にしても同じなのです。
外国人の場合も、元気なときや仕事や日常では、日本語をできるだけ使うほうが生活しやすいと思います。
みなさん、仕事を探したり、買い物に行く時は日本語で十分会話されています。
でも、病気になったり、犯罪に巻き込まれたり、仕事先で労災になったり、買った商品が詐欺まがいだったり・・・といった努力だけでは理解しづらい状況になったときにこそ、母語での通訳が必要なのです。
私たちは、医療をはじめとしたこの部分の母語支援を制度化したいと考えています。

公共サービスに頼らない、コミュニティの力でやっていくというのはとても大切なことです。
何も考えず全部行政がやってくれるいう状況もいいとは思いません。
でも、最後のセーフティネットの役割を担う公共サービスについては、一度手放してしまうと、再び手にするのは難しいということを肝に銘じておかなければいけないと思います。



「様子を見ましょう」を訳す

2008-02-13 00:00:00 | 通訳者のつぶやき
1月の医療通訳講座で井田先生が「様子を見ましょうという言葉は意外と訳しにくいが大切」といわれました。たしかに、この様子を見ましょうという言葉は上手に訳さないと大変なことになります。

「ほうっておきましょう」と訳すと、病気ではないと診断されたし、この医師はこれだけ痛いのに何もしてくれないと患者は失望。もっとなにか治療をしてくれる病院を探そうと思います。

「観察しておきましょう」と訳すと、経過は観察するが、病気ではないようなので、我慢するか他の医者に行ってしまう。

「病気ではないとはいえません。注意が必要です。何か気になることがあったらすぐに病院に連絡して医師の診断を仰いでください」最低限でも、ここまで言ってこ本当の意味が訳せる気がします。医師にいわせるともっとたくさんの意味を含んでいるのかもしれません。

去年「KY」という言葉が流行語になりました。「空気を読めない」という意味らしいのですが、通訳からしてみればとんでもない話です。本来説明責任は言葉を発する人にあります。「様子をみましょう」の中にどのような意味が含まれているかの説明は通訳者に任せるのではなく、説明する人がきちんと日本語にして伝えるべきです。自分がきちんと言葉を尽くして説明せずに周りの状況を見て対応するように強要する社会は怖いし、「空気が読めない人」の責任にされては困りますね。
日本社会でのコミュニケーションは「言葉を読む」ことを要求する場面が多々あります。「言葉にはしないけれど、この言葉の意味を理解していいようにやってください」という意味です。ただ、通訳を通してしまうと、「言葉にはしないけれど・・・」の部分が人によっては伝わらないことがあります。通訳を使う場合や異文化間の伝達の場合は、面倒でもきちんと言葉にしたほうが伝わります。
また、同行通訳の場合は表情やジェスチャー、声の高低など、言葉以外の伝達手段がありますが、電話や遠隔通訳ではそうしたものも使えず、言葉のみを伝えることになり、より言葉での伝達比重が高くなります。

家で「あ、あれやけど、どないなったかな。そうそう、それそれ」という会話をしている私も、えらそうなことは言えませんが(笑)

ボランティア

2008-02-06 00:00:00 | 通訳者のつぶやき
医療通訳をはじめとする外国人の日常を支援する通訳がボランティアといわれ始めたのはいつごろからだったのでしょうか?

少なくとも阪神・淡路大震災以前は、外国人支援活動をしている通訳者の数は非常に限られていました。だから、外国人の友人か、領事館、国際交流協会の人など、なんとなくわかったようでよくわからない人(ちょっとうさんくさい)と認識されていたような気がします。確かに英語以外の言語のバイリンガルは外大の出身者かネイティブで日本に長くいる人、もっと少数言語は駐在員か協力隊帰りと相場が決まっていましたから。なのでわざわざボランティアさんと呼ばれることもありませんでした。

震災以降、マスコミなどで対人支援活動をするボランティアがクローズアップされるにつれて、国内NGOやNPOの数も増えました。その頃から、人助け=ボランティアという構図が定着してきたような気がします。
私は一貫して団体職員の立場で仕事をしていたのですが、何度もボランティアと間違われました。そのたびに「これはボランティアではなくて仕事でやっています。それも皆さんの税金でやっている仕事なので、遠慮なく使ってください。」といい続けました。それでも、あまり間違われるので、いい加減訂正するのに疲れてしまったことがあります。

司法通訳や医療通訳がクローズアップされるようになってきて、こうした通訳者の中にはプロもいるし、専門性を重視するためにはプロが入れる制度にしなければいけないという認識が少しずつ浸透しつつありますが、それでもボランティア信仰はなかなか抜けてくれません。
ただ、一度あるNGOのシンポジウムに参加したときに、あるボランティアの人が「私は通訳に自信がないので、ボランティアでいいんです。お金をもらうほどではないので」と発言されたのに驚きました。たぶん優秀な方で、謙遜されていってらっしゃるのだと思いますが、本当に通訳の力がないのに診療の通訳をしているとなると大変なことです。実は私も、自信がないとき「ボランティアだから」と言い訳したことがあります。その時はお金を受け取れませんでしたが、そんな人間が一緒に診察室に入ってよかったのか反省しました。

もちろん誰からも交通費をもらえなかったり、いいように病院に使われて自嘲気味にボランティアという言葉を使ったことも一度や二度ではありません。ただ、最近は未熟さの言い訳にボランティアという言葉を使うまいと心に決めています。

また、ボランティアという言葉の中に、友人知人との線引きがはっきりしないため、守秘義務があいまいになるという問題点が多く見受けられます。仕事で受けたのであれば、絶対症例を別の場所で話すことはありませんが、友人の立場だとうっかり噂話してしまったりという場面も見受けられます。

ボランティアは崇高な志のもとに成り立っており、とても大切な心のあり方だと思います。ただ「医療通訳は、ボランティアであっても、アマチュアではいけない」ということは忘れないようにしたいと思っています。