全く日本語のできない患者さんよりも、日本語が少しできる患者さんにトラブルが多いことは、意外と知られていないかもしれません。
全く日本語のできない人には通訳が必要だということは、誰の眼にも明らかです。その場合、医療関係者で言葉のできる人を探してきたり、両者ともに英語ができれば共通語の英語を使うという努力をしようとします。言葉が通じにくいと、患者が外国人であることが常に頭の隅にあるので、わかりやすい説明をこころがけます。日本の習慣や制度がわかりにくいだろうという配慮も自然とするようになるから不思議です。
でも、少し日本語がわかる(日常会話ができる)となると、日本人は容赦なく日本語を使います。「あー、日本語わかりますね。よかった。」の安堵とともに、とたんに医療用語に方言や専門用語が入ります。私達日本語ネイティブでもきついのに、速い速度での言葉がシャワーのように降ってきます。
それでも、「先生、わかりません」といえる人はいいのです。問題は、わかりませんと言えない人たちです。とても遠慮がちな人や内向的な人で先生にわからないといえない人は、笑顔でうなづいていることがあります。わかったと思って、話は進んでいきますが、本人は実は理解できていません。でも、「わかりましたか」「はい」といわれると、そこで説明責任は終わっています。わからないけれど、「わかりました」と答えてしまった患者の責任です。そういう人が、後から病院に電話をかけて自分の病気の内容を聞いてほしいということがあるのですが、病院の外にでてしまっていると、電話だけでは病状の説明はしてもらえません。個人情報保護法ができてからは、それが一層厳しくなりました。ご本人にはせめて病院内から電話をかけてもらえれば、看護師さんや担当のかたから様子が聞けるのですが、皆さん忙しくされているので、遠慮してしまうようです。結局、次に通訳に入ると「そんなことも理解できていなかったのか」と驚かれることもあります。幸い、大きなトラブルになったことは今までありませんが。
日常会話ができるということと、医療の現場の日本語がわかるということにはかなりのレベル差があります。日常会話がベラベラの人でも、この人どのへんまでわかっているかなと、少し気にしながら話してくださいませんか。
日常の日本語がうまい人ほど、実は心配なのです。
全く日本語のできない人には通訳が必要だということは、誰の眼にも明らかです。その場合、医療関係者で言葉のできる人を探してきたり、両者ともに英語ができれば共通語の英語を使うという努力をしようとします。言葉が通じにくいと、患者が外国人であることが常に頭の隅にあるので、わかりやすい説明をこころがけます。日本の習慣や制度がわかりにくいだろうという配慮も自然とするようになるから不思議です。
でも、少し日本語がわかる(日常会話ができる)となると、日本人は容赦なく日本語を使います。「あー、日本語わかりますね。よかった。」の安堵とともに、とたんに医療用語に方言や専門用語が入ります。私達日本語ネイティブでもきついのに、速い速度での言葉がシャワーのように降ってきます。
それでも、「先生、わかりません」といえる人はいいのです。問題は、わかりませんと言えない人たちです。とても遠慮がちな人や内向的な人で先生にわからないといえない人は、笑顔でうなづいていることがあります。わかったと思って、話は進んでいきますが、本人は実は理解できていません。でも、「わかりましたか」「はい」といわれると、そこで説明責任は終わっています。わからないけれど、「わかりました」と答えてしまった患者の責任です。そういう人が、後から病院に電話をかけて自分の病気の内容を聞いてほしいということがあるのですが、病院の外にでてしまっていると、電話だけでは病状の説明はしてもらえません。個人情報保護法ができてからは、それが一層厳しくなりました。ご本人にはせめて病院内から電話をかけてもらえれば、看護師さんや担当のかたから様子が聞けるのですが、皆さん忙しくされているので、遠慮してしまうようです。結局、次に通訳に入ると「そんなことも理解できていなかったのか」と驚かれることもあります。幸い、大きなトラブルになったことは今までありませんが。
日常会話ができるということと、医療の現場の日本語がわかるということにはかなりのレベル差があります。日常会話がベラベラの人でも、この人どのへんまでわかっているかなと、少し気にしながら話してくださいませんか。
日常の日本語がうまい人ほど、実は心配なのです。