先週末は東京へ行きました。
HIV・AIDS患者を支援している団体SHARE(シェア)=国際保健協力市民の会が主催する「外国人支援団体・NGO会議」に参加するためです。そこでHIV/AIDS外国人患者の支援現場の第一線で活躍をされている皆さんにお会いできました。
皆さん、とてもハートの温かい方々で、外国人支援・通訳の問題も状況もよくわかっていらして、密度の濃い話をうかがうことができました。
自分の現場にこもっていないで、いろんなところに出かけていって人に会い話を聞くことの大切さを実感しました。
ところで最近、「医療通訳者は患者のこころのケアまで踏み込むか」という課題について考えています。通訳の専門性が高いほど、自分の意見や感情を入れない正確な通訳が求められます。
アメリカの医療通訳倫理では、原則通訳者は「ケア」には踏み込まないとしています。医師や看護師の話すことを100%通訳して患者に伝えることが医療通訳者の役目です。
もちろん、正しい「通訳」は大前提ですが、でもどうしても私は医療通訳者にはそれにプラスアルファが必要なのではないかと感じています。
医療通訳研究会では、昨年兵庫県ヒューマンケアセンターの研究助成を受けて、医療通訳者の二次受傷に関する研究をしました。この研究を通して全国各地の通訳者にインタビューさせていただきました。そのお人柄や仕事内容に触れるにつれ、まだ制度化されていないこの仕事を支えるのは「支援」の気持ちであることを痛感します。
しかし、中には自分の意見を入れてしまったり、自分の言葉で医師に質問してしまう倫理規定違反も少なからず見受けられました。それは個人の能力の問題ではなく、医療通訳者としての訓練や研修を受ける機会がなかったり、他の人の技法を学ぶチャンスがなかったりして仕方がないことだとも思います。
でも、皆さんはご存知でしょうか。患者さんに人気のある通訳者は必ずしも倫理規定どおりの通訳者でないことを。
医療通訳者には限界があります。それは患者の「家族や友人ではない」ことです。いつも医療通訳者は人間としてもっと何かできたのではないかと悔やんでいます。ベテランの通訳で「私は医療はやらない」という人を何人も知っています。これは、この難しさと怖さを知っているがゆえに医療通訳はやらないという決意なのです。この大きなジレンマは今後「報酬」の問題と一緒に考えていかなければいけないことだと思います。
HIV・AIDS患者を支援している団体SHARE(シェア)=国際保健協力市民の会が主催する「外国人支援団体・NGO会議」に参加するためです。そこでHIV/AIDS外国人患者の支援現場の第一線で活躍をされている皆さんにお会いできました。
皆さん、とてもハートの温かい方々で、外国人支援・通訳の問題も状況もよくわかっていらして、密度の濃い話をうかがうことができました。
自分の現場にこもっていないで、いろんなところに出かけていって人に会い話を聞くことの大切さを実感しました。
ところで最近、「医療通訳者は患者のこころのケアまで踏み込むか」という課題について考えています。通訳の専門性が高いほど、自分の意見や感情を入れない正確な通訳が求められます。
アメリカの医療通訳倫理では、原則通訳者は「ケア」には踏み込まないとしています。医師や看護師の話すことを100%通訳して患者に伝えることが医療通訳者の役目です。
もちろん、正しい「通訳」は大前提ですが、でもどうしても私は医療通訳者にはそれにプラスアルファが必要なのではないかと感じています。
医療通訳研究会では、昨年兵庫県ヒューマンケアセンターの研究助成を受けて、医療通訳者の二次受傷に関する研究をしました。この研究を通して全国各地の通訳者にインタビューさせていただきました。そのお人柄や仕事内容に触れるにつれ、まだ制度化されていないこの仕事を支えるのは「支援」の気持ちであることを痛感します。
しかし、中には自分の意見を入れてしまったり、自分の言葉で医師に質問してしまう倫理規定違反も少なからず見受けられました。それは個人の能力の問題ではなく、医療通訳者としての訓練や研修を受ける機会がなかったり、他の人の技法を学ぶチャンスがなかったりして仕方がないことだとも思います。
でも、皆さんはご存知でしょうか。患者さんに人気のある通訳者は必ずしも倫理規定どおりの通訳者でないことを。
医療通訳者には限界があります。それは患者の「家族や友人ではない」ことです。いつも医療通訳者は人間としてもっと何かできたのではないかと悔やんでいます。ベテランの通訳で「私は医療はやらない」という人を何人も知っています。これは、この難しさと怖さを知っているがゆえに医療通訳はやらないという決意なのです。この大きなジレンマは今後「報酬」の問題と一緒に考えていかなければいけないことだと思います。