私は中老男である。
まだ梅雨に入っていないらしい。
我が地域は特に梅雨のことは、いい加減に扱われる。
入っていてもいなくても。
ただただ。。。。。。
「蒸し暑い!」
閑話休題。
あまりないことなのだが。
ホームページのヘッドラインにあった記事に反応することにした。
ある地方都市の「消防団」の行事で「寄付を強要」している。というような内容だった。(詳細分からずすいません)
そうした記事にかなり多くのコメントがあった。
そのコメントをざっと読んだ中で、消防団というモノにたいして「郷愁を含めて」Upしたいと思う。
私も地域の消防団に通算8年ほど在籍し部長も歴任させてもらった。
20代後半から30台半ばまで。
昭和の終わりから平成の始めにかけてのことである。
30年近くも前の話。
今や「公的(パブリック)」という価値観は「個人的(パーソナル)」の前には「制約」とか「めんどくさいこと」くらいの意味しか無くなっている・・・・のだろうか?
消防団という組織自体が、もしかすると日本にしかないとか?
日本の住宅事情が世界的に珍しい「木」でできていたことで「火事」という災害に対する意識が異常なほど敏感な国民が出来上がった。
江戸時代の「火消組」などは、ある種「粋で鯔背(いなせ)」の代名詞でありあこがれの存在でもあったらしい。(もっとも、半グレ的なイメージも否めないのだが)
とにかく火事というモノが今も昔も庶民にとって一番「身近にある災害」である。
記憶に新しいのが我が地域での上越地方「糸魚川大火」が思い浮かぶ。
2016年の年末、ラーメン店から出火し折しもの強風にあおられ147棟(全焼120棟・半焼5棟・部分焼22棟。床面積3万412平方メートル)を含む約4万平方メートルが焼損した。
約30時間火事が続いたのである。
先程の記事におけるコメントの中で、私が一番多いと感じたコメントは。
「行政における専門消防を充実させて、消防団は解散で良い」というニュアンスのコメント。
「ポンプ操法大会および、その練習など時間のムダ!」というようなコメントも多かった。
「その大会に参加するための練習とその後の慰労等々がウザい」も。
そのすべてが「パブリック」と「パーソナル」の確立(ある意味分断)に向かっていることの証明だろう。
前出の糸魚川大火に出動した消防組織は
糸魚川市消防本部から12隊(消火隊9・救急隊等3)県外を含む31隊(消火隊25・他6)など43隊・地元の糸魚川市消防団も50隊
単純計算で消火隊43×30人=1290人・消防団50×20人=1000人。
消火活動従事者の44%が職業としての消防隊ではない。(あくまで概算です。でも、実際は50%くらいの数字になるのでは・・・)
そして、いざ本当の火事となった時にポンプの操法を知らない人はヘタをすると「邪魔」にしかならない。
数年前に耳にしたのが「消防団の再編成」
地方においては少子化が進み、人口自体が減少している。
その中で「公的奉仕意識」によって成り立っている「消防団」も以前の定員を保てなくなっている。
そのための「再編成」及び「女性団員の募集」が行われた。
「公的(パブリック)」の意味が「私的(パーソナル)」と対立するのではなく、その融合していかなければ糸魚川大火レベルの災害には対応できない。
現在の新型コロナウィルスの流行にも言えることなのだが、公的・行政のレベルで「大災害」にはあるレベル以上のことは期待できない。
それらを抑え込むために充分に対策を準備するとすれば・・・。
かなりの「ムダ」を覚悟せねばならない。
「起きるかもしれない」ことに「大いなる無駄」を覚悟でお金を使うことは、逆に国民が許さないだろう。
消防団へのコメントの内容に私は経験者として充分理解する。
民主主義の根本である「自由」を制限することは基本的に反対する。
だが、コロナ禍における「行動規制」や「消防団」の活動への参加はある程度の「強制」に近い形をとらない限り、事において「好転」することは無いだろう。
今回も最後までお付き合いいただきありがとう。これを読んでいる皆さんも「公」の中における「個」が完全に「free」ではないことを理解しますように。
May
「組織」における「規律」というモノが、ある程度ないと人間は「自由」の意味を正確に感じれなくなるのです。
時代が違い過ぎるから理解されないでしょうけれど・・・。消防のポンプ操法の練習後の茶碗酒は「たまらなく」旨かったんだよね~~~。
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