完全無欠な「もうすぐ前期高齢男」日記

「もうすぐ前期高齢男」に進級「老いの自覚」を中心にUpしていきます。

くやしいやら、うれしいやら・・・    ~酒話2題~

2013年02月26日 | 
私は初老男である。


今世紀最強の寒波が今頃やってきている。

雪国の春は遠い・・・。


さて、不思議なもので昨日Upを更新すると、スルスルと次のネタが見つかるから不思議だ。


タイトルの「くやしい」の方から話を始めよう。


いま、レオナルド・ディカプリオがCMをやっている酒をご存じだろうか?

バーボンである。

ジム・ビームと言う名だ。


もう気が付いてる貴兄も多いと思うが「角瓶」で、世にハイボールを流行らせたサントリーが、次に仕掛けたのがこの


     「ジム・ビームのハイボール」


である。


このブログを読んでくれている貴兄の少数のひとは、もしかしたら、私がバーボン党であることを覚えていてくれている人もいるだろう。


ハイボールも、実は酒を飲めるようになっときから人が水割りを飲んでいる時にハイボールを飲んでいた。


そうした「変わり者」の私は、追いついてきた今の「時代」に少々くやしさを感じている。


私が唯一の常連になっている居酒屋に、持ち込みでおいてもらっているのが、この「ジム・ビーム」なのだ。


変わり者の私は「流行に乗る」ってのが一番嫌いだ。


角ハイボールの時だって同じような状況になったけど、なんとか(ふんふん、俺の方が時代を先取りしたんだいっ)って、思って我慢したのに・・・。


だいたいの人間が、私がキープしているジム・ビームをみて流行に乗ろうとしてあがいているおじさんだと思うだろう。

それが、くやしい。



さて、今度は「うれしい」の方。

これも、初老男ならではのことだと思うのだけれど・・・。


初老男が子供の頃に「コカ・コーラ」なる飲み物が、日本に進出してきた。

最初は190mlのスタイルの良い女性を思わせる厚いガラスの瓶で売られていた。(レギュラーサイズってやつね)


それが定着すると500mlの「ホームサイズ」なる瓶が販売された。

そのホームサイズのCMである。

加山雄三が氷の入ったグラスにホームサイズからコーラを注ぎ一言。

      
        「3杯注いでも、まだ余る!」


話が長くなったが、何が言いたいかと言うと、その時に注がれていた「グラス」がカッコ良かったって話。

グラマーな女性のように上部がバストのように盛り上がり底に向かってすぼまってゆく。

イメージとしては「火焔土器」を思い浮かべてほしい。


その盛り上がった部分にCoca・Colaのロゴが、例の独特の字体で透かしてある。

「・・・欲しい!」っておもった。


そんなことがあってから、この「おまけのグラス」ってのに初老男は弱いのだ。

だから、ウィスキーに「おまけのグラス」ってのが付いてると、思わず「衝動買い」をしてしまう。


いままでに手に入れたグラスは・・・「角ハイボールジョッキ」「角ハイボールアルミカップ」「角ハイボールグラス」「トリスハイボールグラス」「メーカーズ・マークオンザロックグラス」「ギネスビールグラス」「ワイルド・ターキーハイボールグラス」「ジャックダニエルハイボールグラス2種」「ホワイトホースハイボールグラス」「ジム・ビームハイボールグラス」・・・・etc。


ざっと挙げただけで、こんなもので、ショットグラス・ロックグラスを含めるとかなりの個数になる。

「酒なぞ、どんなグラスで飲んでもおんなじ」と思っている人は、ここから先は読む意味がないので割愛することをお勧めする。


そうした私が、どうしても欲しかったグラスがある。

それは・・・。


「角ハイボールのグラス」である。

「いっぱい持ってるじゃない!」って言われそうだが、私が欲しかったのは今までにないバージョンの物だ。

サントリーの角瓶のホームページに行って菅野美穂の居酒屋のCMを見てほしい。

まず、お客が飲んでいるのが今ちまたの飲み屋で標準で出てくるジョッキだ。

これはある意味手に入らない。(どうやら、お店専用らしい)

まあ、あれは欲しくないけれどね。


そして、CMの最後で菅野美穂がおいしそうに角ハイボールを飲むときに持っているグラス。

          「あれが欲しい!!!」


実は、初代の角ハイボールのCMをやっていた小雪の時から、同じグラスで飲んでいるのである。


角瓶のデザインと同じ切り子の亀甲模様のグラスである。


ずっとあれが欲しかったのだが、どこにも売っていなかった。


もちろん「おまけ」についてもいなかった。

それが、ついに見つけたのだ!


キャンペーンの期間とか地域とかが、どうやら微妙にずれているらしく私の近所ではほとんど目にしなかったのだが、偶然ちょっと遠出をした量販店で見つけた。


ワクワクしながら、広げてみると・・・・。


本当はちょっと違う気がする。


グラスの中央に角瓶と同じロゴが入っているのだが、それが「透かし」になっている。

確か本物は黄色いワッペン風になっているはずだ・・・。


まあ、いい。


本当に酒ってグラスによって「味が変わる」代物なのだ。


その日は「悦に浸りながら」おいしい角ハイボールを堪能したのだ。


酒ってそうしてことを繰り返しながら、自分に馴染んでいくんだよね。


今回も最後までお付き合いいただきありがとう。これを読んでいる皆さんも、自分にとっての「大切なもの」を見失いませんように。

       
           May


・・・しかし、グラスを手に入れるために角瓶のストックが4本になっちゃったよ。
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ふと気が付けば・・・。     ~52歳の真実~

2013年02月23日 | Weblog
私は初老男である。

さて、気が付くとUpが2週間以上も空いてしまった。

まあ、単純に「サボった」ということ。


間が空いたが、ツッコみたいネタはいっぱいあったね。

まあ、本当にツッコみたいことがあったらUpしていたと思うけど。


と言うことで、ツッコみようのないまったくのプライベートのことをUpしようと思う。


人間と言うものはいい加減なもので、自分の歳がいくつであるか私のような歳になるとはっきりしなくなる。


50代に入ったことは覚えているが、はて、1だったか2だったか、はたまた4だったような気もするし・・・。

確かめてみるとこの1月で52歳となった。

初老男まっしぐらである。


もっとも、52歳は「初老ではない!」と力説する貴兄も多いのではないだろうか。

あくまでも私の感覚として52歳は「初老」なのである。


皆さんは、年齢について感慨の深い区切りの歳は無いだろうか。


私は意味なく「24」と言う歳に、まず感慨を覚えた。


23歳は「青年」って感じ?

対して24歳は「成年」って感じかな。


自分が24歳になったとき「甘えは許されない」って気になった。


それから「40」

これは、正確には「40代」というあいまいなとらえ方である。

40代に入ったとき、娘が小学校に入学し様々な儀式を経る中で、これからはこうした儀式いが頻繁に押し寄せてくることを思えば、それまでのような「気楽さ」では生活できないという感覚を持った。


そして、今現在の「52」という歳。


私は父方の祖父を知らない。

私が生まれる2年前に亡くなっているからだ。

癌で亡くなったと聞く。


それが「52」の歳だった。


そんなことに意味は無いのであろうが、やはり身内にそうしたことが起こった人は多分に「イヤな感じ」を抱くのではないだろうか。

現実の話をすれば、祖父の子どもたち(親父や叔父さん・叔母さん)は、52どころか皆60を越え、我が親父に至っては80を迎えてもカクシャクとして、息子に憎まれ口を利いている。


しかし、私のような「ネガティブ思考」の人間には、周りが「お前が一番爺ちゃんに似ている」などと言われるたり、血筋と言うものは「隔世遺伝」するものだなどと言われことで、そんな不安の塊を呑み込んでしまう。

実際、毎年受けている人減ドックの検査結果は着実の「衰え」を示し、保健師からはきつく生活改善を言われている。

おかしなもので、そのことがある反面、人生の後半に懸ってきていかに初老から完全な「老境」に突入するかを思案し続けている。それは少なくとも年金生活をどう生きるかなんていうくらいの先のことだ。


自分の周りの人たちが、次々と鬼籍に入っていくのを目の当たりにすると、自分のこれからの生き方を考えずにはいられない。

実際、人間は困ったことに「簡単に死なない」し「簡単に死んでしまう」ものなのだ。


まあ、そんな死までの時間の中でほんの少しの自己顕示欲の表れが、このブログであることは間違いない。


不安と試練。苦労と努力。深い思慮と実行。そんなものの積み重ねの中で、初老男の人生は続いていく・・・。


・・・そんなに大袈裟なもんじゃねぇよ!

今回も最後までお付き合いいただきありがとう。これを読んでいる皆さんも、気になる年齢など「鼻で笑って」やりますように。



         May


初老に万歳。



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恒例の野沢温泉    ~だいぶ戻ったね~

2013年02月10日 | Weblog
私は初老男である。

さて2月の十日前後と言えば真冬である。

確かに今日はかなり寒い。

雪の量はといえば、久しぶりに「例年並」だろう。


大雪の年が続き「例年」がどれくらいであるかの感覚がずれつつあって、つまりは小雪に感じてしまうけれど。


さて、先週の3・4日と恒例の野沢温泉へスキーに行ってきた。

今年の野沢は・・・。

昨年以上に盛況だった。


20年以上この時期に野沢に行っているが、毎年同じ文句を繰り返しちゃいます。


       「ずいぶんお客さんが戻ってきたな」

ってこと。


スキーブームの真っただ中を過ごした初老男にとって、近年のスキー場の衰退は呆然とするばかりだった。


つづく
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先回のつづき。    ~グズグズだったからねぇ~

2013年02月09日 | Weblog
私は初老男である。

先回のUpがグズグズで終わっちゃったので、ちょっとつづきを。


日本の女子柔道界が「体罰」問題から「協会の体制」問題に発展している。

物の見方が偏屈な初老男としては「だって男子の方には何もないのか?」って思う。


単純に考えても、女子の指導にあったこと以上の「理不尽な」ことがあったと推察できる。

しかし、男子の監督は確かに変わったけれど、その体制が女子より甘い(不適切な表現か?)とは思えない。

そして、なぜ女子ばかりがこうした問題のなったか?

それについての私の結論は・・・。


元々の「脳の作り」の違いだ。


これは、女性の中に男一人と言う状況で30年以上仕事をしてきた者として言い切れる。


少々前にイギリス人学者の夫婦がそうした本を出して話題になったことがあったが、初老男はそれを読んで「その通り!」と何度も思わず声を上げたものだ。

そもそも、日本においては他の諸外国(特に欧米列国)と違い「男尊女卑」が徹底されていた国だ。

その中で女性における「格闘技」への参加は、初老男くらいの男にはいまだ眉を顰めざるを得ない。

もっとも、今回そのことの本質的なことも論議されてもいる。


そう、柔道は『武道か、スポーツか』ということ。

私が過去のUpの中でも、何度か柔道のことについて取り上げてきたのが、今のこの状況につながってきているように感じる。


東京オリンピックに正式競技として採用され、世界中に普及していったこの種目は、日本人が心の底にもっている「精神性としての武道」の具現的競技であろう。

それが徐々に各国に広がるときに、自分の国にある格闘技の技と相まって、格闘技でさえない「スポーツ」の変化していった。

だから、すでに「柔道」と言うものは、国際的な「JUDO」であり、日本人が持ち得ていたいとおもう「精神性」を説いている国はほとんどないであろう。


指導における「体罰」などは、その日本人の精神性の「侍の心得」的なものから始まっているように思えてならない。

その侍の心得が、大日本帝国の軍人に受け継がれ、なんとも日本人にしか理解できない「精神修練」の方法として「体罰」が現在まで残っているのではないだろうか?

「軍の規律」を守らせるには、当然「体罰」による「恐怖感」を煽るやり方が最も効果的だからね。


初老男が中学生くらいのときは、教師がこれ見よがしに「精神注入棒」と書かれた竹刀や木刀をもって授業をしてたのもそれほど珍しい光景ではなかった。

つまり、格闘技はおろか勉学においても「根性・根性・また根性」ってな感じの指導者が、いたってことだ。


様々な要因があるにしても、資源的に裕福でない日本と言う国が明治維新以降に、欧米列強に追いつくために心の支えにしたものが、こうした説明のつかない混沌とした「精神性」と「神秘性」(日本は神の国だとか、天皇陛下は現人神とか、最後には神風が吹くとかいうやつね)だったといえる。


純粋に海外に普及していった「JUDO」は、スポーツとして伝わり、スポーツとしての技術を磨く上において「日本的な精神性」は少しは残ったにせよ、ポイントを取る技術を習得することにおいてほとんど必要のないものであったろう。

結局日本女子柔道の成り立ちから、もうかなりの時間が経ったにも関わらず、現場の指導が男子コーチ・男子監督で占められていたことが、今回の問題の原点だろう。男子のコーチにはまだまだこの「精神性」を重視しる人が少なくないだろうから。


そうした意味で、今回の女子選手による告発の中の「体制変更の要求」はごく自然な要求と思える。すべてはそこから始まっているからね。


冒頭に示したように、女性は男のように物を考えてはいない。

男にとっては「結果」がすべてであり、理不尽なことであっても「結果」がよければその「経過(プロセス)」はあまり重大ではない。


女子柔道は多分に海外に広がっていった「JODO」は近い感覚があって、体罰による指導が技術の向上につながっているか懐疑的だったのではないだろうか。

「なんでこんな体罰を受けなければいけない?」という意識が、男の考えるそれより大きいのである。そう、脳の違いである。

これで女性が、女子柔道の指導者であったら、今回のような問題には絶対ならなかったはずだ。(・・・違った形での問題にはなったかもしれないけど)



散々引っ張ってきて言うのもなんであるが、指導者とそれを受ける者の関係で「体罰」があるがゆえに「引き締まること」は間違いなくあると思う。

すべては「指導するもの」「指導されるもの」の絆があることを前提に「体罰は必要」だと思う初老男である。

その体罰の方法や行う状況・回数などは「極めてむずかしい」と思うけれど・・・。


今回も最後までお付き合いいただきありがとう。これを読んでいる皆さんも、結果より根底にある「絆」の存在を忘れませんように。


            May

・・・今回の騒ぎで「もともと柔道は『柔術をスポーツ化したものだ』」と言っていた人がいた。であるにしても、そこに「日本人の精神性」はかなり大きく付随していたんじゃないかなぁ。





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むずかしい「境界線」    ~指導と体罰・パワハラetc~

2013年02月07日 | 時事ネタ
私は初老男である。

本当は誰もが感じていることを私がこのブログでUpしても、あまり意味がないと思っているのだが・・・。

まあ、ついついひとこと言いたくなる。


まず、女子柔道監督の園田氏の問題。


これは結局例の「桜宮高校の体罰問題」が発覚しなければ、このタイミングで取り上げられたかどうか疑問だ。

そして、この体罰の問題も「自殺者」が出なければ、これだけの問題にはならなかっただろう。


「高校生が自殺する」と言うことは、とてつもなく重い出来事だ。


そのことから、堰を切ったように様々な類似な問題が噴出する。

こうしたときこそ「本質的」なことを考える必要があると思う。


まず、ある方向からの「本質」

園田氏は「有能な監督」であったか?

昨年のロンドンオリンピックにおいての女子柔道の成績は「金1銀1銅1」である。(入賞ほかは割愛)

この成績をみて「有能」とするか「無能」と判断するか・・・。


ちなみに男子は「銀2銅2」(入賞はほかは割愛)である。

この成績をみて篠原監督を「有能」とみるか「無能」とみるか・・・。


どちらの成績も、どちらとも取れる。

そして、どちらも「有能」とも「無能」ともいいかねる・・・。


金メダルがあっただけ女子の方がよかったように思えるが、総数では男子の方が1個多い。


・・・・・・・そんなことはどうでもいい!

結局のところ、両監督とも「有能であったか無能であったか」なんて・・・。


         「わからない!」

                    のである。

問題なのは。


園田監督の指導によって獲得した「金1銀1銅1」の結果は、問題になっている「暴言・パワハラ」によって獲得したものなのか否か?



と、まとまらないことを書き連ねてきたが、ちょうどYahooニュースに「体罰禁止 柔道同列でいいのか」というスポーツライター金子達仁氏の記事が載った。

私の意見に非常に近い。

もちろん、すべてに同意するということではない。

今回Upしたかったことは、こうした意識の違いの「境界線」はとてもむずかしいと言うことを考えたかったからだ。





・・・などとしばらくUpをサボっていたら・・・・・・・・。


ドンドン話が大きくなって行き、私のUpしようとする内容とズレてきている。

と言うことで、ズレていることを承知で手早く話を一応まとめて、そのズレた方向にも乗っかろう。


「いじめ」と「からかい」の境界。

「しつけ」と「虐待」の境界。

「友情」と「愛情」の境界。


様々な事柄において、この境界があり、未来永劫「曖昧」なままであろう。


私自身としては、すべてのこの境界は、個人個人の感覚に棲んでいるものでいかなる他人とも一致することは無い。

しかし、当事者同士の中で「信頼」を持っての行為であれば、成立する事柄であると思うのだ。


初老男が青年と呼ばれていたことまでは、ごく一般的な意味で「平凡」がまかり通り、事実皆が暗黙の了解としての「曖昧さ」を享受していた。

青年が初老男になるまでの間に「曖昧さ」が、徐々に悪い方向に向かって暴走を始め「平凡」であることが悪いことのように時間が過ぎる。

人々は少しでも人より「目立ちたい」「きれいになりたい」「金持ちになりたい」って思いだす。


ごく一般人の持っていた良い意味での「曖昧さ」「暗黙の了解」が存在しなくなる。

それが、こうした「境界」をなおさら分かりずらい世の中に変えてしまった。


今回のこともすべては「結果」に結びついている。


昨年のオリンピックで女子柔道がメダルを今回獲得した数の倍を取っていたら、この問題が表面化したかどうか・・・。

どこまで行ってもわからない。

まあ、どんな形であれ、これから女子柔道競技が強くなるなら「禍転じて福となす」ことになるだろうしそうなってもらわなければ困るのである。


今回も最後までお付き合いいただきありがとう。これを読んでいる皆さんも、日本人の「曖昧さ」の良い部分だけを受け継ぎますように。


               May


散々Upが遅れた上に、グズグズの内容なってしまって申し訳ない。

次回は頑張ります!








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