完全無欠な「もうすぐ前期高齢男」日記

「もうすぐ前期高齢男」に進級「老いの自覚」を中心にUpしていきます。

何かが変わった    ~擬似戦時中~

2011年04月14日 | Weblog
私は中年を卒業しつつある高年である。

今年はこの震災を例に挙げるまでもなく、この頃気象状況がおかしい。

豪雪地帯と言われる我が地域で大雪といわれたのは1月で2月はほとんど雪が降らなかった。

しかし、3月は一転また寒い日が続き雪がダラダラと降っていた。

例年なら、新入児たちのにぎやかな声と共に暖かさがやってきて「春だなぁ・・・」って感じにならなければならないのだが田んぼの雪も多いしとっても寒い。

何か嫌な予感がするなぁ・・・。



さて、車に乗っていて看板の明かりの消えた街を走っていて思った。

戦時中というのはこんな感じだったのではないだろうか。と。

本当の戦時中を知っている人が怒るかもしれないが、この漠然とした身体を包み込む言いようの無い恐怖感は、少なくとも3・11以前には感じたことの無かったものだ。

中越地震を経験した(といってもほとんど被害らしき被害は無かったけどね)時でさえ、こうした恐怖は覚えなかった。

まあ、いわずと知れた「放射能」の関係がその主たる原因なのだけれど。


逆の例えになるのだけれど、戦時中で人が死ぬことが日常化してくると、そのことに人間は鈍感になってしまう。

だから、悲しみの深い中でもくだらない冗談もいえば大声で笑いもするし、不謹慎なエロ話もする。

戦時中とかもそうだったのだろう。

緊張感と不安感。虚無感と鈍感さ。刹那的な考えと将来についての考え。

それらがみんな綯い交ぜになって、日々が続いていく。

今がそんな感じなのだ。


フッとおもった、これって「北朝鮮」の状況にも似てるな。

計画停電と同じようにちょくちょく電気は止まるらしい。

生活し辛いことは、我々日本とは比べようもないだろう。


しかし、である。

被災地の人々と北朝鮮の国民たちが最大に違うのは被災地の人達には自分の置かれた立場に「戻らなければならない状況」があることだ。

北朝鮮の人達に停電があるのは「日常」であり、特別のことではない。


逆に言えば、停電のあるのが「日常」なのだ。

長い間その状況が続き「日常」になってしまえば、人間はそれ以上の世界を想像しにくくなる。それはとてもとても悲しい状況だ。

被災された人達とそれを支援するべき我々には「戻らなければならない日常」がある。

「非日常」から「日常」へ。

ジワジワと迫る嫌な感じはなかなか晴れない。しかし、希望のない国と我々は全く違う。

必ず戻る。それに疑いはない。

今回も最後までお付き合いいただきありがとう。いつも通り間は空いてしまい申し訳ない。その理由は次回に。

May

こちらはGWにサクラが満開になるよ。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする