完全無欠な「もうすぐ前期高齢男」日記

「もうすぐ前期高齢男」に進級「老いの自覚」を中心にUpしていきます。

雪国の春の匂い  ~組織と言う名の「怪物」~

2007年02月26日 | Weblog
私は中年である。
この頃、日々のブログUpをすることに慣れてしまって、1ヶ月にUpする
ブログの数が少なくなってしまった。

これはまずい・・・。気合を入れねば・・・。

気合を入れねばと言えば、昨日07’サッカーシーズンの開幕を告げる
(違うかもしれないが、私はそう信じている)ゼロックス・スーパー杯で
レッズがガンバ相手に4-0で負けおった。

あと1週間でシーズン開幕。レッズの皆には「気合い」を入れて欲しいものだ。
もっとも私はアンチレッズなので、気合いが入らず、あまり強くないことを
祈るアルビファンの「中年」である。

さて、昨日所用で新潟市に行ってきた。そこは私の住んでいる地域より
一足先に「春」の香りがしていた。

ちょっとおもしろくUpになるかもしれないが許して欲しい。

「組織」と言うものは「本音」と「建前」で出来ている。

同じ人間であっても、組織を運営する側にいるときは「建前」を重視し、
自分が納得していないことも「平然」と提言するものだ。

しかし、その「建前」を言われた組織の「構成員」(893みたいでよくないなぁ
呼び方変えよう)
「組員」(もっとそれらしくなったじゃないか!もう一回変えよう)
「ヒラ」(突然、全然雰囲気違うけどこれにしておこう)の人間たちは
それに対して「本音」を運営する側にぶつけざるを得ない。

結局、組織の運営と言うのはきわどい「妥協」の産物なのだと思う。

しかし、その「妥協」であってもお互いの「熱意」がぶつかり合ってのものなら、
悪い方にばかりは行きはしない。ぶつかり合ってこそ「組織」が充実していくと
言うものだ。

組織においての一番の問題は、結成からの時間が経てば経つほど、一つ一つの
ことが「形骸化」してしまい、本当の「意味」さえ構成員(あ、また使っちゃった)
自身が分からなくなってしまうことにある。

「なんか知らんけど、前々からそうしているからやっておけばよい」と言うような
雰囲気だけで時を過ごすようになる。

私自身がそんなことを、随分経験してきたから良く分かる・・・。

そして、組織は大きくなればなるほど「身動き」が取れにくくなっていく。

恐竜は尻尾を踏まれると三日経たないと「痛い!」と感じないと言う。
これは、私がそのことを象徴する話としてよく使う。

私が新潟市に行った所用というのも、そうした「組織」の会議だった。
営利を目的としない(正確にはそうではないのだが)団体であれば、なおさら
「観念的」なことをお互いの結束力にしていくしかない。

これは今の時代には、とてもむずかしいことだ・・・。ジリジリとしたあせりを
感じつつ集会は終った。

新潟市は、この冬1月中は1度も雪が降らなかった。しかし、昨日はまるで
「桜の花びら」が散っているような「風舞い」の雪がやわらかな日差しの中で
降っていた。

いつもより2ヶ月ほど早い「春の予感」が、新潟市では完全な「新春」(年賀状じゃ
無いよ~)になっていた。

新幹線から見る「風舞い」の雪は嵐のように猛スピードで流れていく。
しかしそれも徐々に晴れて、逆に山の雪が徐々に増えていく。
そんな風景を見ながら、様々な思いが交錯した土曜日だった。

今回も最後までお付き合いいただきありがとう。
これを読んだみんなが「組織」の中で「個性」を発揮できず、埋もれて
しまいませんように。

遅くなってけど、今回ノンストップで1回仕上げました。
ひさしぶりだなぁ。                  may








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「関ヶ原」(全3巻)読み終わりました   ~作家の意識の違い~

2007年02月25日 | 
私は中年である。
前回はマクラを振っているうちに、エキサイトしてしまいマクラで1回の
Upを終わらせてしまった。

この頃「日本・日本人」なんていうキーワードにハマルとついエキサイトして
話を進めてしまうなぁ。

私くらいの歳になってくると「国」や「愛国心」に対するこだわりが
良い意味でも悪い意味でも強くなってしまうなぁ・・・と感じる中年である。

さて、だいぶ前に予告していた内容のUpをしようと思う。

昨年の終わりに、昨年の大河ドラマ「功名が辻」の原作を読んで感想を
Upした。(昨年12月30日のブログを参照)

「正月明けには」などといって2月の下旬になってしまったが、とにかく

        司馬遼太郎著「関ヶ原」(全3巻)

を読み終わったのだ。

どんな仕事であっても同じことなのだろうけれど、それに取り組んでいる人にも
調子の良い時と悪い時がある。

私のような「調理」という仕事をしていると、調子の良し悪しは露骨にその
料理の「味」になって現れてしまう。

幸か不幸か「食べ物」は食べたそのすぐそばから消えていってくれる。
よほど「不味く」ない限りはすぐに忘れられていく。

逆に、だからこそ「調理」はおもしろく、むずかしいのであるが・・・。

しかし「物書き」を仕事とする人たちが生み出す「本」は、時によって
とても残酷なものである。

物書きの本は出版物として世に出てしまっては、その本が存在する限り
「無かったこと」には出来ない。

どんな有名・有能な文筆家であってもバイオリズム的に調子の悪い時が
あるだろう。しかし、その時であっても「締め切り」なるものは迫ってくるのだ。

そうした時に苦し紛れに書いて印刷物になってしまったものもあるだろう。

国民的作家である「司馬遼太郎」でも例外ではない。

「功名が辻」はそうした意味で「駄作」ではないが残念ながら「傑作」では
決して無い。

そして「関ヶ原」は間違いなく「傑作」である。

もっと核心的に言うなら「功名が辻」は「おとぎ話の本」であり「関ヶ原」は
「政治学の本」なのである。

「功名が辻」の話をUpしたときも書いたのだが、結局この本は時代の
主たる話の脇にある「サイドストーリー」から抜け出すことが出来ないのだ。

逆に「関ヶ原」は個人を中心ではなく(まあ、石田三成が中心と言えば中心だけど)「関ヶ原」と言う闘いそのものを取り巻く状況が中心である。

その時、立場の違うそれぞれの「藩」がいかに「時代」を見極め、いかに
行動したかを非常に細かく3冊にまとめている。

この本にはどんなに時代が変わっても、そこに「人」と「権力」と「組織」が
ある限り当てはまる「政治のパワーバランス」の見本がある。

何年経っても、読める本と言うのはかなり数が少ないはずなのだが、
この「関ヶ原」は「中年」を卒業して「老年」になっても充分おもしろく
読める本だろう。

今の日本の政治に、背景が酷似していると感じているのは私だけだろうか?
まあ、自民党vs民主党が「関ヶ原」ほど、盛り上がってもおもしろくも
無いけどね・・・。

今回も最後までお付き合いいただきありがとう。
これを読んだみんなが「映像の世界」ばかりにとらわれず「文字で表された
観念の世界」を忘れませんように。

今回は苦しんだ割りにおもしろいUpにならなかったなぁ・・・。
申し訳ない!                         may



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「英語教育」と「日本の心」   ~真の「国際的」人物~

2007年02月19日 | Weblog
私は中年である。
今日は火曜日である。火曜日には毎週、女房と楽しみにしているテ
レビ番組がある。

教育テレビ19:25からのスーパーバレエレッスン 
   -パリ・オペラ座 永遠のエレガンス-
                         である。

フランス人の講師が流暢なフランス語で(当たり前じゃ!)若いバレエ
ダンサー二人を相手に、クラッシク・モダン両方のバレエをレッスンしていく。
その姿は限りなくフランス・パリの優雅さそのままだ。

この番組を見ていると「文化」としての「バレエ」が伝わってくる。

この頃日本人のプリンシパルが話題になっているが、この番組をみていると
少なくとも日本にはこうした文化が定着するのは、まだまだ先のことのように
思えてくる。


さて、それを踏まえて今日のUpをはじめよう。

先日の土曜日の夜の10:00頃からのワイドショーを見ていたら、
変わった学校の話をしていた。

小中高一環校が全国的に増えているらしいが、その中の1校が国語と
なにか1教科以外は全て「英語」で授業を進めているという内容で紹介されていた。

校長も外国人の女性で、そのことの「意義」を滔々と述べていた。

その中のある教師に至っては、全世界的に「バイリンガル」(二ヶ国語以上を
話せる人)の人間の数の方が話せない人より多いのだとノタマっていた。

そのことの詳細な数字の裏づけは示されなかったが、もしそうであっても
そのことが日本人の世界に対する活躍の少なさを証明するものでは無いだろう。

授業の中に「日本の伝統芸能」を取り入れているから、決して日本語を
疎かにしているわけではない。とも話していたが、この教育者は根本的な
「何か」を間違っている。

「英語が分かる・話せる」ことと「英語を話す国のことが分かる」ことはイコール
では無い。(「日本語が分かる」ことと「日本が分かる」ことも同様だ)

前に読んだ「国家の品格」(06年5月9日分ブログを参照)の中に、
「英語教育」のことが縷々論じてあった。

その中で非常に頷いたことがある。

それは、自国の「文化」自身の素晴らしさを理解し「日本人としてのアイデン
ティティ」を確立しないうちに、人としての自己を持たぬ内の「バイリンガル教育」など、両方がいい加減になる「中途半端」な子どもを増やすだけだということ。

日本人が外国に行って暮らすと外国人はすべからく「日本の偉人」のことや
「日本の文学」のことを聞いてくると言う。
「文化」としての「日本」を聞きたがるのだ。(もちろん、質問者もそれらを
ちゃんと自分なりに理解してか質問してくるという)

そうした時に、いい加減な答えをすることは許されない。

それは英語がしゃべれる以前に「人間としてのアイデンティティの欠落した人」と
みなされる。しかし、英語が出来なくても「アイデンティティ」の確立した人の
「威厳」は失われたりしないのだ。(このことは「国家の品格」に詳しい)

ということで、なぜこれほど「このこと」についてエキサイトしているか
というと、自分も英語に対する「憧れ」や「劣等感」を長くヒシヒシと感じて
いたからだ。(どうせ私も英語なんか話せないし、読めもしませんよ~だ)

しかし、逆にその感覚にいつも「違和感」を感じていた。

果たしてそんなに国を上げて英語を教育する必要があるのか?また、
必要ならこんな程度の教育で良いのだろうかという違和感が。

中年になってよく分った。

試験のための英語など「時間の無駄」以外の何物でもないということが。
「日本の心」をしっかり教えるからこそ「国際派」が育っていくのだということが。

今回も最後までお付き合いいただきありがとう。
これを読んだみんなが自分の中に流れる「日本人の血」を思い出し「意味の無い
劣等感」をもちませんように。

ついでに言うけど「ゆとり教育」って考えたのは「どいつ」じゃ!このままだと
また、子ども達を土曜日に登校させることになってしまうらしい。
人間一旦緩められると、前と同じ締め付けであっても、それ以上の「苦痛」を
感じるもんなんだゾ~~~~!もっと真剣に「教育」を考えろ!バカ官僚め!                                                                          may







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雪の少ない「雪まつり」での出来事    ~娘がサイフを落とした!~

2007年02月17日 | Weblog
私は「中年」である。

「人間どこに『不幸』が転がっているか分からない」

これは中年である私の人生訓である。

あるとき突然一気に「不幸のどん底」に突き落とされる。
つい最近、私もその目にあった。

しかしそれはたぶんに「観念的」だ。未来に起こるであろうことを予測して
落ち込んでいる。

他の人には全くその意味さえ分からないだろう。
私のような中年になるとそうした「自分の内面で考えすぎて」落ち込むことが
多くなる。

そんな時に「女房」がいてくれるのは本当にありがたい。

彼女は(というより「女性」のほとんどが)クヨクヨしない。

よく言うのだが「女々しい」という言葉は「男」の為にあるのであって、
「女々しい女性」は存在しないのだ。

「そんなのは、現実にその時が来てから考えればいいでしょ!」
その通りである。しばらくその言葉を繰り返し聴いているうちに、少しずつ
冷静さを取り戻して行く「中年」である。


さて、少し遅れてしまったが先週の日曜日に、我が地域で「雪まつり」が
あった。これでも「日本三大雪まつり」の一つなのだという。
(ちなみに「札幌雪まつり」「十日町雪まつり」が他の二大まつりらしい)

実は私はしばらくこの雪まつりには、しばらく行っていなかった。
私は中年であり、寒いところが嫌いだし、人ごみも嫌いだからだ。

しかし、今回はどうしても行かざるを得なくなった。

それは

   「娘が従妹と遊びに行った会場で『サイフ』を落としたから」

                              なのだ。

娘と従妹(義姉の娘)は一歳違いの小5と小4で仲が良い。
連休を利用して、雪まつりがてら「お泊り」に行くというので、娘を
女房の実家において家に帰って来ると、途端に電話が鳴った。

「もしもし、けーさつです。」(ひえーーー、なにごとだ!)

「おらがやりましただ・・・。お代官様お許し下せ~~~。」

そんなギャグをかますような余裕も無く、震えながら話を聞くと従妹と一緒に
雪まつり会場に行った娘がサイフを落としたらしく、それが警備本部へ届いた
という電話だった。

その時は腹が立ったのだが、娘の顔を見るまでに冷静になった。

自分は娘なんて問題にならないほど、子どもの頃様々な失敗をした。
その時、両親達は寄ってたかって私を罵倒したものだ。

こんな時は腹を立てた親より何より「本人」が一番ショックを受けて
自分自身で充分反省したはずだ。そんな娘に追い討ちをかける必要は無い。

娘と女房と三人で喧騒の雪まつり会場を横切って「警備本部」まで歩いた。

話を聞くと警備本部へ遺失物届けを出したのは、娘より歳の小さな「従妹」が
強く薦めて係員に話をしてくれたからだという。

しっかりした子というのは、親の私等より「頼り」になるものだ。
私等が一緒にいても、それこそ怒って「出てくるわけが無い!」と決め付けて
帰ってくるのがオチだ。

「従妹のSちゃん」に感謝感謝であった。

今回も最後までお付き合いいただきありがとう。
これを読んだみんなが自分の幼い頃を思い出して、子どもに「思いやり」のある
対応ができますように。

しかし、この雪まつりで有志の募金で上げて名物にしようとしている
「フェニックス」なる花火は1000発だそうだが、もっと効率的な「復興」に
使った方がいいじゃないかなぁ・・・。                                             may










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「やりたいこと」と「やれること」の違い   ~夏川りみにおける独立問題~

2007年02月15日 | 音楽
私は中年である。

さて、ブログをはじめてそろそろ1年になる。しかし、私の場合Upしたいことが
後から後から湧き出てきて収まりがつかない状況だ。

本当のところ「時事ネタ」なんかは一々取り上げたいことだらけなのだが、
余人が感じていることと変わりの無いことをUpしても仕方が無いので、
極力自分の意識と世間一般の意見が「大きく喰い違う」時くらいしか
Upしない。

モーツァルトのように頭の中で「完璧」に出来上がって、後は入力するだけ。
なんていう風ならいいのだが、最低4~5回は校正しないと仕上がらない中では、
Upしたい内容が溜まるばかりの今日この頃の「中年」である。


さて、「夏川りみ」という歌手の独立が問題になっている。

私は彼女のファンである。

私はその時々の女性ボーカリストのお気に入りを持っているのだが、現在は
この「夏川りみ」と「木村カエラ」の二人だ。

まったく違った「感性」を持つ二人だが、私の中でこの二人を聞くことは
少しも「矛盾」しない。「良いものは良い」のである。

夏川りみといえば世間的には「涙そうそう」だろう。

しかし、私は人より気が早すぎるのか、世間にこの歌が流行りだす前に
飽きるほど聞いていて、人気が出た頃はもう聴くことがなかった。
(同じようなことが「新垣 勉」にもいえる)

しかし、彼女の声の魅力に参ってしまって発売されたCDはほぼ
総て持っている。

コンサートにも行ってその圧倒的な歌唱力と沖縄人らしいパワーを
堪能してきた。

彼女は、声を「楽器」のように使う歌手である。

彼女は演歌歌手として一度デビューしていて「夏川りみ」は再デビューの
ための芸名だ。(ちなみに最初の芸名は「星美里」である)

父親が彼女を懸命に歌手デビューさせるためにがんばったらしい。
(ゴルフの横峰の話に似てるね、沖縄だしさ)

彼女自身も歌手にはなりたかったのであろう。そして、実際歌手になれた。
しかし、7年かかってもヒット曲に恵まれなかった。

演歌歌手を目指した人にありがちな話であり、そこから逆に「夏川りみ」が
生まれたことのほうが「奇跡的」な話である。

そして、そんな奇跡的な彼女にさらに「偶然的」な「奇跡」が重なる。
「涙そうそう」の作曲をした、ビギンのメンバーが夏川の姉と同級生だった
という奇跡が・・・。

人間「やりたいこと」が「自分に向いていること」とイコールではない。
また「好きなこと」が「できること」とイコールでない。


昔の4コママンガでおもしろい物があった。カッコ内はナレーションだ。

①八百屋の店先で、おばちゃんが客寄せをしている。
「安いよ、安いよ!奥さんおまけしとくよ!」(このおばさんは・・・・・)

②「ニンジン安いよ~!」(ノーベル賞を受賞できるくらいの・・・・・)

③「じゃがいもも安いよ~!!」(数学の素質がある・・・・・・)

④「えーい、もってけドロボー!!!」(しかし、それに気づくことは・・・一生ない)

世の中はこうしたものではないだろうか。
中には本当に自分の素質に目覚め、その道を歩ける人もいる。
それはこの上もない幸福なことだ。

彼女は「その道」を歩けた幸福な人だろう。

夏川りみは3ヶ月ほど休養した後「JPop歌手」転向するという。

彼女の声は「張りのある透明感」が特徴的だ。しかし、それは今のJPop
シーンではクセがなすぎるのではないだろうか。

彼女のが中森明菜の「十戒」を歌ったのを聞いたことがあるが、きれいな
透き通る声とともに、なんと印象の薄いことか・・・。

歌ったそばから「溶けてゆく」ようたっだ。
そう、記憶の隅にも残らない。

おそらく彼女の歌うJPopが流行ることは無いだろう。

人間やりたい時にやりたいことをやることでしか納得はしないものだ。

願わくば、夏川りみが今歌っているような「国民歌」が自分に一番あっている
ことに気づいて、早く戻ってきてくれることを願う私である。

今回も最後までお付き合いいただきありがとう。
これを読んだみんなが本当に自分の素質に目覚め「その道」を歩けますように。

不思議だねぇ。「涙そうそう」はビギンや森山良子が歌うより、やっぱり
夏川りみが歌わないとしっくりこないなぁ・・・。                                             may





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冬のスポーツはスキーに限る! ~ボードは嫌いさ~

2007年02月11日 | Weblog
私は中年である。
先日、珍しくテレビドラマを見ていた。
「今週、妻が浮気します」というインターネットの掲示板から
生まれたドラマである。

そのドラマの中で元チェッカーズの「藤井フミヤ」が重要な役で出演していた。

彼も中年である。(確か私と1~2歳しか違わないはずだ)
共演は石田ゆり子,ユースケ・サンタマリア等々。

「チョイ悪おやじ」などという言葉が流行しているが、それはあくまで
世間が作り上げた「虚像」だ。

彼はそれに乗るどころか自分ではまだ「中年」だと思っていないのだろう。
長い髪を掻き分けながら下手な演技をしていた。

上手に歳を取れなかった「中年」ほど悲しいものは無い。

彼はそうなりつつある。共演の沢村一樹が40歳で5歳ほど年下だが、
彼はこのごろ妙なキャラクターになりつつあるが上手に歳をとっている。

私は上手どころか20代の頃から中年だと言われた「完全無欠の中年」である。


さて、先回の話の続きだがスキーのナイターに行ったのは、ただ楽しむだけでは
なく・・・・。

       「毎年仲間内で行くスキー旅行のための準備」

                          だったからである。

さすがの私も、初滑りもせずに2日間のスキーにいけるほどの自信家では無い。

豪雪地帯に住む私が、他の地域にスキーに行かなくてもよさそうなものだが、
お隣の県には日本でも有数の「有名温泉スキー場」がある。

口惜しいが「雪質」と言う点では、我が地域はかなわないのだ。
20代の頃から2月の中旬を目掛けて一泊だけだがスキーに行く。

20代の頃は独身男女合わせて20人近くですべりに行き「ドンちゃん騒ぎ」
をしたものだが、最近は「中年男4人」が定員になった。

ウィンタースポーツは、この20年で劇的に変化したと言える。
中心であった「スキー」がこれほど衰退するとは思っても見なかった。

昔のスキー道具一式を揃えるとだいたい20万円ぐらいになった。
さらに流行の衣装まで揃えると更に10万円追加、さらにさらにスキー場での
リフト代・宿代・食事代を考えると随分「贅沢」な遊びだった。
(今のゴルフに近い感じ・・・って私が貧乏なだけか?)

中年4人組は年に1度こうして会うことを何より楽しみにしている。
「子育て」の真っ最中でなかなか自分のための「時間とお金」がやりくり
できないのも、また中年の男達の現状なのだ。

有名温泉スキー場も昔はゴンドラに乗るのに2時間近く待つのも珍しく
なかったのだが、今は土曜日曜でも10分と待つことなく乗れる。

かなり強気で「スノーボード禁止」を謳っていたスキー場であったが、
今は6:4でボードの方が多い。

ボーダーの皆さんには悪いが、スキーヤーにとってボーダーは「とても」怖い。
予測の「出来ない滑り」をするからだ。
これはボーダーが悪いのではなく、ボード自体がそういうすべりをするように
出来ているからだ。

また、ボードはスキーの様に「急制動(急ブレーキ)」をかけられないように
出来ている。それが尚更スキーヤーにとっては怖いのだ。

スキーヤーは、自分がうまくなると他のスキーヤーの実力を見極めて
滑れるようになる。そのため、他のスキーヤーをよけることが
そうむずかしくないのである。

しかもボーダーは、いつも何人かゲレンデの真ん中で座っている。
せめてコース脇に行くとか、すばやく立ち上がって欲しい。

これからもスキー場といいながら、益々「スキーヤー」が邪魔にされる世に
なるんだろうなぁ・・・。

中年4人組は午後3時には早々に引き上げて、温泉に入り宴会を始める。

お互いの髪の毛の薄くなった頭や白髪、子ども達の話や仕事でのストレスなんか
を酒菜にして飲むのだが、4人でビール2本酒6本くらいしか飲めなかった。

いじましいものである。・・・しかも私は二日目には「腰痛」になったしまった。
それで今は「いつもの接骨医」に通っている有様なのである。

今回も最後までお付き合いいただきありがとう。
これを読んだみんながスキー場で怪我などしませんように。

NO沢ON泉スキー場に名物饅頭屋「F屋とM屋」の二軒があるが、
どっちの饅頭がおいしいんだろう・・・。             may









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「中年」の復活    ~胸に燃える「種火」をたよりに~

2007年02月06日 | Weblog
私は中年である。
先日免許証の更新に行ってきたのであるが、今日新しい免許証が出来てきた。
「前に免許証は、穴を開けてお返しできますが・・・」
交通センターの制服のお姉さんとお母さんの中間みたいな女性がそういった。

私は五年前の自分が写っている免許証と一ヶ月前の自分の写っている免許証の
両方を受け取った。

・・・・・。ひひひひひひひ・ひどい!~~~・・・。なんだこの顔は!
五年前の自分と一ヶ月前の自分・・・。使用前、使用後みたいな・・・・。

「ゴールド免許」は更新の手間が伸びて楽だけど、自分の「老い」を
目の前に突きつけられたようで愕然としている「中年」である。

さて、先週土曜日に3~4ヶ月ぶりにバドミントンをやったのだが、
自分の「動き」自体に驚いてしまった。

          動くのだ!動けるのだ!

若い時に身につけた「技術」と言うのは恐ろしいもので、俗に言う
「体が覚えていた」のだ。

一つ一つのショットのキレはよくないが、若い者達に遅れを取る事はなかった。
若い連中は力に任せて攻め込んでくるが、しかし、それを「いなす」だけの
「経験」がこちらにはある。(相手にとって見ると「いやらしい中年」に
見えたろうなぁ)

ただ、怖いのである。体のあちこちにある「古傷」がぶり返すのが・・・。
その恐怖感が思い切り飛び出す一歩を鈍らせる。
そのため、昔なら簡単に振り切った相手に随分もたつくことになる。

私の古傷は下半身だけとっても「右アキレス腱断裂」「右太もも肉離れ」
「左ふくらはぎ肉離れ」「右足親指脱臼」・・・ざっとこんなもんだ。

特にアキレス腱を切ったのは14年ほど前なのだが、その当時は半年ちょっとで
「復帰」した。(今では信じられないけど・・・)
どんなスポーツも現実的にはアキレス腱を切ったら「引退」である。
(まあ、私の場合ずっと半引退状態だけどね)

考えてみれば右足親指脱臼以外は、すべてそのアキレス腱断裂以後の怪我だ。

アキレス腱を切るとどうしても体のバランスが悪くなり、前と同じ動きを
しようと思うと負担が分散されずに一箇所に集まってしまう。
それ以後の怪我はそうしたことが原因の一旦だろう。

年齢のこともあり「社会的責任」(ほどのものではないか・・・、まあ単に
仕事を休めないってこと)の関係からもバドミントンから「半引退」どころか
「完全引退」にまでなりつつあった。

しかし、そんな3~4ヶ月ぶりのバドミントンが思った以上に動けたのだ。

人間ドックに行っても「適度な運動と食事の制限」という「完全無欠の中年」
たちが言われる忠告をそのままされた。そんな私にとっては「適度な運動」を
する場を見つけただけでありがたい。

後は自分自身のスポーツに対する「熱意」に後押しさせれば良い。
体中にある古傷と相談しながら・・・。
私にもそうした熱意の「種火」くらいは残っているだろう。・・・おそらく。

そしてスポーツはバドミントンだけでは無い。
特に日本有数の豪雪地帯に住んでいるのである。冬には冬の楽しみがある。

それが昨晩のナイターにも繋がっている。しかし、実はこのナイターには
ただ単に「スキーを楽しむ」ために行ったのでは無い。
それは何のためなのか・・・。       

             次回につづく。

今回も最後までお付き合いいただきありがとう。
これを読んだみんなが「体」と相談して「ちょうど良いスポーツ」を
楽しみますように。

バドミントン日本代表女子ダブルスの小椋・潮田はどちらが「好み」?
・・・・・・わたしゃ「玲子」の方が好きじゃ!      may



    


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「ちょっと古いマンガ本」から学ぶもの   ~「ソムリエ」というマンガ~

2007年02月01日 | 
私は中年である。
先回ブログをUpする時に全文一気にUpせずにコマ切れにした。
考えてみれば2~3日内容が変わらないより、コマ切れでもすこしずつ
読めた方がよいのだと言うことに気がついたのだ。

誰かが言っていた。

「インターネットは中途半端でいいんです。投げ出せば読んだ人間が
 先を考えてくれる」

私のブログがそれを目指しているわけでは無いがUpするのが
遅れ遅れして数少ない読者の皆さんに忘れられるよりいいだろう。
と思っている「中年」である。

前回はマンガについてのUpだったが、実はあの後、少々以前に流行った
「ソムリエ」と言うマンガについて書こうと思っていたのだ。
(SMAPの稲垣五郎が主演をしてドラマにもなったので、おぼえている
人もいるだろう)

マンガの「ソムリエ」は、「ワインの素晴らしさ」に熱中する日本人天才
ソムリエの成長を非常にうまいストーリー展開で読ませてくれる。
その「ひたむきさ」を見習うために、私は仕事を見つめなおす時などに
良く読み返す。

私の琴線を震わせた「ソムリエ」の「核心」の部分はこうだ。

「酒」とは「食」と同じくそこに暮らす人間の「文化」そのものだ。

特にフランス人にとっての「ワイン」は「誇り」そのものを意味する。
異邦人の日本人が「それを理解している」などとシタリ顔でいえば「失笑」
されるのは当然だろう。

マンガでは超人的な日本人ソムリエ「佐竹 城」の活躍が描かれている。
つまりはほぼ「ありえない話」なのだ。しかし、こうしたことをマンガの
テーマにするのは「大正解」だ。マンガは「ありえない話」を
「ありえる話」にすることが不自然でなく出来るからこそ面白い。

K島N美(お笑いマンガ道場に女子大生で出ていた私と同世代の女優)が
「私の体には血の替わりにワインが流れている」などといったことがあるが

女優という仕事を割り引いても自分自身が「バカでございます」と言ってる
ようなものだ。

フランス人のワインとの関係は、子どもの頃から親にワインを水で割った
「ワインの水割り」を与えられることから始まる。
その行為こそが「誇り」の表れではないだろうか。自分の作ったワインを
「継承」させるための・・・。

私は「ワイン」のことは分からないが「酒」のことは「すこしだけ」
わかるようになった。

その自信から言わせて貰おう。日本人がワインのことを分からなくても
嘆く必要は全く無い。フランス人にも「日本酒」のことは永遠に分からないの
だから。
日本人がちょっと真剣になれば「日本酒」のことは分かるように出来ている。

みんな。フランス人になんか負けないように、もっと日本人であることに
「自信」と「誇り」を持とうじゃないか。  

今回も最後までお付き合いいただきありがとう。
これを読んだみんなが「純米酒」と「普通酒」の違いを分かるように
なって日本人の「誇り」を取り戻しますように。

削りに削って1300文字になった。約70%にスリムアップした
Upになりましたよ。                                                                may



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