完全無欠な「もうすぐ前期高齢男」日記

「もうすぐ前期高齢男」に進級「老いの自覚」を中心にUpしていきます。

「マンガ」世代の漫画論    ~文庫本とマンガ本の違い~

2007年01月29日 | 
私は中年である。
今日の午後、4・5ヶ月ぶりに「バドミントン」をやった。

おっかなビックリで、何よりも「怪我」をしないようにだけ気をつけての
2時間だった。しかし、意外に動けたことにもビックリしている。
私のバトミントン暦も24年で生きてきた「半分以上」になった。

男はスポーツ好んでをやる。これは男の持っている「狩猟本能」の
代償行為だろう。
昔から男は狩猟によって「アイデンティティ」(どういう意味なんだろ?)を
保ってきた。

今は残念ながら特に男は自分の「存在価値」(ああ、コレがアイデンティティの
意味か?)をなかなか外に向かって発しにくい時代だ。

なぜなら男と女の「最大の違い」は「力」そのものなのだ。「狩猟・戦争・
喧嘩・建設業」等が少し前まで男だけのものであり「種」を残すための
女性はそうしたところから、なるべく「遠い」ところにあるのは当然だった。

そうしたところで男女のパワーバランスが取れている方が良かったような
気がしている「中年」である。
(相変わらずマクラが長いなぁ)

さて私は本を読むことが趣味である。正確に言えば「趣味」ではなく
「生活の一部」なのだが・・・。

「本」の中には当然「マンガ」も入っている。

一時期「マンガ本」を著しく「嫌悪」していた世代があった。
今の「団塊の世代」よりちょっと上の世代(50代後半から60代かな?)の
人たちがそうだろう。

どこからそんな話が出たのか「マンガを読むとバカになる」などと、その当時の
親達は本当に信じていた。

実際、その世代はマンガを読んだことなど無かったはずなのに・・・。

現在「マンガ」は一般的な産業となり、転じて日本人の職人的技術と想像力に
よってこの国は「世界的アニメーション大国」に発展した。

今更の話になるが、私はマンガ本と普通の本を区別しない。「ゴルゴ13」は
ほぼ全巻そろっているし、書棚1つはマンガ本でいっぱいになっている。
しかも、マンガ本の方が「再読」の機会が多い。

ストーリーだけを読むなら「マンガ」の方が格段に早い。そして、
ビジュアル的に「そんなわけ無いじゃん!」と思える話は「マンガ」の方が
表現しやすいし違和感なく受け入れられる。

たとえを一つ。
ドラえもんがタケコプターで、のび太と空を飛んでいるところは誰でも
思い浮かぶだろう。しかし、マンガのドラえもんを見たことの無い人に、
文章だけで表現しようとすると・・・。

「ドラえもんは21世紀からやってきたネコ型ロボット。のび太の子孫
 セワシが送り込んだお目付け役だという。ネコ型だが耳は無い、胴体は
 青く2等身でおなかが白くポケットがついている。そのポケットから
 彼は叫びながら『あるもの』を取り出した。

             『タケコプター!』

                          
 ・・・・のび太にはただの竹トンボにしか見えない。ドラえもんは
 自分の頭にそれをセットしてふわりと空に飛び立った。
 「ま、待ってようドラえもん!」のび太はあわててその竹トンボを頭に
 セットしてスイッチらしきものを押した。ふわりとのび太の体が空に
 舞い上がった」

コレだけの文字数を費やすより、マンガにすると2~4コマあればコト足りる。
しかも不自然で無い。

日本のアニメーションで世界的に有名になったものは、とくにこうした
「アニメでしか表現できないもの」(もしくはアニメで表現した方が受け入れ
やすいもの)がほとんどだと言える。

「映画大国」のアメリカにたいして「アニメ大国」の日本と言うのは、
非常に理にかなっているところがある。(土地が無い・金が無い・単一民族・
独特の言語を持っている等々)

ただ「マンガ」だけってのはいただけない。先程の逆で「曖昧さ」を表現する
には文章だけの方が良い。

機械的なもので無い「人間の深層心理」を「映像」で表現するのは、かなり
むずかしい。「いい加減なもの」をいい加減なまま自分の意識に取り込むには
「文章だけ」の方が良いことが多いのだ。

どちらの場合も「ある程度の量」をこなさないと自分の中の「糧」になりにくい。

「想像力」と「理解力」の両方を養うためには、両方をある程度の量を
こなしていかなければならないのだ。

本は5分あれば10ページは進む。マンガであれば20ページは進む。
トイレであっても乗り物の中でも読めるのだ。気負わず本を楽しもうじゃないか!

今回も最後までお付き合いいただきありがとう。
これを読んだみんなが「本」を読んで、心豊かな人生を送れますように。

途中何度も中断しました。しかし、5日も6日もUpが遅れるなら
この方がいいのかなぁ・・・。しかも、最初に考えた内容と随分違ったし。
                                                                may



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ザッピングブログ   ~小ネタ満載~

2007年01月26日 | 時事ネタ
私は中年である。
しつこくなるが、私は日本有数の「豪雪地帯」に住んでいる。
昨年は3メートルに及ぶ積雪に悩まされた。

しかし、今年は50cmに満たない積雪だ。
・・・正直コレだけの「小雪」は中年である私でも記憶に無い。

「なら、楽なだけではないか」と思われる人も多いと思う。
しかし、雪が降るのが「本能的」に分かる雪国人としては、逆にその本能が
「今年は危ない!」と感じさせるのだ。

くわばらくわばら、どうぞ変なことが起こりませんように・・・。
と、慄いている「中年」である。

さて、最近は目まぐるしく様々なことが起きるので、ブログで追いかけ
きれない。一気に三つほどやっつけることにしよう。

まず
        「給食費滞納22億円」

様々な公的諸経費の滞納が問題となっているが、一番切実なのがコレでは
無いだろうか。(年金問題は、もはや見放した・・・)
モラルのボーダーラインが、このことにまで下がってきたと見るべきだろう。

問題なのは滞納した分「給食の内容」が貧しくなってしまうこと。
ちゃんと払っている人たちが「バカを見る」ことになる。
「保育料」「NHK受信料」なども同様。

良くも悪くも、すべて「かかったもの」「見たもの」「食べたもの」のお金を
払ってからでなければ、必要かどうか、高いかどうか等を議論する権利は無い。
(もちろん経済問題で払えない場合は例外である)

        「短大生遺体切断:両親が手記」

この事件は、未来的に見れば一つの「ポイント」となる事件だ。
両親の手記に私は非常に「違和感」を覚えた。

様々な記事を集めてみたところ、殺された末娘に親達が二人の兄とは
違った対応をしていたようだ。(少なくとも本人{娘}はそう感じていた)

最後に「娘が謝っていさえすれば・・・」という下りにその対応の
おかしさをかもし出している。

いかにどんなやりとりが行われたとしても、殺された側に「非」があるように
書くことと、結局殺した側が「親を思って」やった犯行であるからと「擁護」
しているように書いていることに大きな「違和感」を私は感じる。
(全文は下記のwebへ
http://www.mainichi-msn.co.jp/today/news/20070125k0000m040099000c.html)

    「あるある大事典2・苦情9200件」

基本的に「マスコミ」をどういうものと、捉えるかは個々によって
随分違うものだろう。ただ私は、それについてかなり懐疑的だ。

果たしてテレビで報道されることが「真実」だろうか・・・。
新聞の記事は「正確」なのだろうか・・・。

同じ事件を新聞社が違うだけで、全く違う記事になることを思えば
すべてのことを「疑わなければならない」時代になってしまったことを
再認識すべきだろう。

しかも、そうしたものに対して本気で苦情を寄せる人たちは、自分が
「簡単に騙される人」であることを自覚した方がよい。

今の「アパホテル・マンション耐震偽造問題」も、実は随分前から
話があったのに記事にならなかったことが「マスコミの政治的圧力に
対する弱腰」からであったことを、もっと国民自身が自覚するべきだ。

飛ばしすぎてまとまりがなかったかな?
一つ一つでもっと掘り下げたブログをUpしたほうがよかったかも
知れないが、時期を外すとピントがずれてしまうので取り急ぎ3件+αで
Upしました。

今回も最後までお付き合いいただきありがとう。
これを読んだみんなが「事件の本質」を見抜く「目」をもち続けますように。

「自分のため」のことを考えてもいいけど「自分のためだけ」のことを
考えちゃいけないですよね。
                                                                may


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政治家の資質  ~東国原英夫氏の未来~

2007年01月24日 | 時事ネタ
私は中年である。
1月21日は私の誕生日であった。
46歳になったのだ。
そして、その翌日「人間ドック」に行った。

結果は・・・。毎年言われていることを、今年も言われただけだ。
開き直るつもりは無いが「こんな御時世」に46年も生きていて、
「完全健康体」の方がよっぽど「異常」じゃないか!
と思っている「中年」である。


さて、今話題の「宮崎県知事」東国原英夫氏の話をしようとおもう。

宮崎県の談合事件は相変わらず「人間の性」としての「賄賂」が
通用することの証明だった。

まあ人間自分の地位を利用してお金をもうけようと「初めから」
思っている奴がそれほど多くはなかろう。

徐々に無意識に「確信犯」へと進んでいっただけだと思いたい。
「天網恢恢祖にしてもらさず」悪は滅びるのである。

そうして滅んだ前知事逮捕により空位となった知事選に「そのまんま東」こと
東国原(ひがしこくばる)英夫氏が当選したのだ。


我が地域も「統一地方選挙」として4月に県会議員選挙が行われる。
そこに私の知人W氏が立候補を予定している。

前回落選し、次点となって4年、ヨクぞ2度目の挑戦にこぎ付けた
ものだと思う。

人間「望む」ことと「成し遂げられること」は違うし、自分の持っている
「情熱」と「能力」は違うものだ。

W氏は実際のところ政治的実績は「0」である。しかし、なによりも
既存の県会議員達の持っている「澱んだ雰囲気」を纏っていない。

そして40代後半という年齢を考えると勝機は少なからずあると
身贔屓なしで予想する。


東国原氏も非常にW氏に近い感覚で当選を果たした。(彼も49歳だしね)

しかし、しかしである。東国原氏は、経歴的に「女性問題」で幾つかの
スキャンダルを起こしたことが「致命的」では無いだろうか。

人間が「聖人君子」であるはずはなく、政治家も例外では無い。
どころか「非聖人君子」の集まりが政治家だって気もする。
だが、それでも「金と女」に関することは政治の世界において
致命的になり易い。

男は(女もだけど)中年を迎える中で「性癖」が地位によって変わることは無い。
逆にその地位によって受ける「ストレス」で更に性癖が捻じ曲がることが
あるだけだ。

本当は「そのこと」と「政治家として実力」は別にして評価されるべき
事柄なのだが、不思議なことに現在の日本においてはそれは許されていない。

本当に政治家になっても良い芸人は「ビートたけし」「島田紳助」位の物だ。
(太田光って人は既に某番組で「総理」になっちゃってるから却下)

あれ位に「頭がよく」「ソツが無い」人でなければ成功しない。
しかし、そういう人は「絶対」政治家などになったりしない。

とにかく、いまのとことは東国原氏の健闘を心からお祈りしようと思う。

今回も最後までお付き合いいただきありがとう。
これを読んだみんなが来る「統一地方選挙・参議院選挙」でタレント議員などに
投票しませんように。

たけし軍団の一人一人の「芸名決め」の時に、たけしが東国原氏に名前を
考えたが何も思いつかない。
そこで「東は、そのままだな・・・」と言ったのをラッシャー板前が
黒板に「そのまんま東」と書いたのが芸名の由来って知ってた?
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今は昔・・・。   ~大食い自慢の今は~

2007年01月19日 | Weblog
私は中年である。
今日の昼のニュースで悲惨な事故を報じていた。
87歳の男性が80歳の奥さんを乗せた自動車で、高速道路を「逆走」し
軽自動車と正面衝突して二人とも即死したと言う。

・・・個人的な差はあると思うが、80歳を過ぎた人の運転免許は一律に
「返納」させるべきでは無いだろうか。
私も母を交通事故で亡くしている。父の運転ミスでである。
その当時でも親父は68歳だった。

本当は70歳位でも「制限」をもうけるべき(本当は免許取り消しに
するべき)だと思っている「中年」である。


さて、先日外国でWil(最新ゲーム機って説明する必要があるのは私自身
くらいか・・・)を賞品とした大食い大会で、女性が水を多量に飲んで
死亡してしまったらしい。

そうした意味では、今日本が世界に誇り「暴動」を起こさせることができる
物は「ゲーム機」くらいの物なのだろう。

ソニーのプレステーション3を手に入れるなんて、完全なる「社会現象」に
なりつつある。

日本でも、以前中学生だか高校生だかの男の子が大食い大会のまねをして
死者がでて、その類のテレビ放送が自粛されていたが、この頃また「大食い
タレント」がチラホラ見え始めた。(ギャル曽根ちゃんとか?)


私は昨日夕食が遅くなり、好物の「チャーシューメン」を食べようと
したのだが、あまりに空腹だったので「大盛り」を注文した。

この「チャーシューメン」は、私の住む地域では「老舗」の食堂の名物で
厚めに切ったチャーシューをメンの上に載せる前にフランパンで焼いてくる。

20代のはじめから、時折思い出したように食べたくなる私の
   
         「思い出のラーメン」
       
                    なのだ。

細かい話だがこのチャーシューメンは10数年前に値上げをした時に
チャーシューの厚みを約1.5倍にした。

これが実は私には「悪い影響を及ぼした」ように思えてならない。

ボリュームのあるチャーシューを更にフライパンで焼くので、脂が
きつくなってしまい、それによって「美味いチャーシュー」の微妙な
バランスがそれ以来崩れてしまった気がしている。

最後の1/4ほどは、四苦八苦しながら腹に収めた。

     (俺も食えなくなったものだ・・・)

体型的にも完全無欠の「中年」になっている私だが、若い時には
「大食い大会」に一度くらいは出場してみたかったと思ったこともあった。

それが如何にボリュームがあるとはいえ「大盛りチャーシューメン」に
苦戦するようになってしまった。

10年ほど前にも、隣の町に蕎麦の大食いランキングがあり「一升蕎麦」を
20分以内に食べると壁に張り出されるイベントがあった。

その時も「試しに」と2人で1升蕎麦に挑戦したみたのだが、2人とも
朝食を抜いていったにも拘らず「やっとの思い」でやっつけた覚えがある。

一人で30分以内で食べる人間が居るのに、2人で45分近くかかって
やっとである。まあ、その時30代半ば・・・。

その時もショックだったが、今回も同じくらい、いやそれ以上に
がっかりしてしまった。

・・・あ、そうか明後日で俺も46歳か・・・。
・・・仕方ないか。

回も最後までお付き合いいただきありがとう。
これを読んだみんなが「バランスの良い食事」を摂って健康でありますように。

しかし、あの大食いタレント達の「食費」とトイレで使う「水道代」は
大変だろうなぁ・・・。
                                                                may






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楊中美著 「一つの中国・一つの台湾」読み終わりました。

2007年01月16日 | 
私は中年である。
不二家のことが大々的に取り上げられている。
「歴史は繰り返される」と言うが「雪印乳業」が同じようなことでほぼ解体された
ことを不二家の経営者は忘れたのだろうか?

人間の「清潔感」と言うのは、ひどく屈折したもので一人一人全く違う。
それを戒めるのは「他人の清潔感を受け入れ、さらに自分の清潔感を分からせる」
という矛盾した「衛生管理マニュアル」でしか達成されない。

また、人間は恐ろしいもので100人の中で85人くらいが「カラスは黒い」と
言えば残りの15人は「なんとなく黒いような気がする」って言うように
出来ている。

組織の中で「内部告発」をすることは並大抵の「気合」では追いつかないのだ。
調理を仕事とするものとしてこの騒ぎに「ゾッ」としている「中年」である。


さて、随分前に買ったおいた本なのだが読めずにいた。
それが

    楊中美著 「一つの中国・一つの台湾」

                        である。

今世界中から注目されている「北朝鮮」の陰に隠れて「中・台」関係が
認識不足になりつつある。(特に日本人は、このことに疎すぎる)

私のライフワークである
 「日本は何故、勝てる見込みのないアメリカに
                    戦争を挑んだか」の初期の
原因の一つが「中国への侵略」にある。

コレがひいては「中国の共産党vs国民党の内部革命」を激化を呼び、
最終的に蒋介石が「本土」を捨て、台湾に逃げ延び「中華民国」を建国せしめ
「二つの中国」の悲劇を生んだ。

ライフワークのカテゴリーを読んでもらうと分かるのだが、わたしの疑問の
答えを出すためには現在の東アジアの状態からさかのぼって、中国・韓国
・台湾・日本の関係を調べ直すことは大変重要だ。

この本は5年ほど前までの「江沢民の中国vs李登輝の台湾」の構図を
非常にうまく解説している。

現在は「胡錦濤vs陳水扁」の構図に変わってきているが、世界的な国と国との
対立(もっとも、国際的に「台湾」は微妙に国と認められていないが)としては
アラブ・中近東を除けば「最後の争い」と言えるだろう。

互いの国とも内部事情は決して平穏で無く、しかし互いに「絶対に許せない存在」
少なくとも「話し合い」でケリの着くことは今のところありえない。

田中角栄の最大の功績「日中国交正常化」は裏を返せば「台湾と国交断絶」を
意味していることを、認識している人がどれだけいたろうか。

日本が第二次世界大戦を引き起こし、自国もかつて無い「悲劇」を体験した。
その余波が「朝鮮分割」を生み、また「二つの中国」をも生んでしまった。

何かと「北朝鮮・韓国」のことがクローズアップされるが、本当の国際的
危険を孕んでいるのはこの「台湾海峡」を挟んだ中台の「軍事衝突」の
可能性の方だと、この本を読んでつくずく思った。

同一民族を2つも引き裂いた日本の「大東亜共栄圏構想」とは、いったい
どういうものだったのだろう。

まだまだ、興味は尽きない。勉強せねば!

今回も最後までお付き合いいただきありがとう。
これを読んだみんなが興味の無い硬い話に、飽き飽きしませんように。

李登輝って人は、日本の京都帝国大学卒って知ってた?
だから、日本語ペラペラなんだ・・・。

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週末の酒 (8) ~血縁のもどかしさと樽酒の思い出~

2007年01月13日 | 
私は中年である。
昔は「成人の日」といえば1月15日だった。
その日は「年賀状のお年玉抽選」の日でもある。

少し前から成人の日は「1月第一週月曜日」となってしまい、
「お年玉抽選日」がいつになった分からず困っている
「中年」である。

さて、正月の今頃になると思い出す「酒」がある。
少々古いがそのことをUpしようと思う。

わたしには不肖の叔父が居る。
10年以上行方不明になっていて、随分死んだ婆さんや親父をやきもき
させた人である。

ひょんなことからそんな叔父の居所が判明した。役所の転入手続きの
手数料「350円」を滞納したから払え、と言う手紙からだった。
(なんとも情け無い話だ)

問題なのは居場所の判明した叔父が20年数年ぶりに帰省する時の
「受け入れる側」の態度だ。

当時私は高校生を卒業したばかりだったと思うが、ある意味興味津々で
その時を待っていた。

家族中で数年に1度くらいその叔父の話が出るのだが、年老いていた婆さんは
困ったような顔をしてそれでも口では「かんまんどけ」(かまわないでおけ)
とぼそぼそとつぶやいていた。

親父は苦々しげに押し黙っていた。私が口を挟む余地は、もちろん無い。

そして、彼は帰ってきた・・・。

いまだに私は信じられないのであるが、その時婆さんは顔をクシャクシャに
して涙を流さんばかりに喜んでいた。テレビドラマのように抱きついて
泣いたりはしなかったが、気持ちは同じだったろう。

私の爺さんは私が生まれる前に亡くなっていてので、婆さんはその時点で
未亡人生活20年近くであった。子どもは息子が3人娘が4人。しかし、
4人の娘のうち2人は早くに失くしていた。

そうした中ではグレた息子であってもかわいくないはずが無い。
その対応は仕方の無いところだったろう。

しかし、問題なのは「親父の対応」である。

・・・親父も婆さんと同じ対応で「うれしそう」に彼を迎えたのだ。

私はまだ「青臭」かった。しかし、青臭いながらも考えていた。
親父には爺さんの代わりに「大声を上げる父親代わりの長兄」を期待して
いたのだ。

いかなる事情があるにせよ10年以上も行方不明である。
当時親父は50代であった筈でとても「丸くなる」様な歳ではない。

叔父の首根っこを掴み仏壇の前に座らせ爺さんの位牌に手を突かせる。
・・・なんてシーンを思い描いていたのだ。

しかし、うれしそうに「よかったよかった」と連発する親父を見て、
拍子抜けしたのを覚えている。


叔父がそんな経緯で家に毎年帰省するようになって数年間、正月には
「樽酒」を送ってくるようになった。

本人は「雪と寒さ」が大嫌いで盆にしか帰省しない。

年末から晩冬まで「両関」の薦被り(こもかぶり)が居間の端におかれる
ことになった。

一合升に木の香の強い冷酒(この時季居間においておけば自然と冷酒に
なっているのが雪国のよいところ・・・なのかなぁ)を溢れるほど注ぎ、
はしっこに「波の華」(何のことは無いただの塩)を盛り上げて舐めながら
飲む。

「両関」はたしか秋田の酒で我が地域の酒によく似た「端麗辛口」だった。
高校卒業したばかりだから、あまり堂々と飲むわけにはいかなかったが、
とても「美味かった」記憶が強い。

今私は「中年」となり、そのとき帰ってきた叔父の歳に近くなっている。
しかし、立場としてはその叔父を迎えた親父のそれに近い。

そして思うのだ。
やはり、親父のあの「うれしそうな態度」は間違いだったと。

「感情」でなく「けじめ」として叔父には仏壇に頭を下げさせる必要が、
家族全員で「けじめをつけた」ことを認識させる必要があったのだ。
けじめのつかないそれからの血縁の者達は、なにか釈然としないものが
いまだ漂っている。

「美味い樽酒」と「けじめのつかない親父と叔父の関係」のことを、
この時季になると思い出す。

今回も最後までお付き合いいただきありがとう。
これを読んだみんなが寒い冬に、風邪など召しませぬように。

結局、私は25年経っても「青臭い」ままなのかもしれない。

                                                                may
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池波正太郎気取りの正月散歩  ~蕎麦と日本酒~

2007年01月08日 | 
私は中年である。
先回は正月早々、エグイ事件についてUpしてしまった。
気分は良くないが、逆に「避けて通れない」事件であった。

今回はもっとほのぼのとした内容にしたいものだ。
ということでマクラに突入していく。

この間、不思議な出来事があった。

私が車で走っていた時の話。
突然、目の前に「小石」が飛んできたのだ。

私の車の前には全く通行しているものはなかった。
後ろにも車は走っていなかったし、歩行者・自転車・バイク・飛脚・武士
駕篭掻き・旅芸人の一座なんかも居なかった。(江戸時代か!)

しかし、その小石は信じられないくらい上から降ってきて、アスファルトの
道路を撥ねてフロントガラスに鈍い音を立てて更に撥ねていった。

唖然として私は思わずその石の行き先を目で追った。

そしてそこには・・・・。なんと烏(カラスと読むんだよトリじゃないよ!)が
その「石」を嘴で弄んでいたのだ!

話には聞いていたが、本当に烏は車を利用して木の実を割るんだ・・・。
感心するやら、道具にされたことに対して腹立たしいやらの「中年」である。


さて、私は池波正太郎ファンであることはUpしていたと思う。
特にエッセイのファンだ。
彼の「食通」は有名であった。特に東京の下町の味・江戸文化の香りの残る
味についての記述物は多い。

その中でも「蕎麦」に関する話が、私にはとても興味深かった。

東京蕎麦の食べ方として有名な「蕎麦の下の方だけつゆにつけてすすりこむ」
事に対しての理由も、しっかりと書いてある。
書いちゃおうかな~~~。でも、このことは結構池波氏のこだわった部分
だしな~~~。まあ、今回はやめておこう。もし、機会があったらどこかで
そうして食べる理由を書くことにする。

私の住んでいる地方もちょっとばかり「蕎麦」に関しては特徴のある
地域だ。

何が特徴的かというと蕎麦のつなぎに「ふのり」を使うのだ。
東京蕎麦は普通は「二八蕎麦」と言うくらいで、そば粉が8に小麦粉が2の
割合で蕎麦を打つ。最近はそば粉10割の「きこ打ち」にこだわる職人も多い。

蕎麦とは不思議な食べ物で、普通の料理人の修行と全くリンクしない。
蕎麦一筋で修行をする人は、他の料理を勉強しなくても店を持ち「繁盛」
させることが出来る。

昔は「脱サラ」といえば「ラーメン屋」だったが、最近は「蕎麦や」の方が
多いとも言われている。

正月の松も明け、いつもの生活に戻っていく中で「自営業」の池波氏の
行動を真似てぶらりと人足の空いた蕎麦屋に入った。

「焼き海苔」で酒を・・・と言いたいが、我が地域では蕎麦屋のつまみに
「焼き海苔」は無い。少々甘めの味付けの「おでん」で酒を1合。寒い日には
全く応えられない。更に1合酒を頼み「鴨せいろ」とともにゆっくりと飲る。

池波氏のような戦中派の「食」に対する「強いこだわり」は私のような中年には
持てないし、大雪の降る田舎に住んでいる中年男には東京の下町育ちの彼の
ような「感覚」もよく分からないと言うのが本音だ。

しかし、45年生きてきたなりの「時と経験」の重さが体に染み入るような
時間を「蕎麦や」でなら、味わうことができるのだ。

何事も「○○気取り」をすることが、本当の「自分らしさ」を見つけるための
「鍵」になる。

そうした意味で、私は「池波正太郎」という名時代劇作家を「人生を楽しむ
鍵」として持っている。幸運だと言えるだろう。

今回も最後までお付き合いいただきありがとう。
これを読んだみんなが蕎麦を大きな音を立ててすすり込んで食べますように。

蕎麦はズルズルと音を立てて食べるのが「正式」なのだからね。

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またマクラで終了    ~恐怖を超えた感覚~

2007年01月05日 | 時事ネタ
私は中年である。
いつもブログの本編に入る前に「マクラ」を振る。

「マクラ」というのは「枕詞」(まくらことば)から来ているのだろうが、
私は落語家が落語の本編に入る前に、本編と関係ないことを自分の舌の動きを
良くしたり、お客の反応を見るための小話の事と思っている。

前には、この「マクラ」の方に力が入りすぎてそのまま終わったこともあった。

今回もそうなってしまいそうなのであるが、今回のマクラは
「短大生遺体切断事件」である。

最近の殺人事件の多さは目を覆わんばかりだが、今回のこの事件も
今まで以上に「衝撃的」だ。

いまや猟奇的な殺人事件は多いが「自身の妹」を殺すばかりでなく、
「切断」して「押入れ」に仕舞い、合宿から帰ったら「捨てる」つもりだった。
というのはとても「人間の所業」ではない。


少し昔話をする。
プロレス華やかりし頃、反則技の「噛みつき」を売り物にした
「フレッド・ブラッシー」なるアメリカンレスラーがいた。

彼の試合での「顔面が血まみれのアップ画面」を見た老人がショック死する
という事件がおきたのでも有名のレスラーだ。

彼が日本に来てインタビューを受けた時の話である。
当時の悪役レスラーは「馬場に(ジャイアント・・・と説明しても分からない
人も増えたかな?)棺桶を用意しておけ!」とか「馬場を病院送りにしてやる!」
くらいのセリフをよく吐いていた。(それでも当時は震え上がったものだ)

しかし、彼はインタビューに答えてこう言った。
「俺の前に立つ奴は、みんな血まみれにしてやる・・・。たとえ、それが
 俺の母親でもな・・・・」
このセリフは、怒鳴り散らす大柄なレスラーより数段「怖かった」

人は「人殺し」というものに非常に恐怖感を抱くが「母親殺し」と聞くと
「殺人者」以上の得体の知れない感覚を覚える。

ブラッシーのセリフは多分に恐怖感を煽るための「デマカセ」であることは
分かっていたが、それでも口にして良い言葉ではない。

そうした時から30年近くが経ち、本当に「身内を殺す」人間が出てきたのだ。

しかも「首を絞め、鈍器で頭を殴り、顔を水に沈めて」殺したのだ。
もはや「カッとなって」のセリフに信憑性があるとは思えない。

さらに、人を殺したことに対する意識として「罪の意識の低さ」には
本当に恐怖する。

自首することもせず、あまつさえ鋸や包丁を使って「切断」し隠して
置いたという。

本当に発覚しないと思ったのだろうか?本当に罪を感じないのだろうか?
そうした「猟奇殺人」を犯しておきながら「予備校の合宿」に参加して
いるのである。

卒業した高校・通っていた予備校の関係者が口をそろえて「生活態度に
問題のある生徒ではなかった」と言っていることに、更に得体の知れない
恐怖感を増加させる。

「なにがなんでも歯科医」とこだわった人格。それを望んだであろう両親。
それらを含めた中での兄妹の不自然な関係。そうしたものが生んだ

        「特異な尊属猟奇殺人」

ということなのだろう。

いや、きっとそうだ。そうだと言うことにして「特異なこと」と納得せねば、
いつまでも恐怖の震えが止まらぬ「中年」である。


ってやっぱりマクラで終わってしまった。新年早々身の毛のよだつ話を
こんな風にUpしたくなかったんだけどとても避けて通れる事件ではない。

今回も最後までお付き合いいただきありがとう。
これを読んだみんなが親兄弟の絆の強さを再確認しますように。

私はハエ一匹殺すのにも勇気を振り絞らねばハエ叩きを振り下ろせない・・・。

                                may






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07’正月中年事情   ~今年のブログを考える~

2007年01月02日 | Weblog
私は中年である。
気がつくともう1月2日になっている。

中年の正月などというものは、本当にハンコを押したように
毎年同じだ。

年末に兄弟タチが帰省してお晦日から元旦にかけて「酒三昧」が続く。
娘達が姪っ子たちと大騒ぎをする。親父も酒をのんで呂律が回らなくなる。
そんなことばっかりだ・・・・しかし、今回の年末年始は少しだけ違った。

「二日酔い」をしなかったのだ。(なんだそんなことか)

ごく当たり前なのだが「おいしく」酒を飲みたいと思う気持ちが強くなった。

このブログでも何度かUpしたが、私のサケ漁は(違った)酒量は
だいたいビール1本に酒2合くらいなもので、とても「酒豪」と呼べる
物では無い。

どうせ大した量飲めないのであれば効率よくおいしく楽しく飲むべきだ。
と40代半ばになってやっと分かってきた「中年」である。


さて、新年初めてのブログであるから今回はまさに「ブログ」のことに
ついてUpしようと思う。

私がこのブログを始めて10ヶ月が経った。このブログを読んでいる奇特な
人は気がついていると思うのだがこの「ブログは画像を使わない」

「百聞は一見にしかず」ということは重々分かっているのだが、まず
「言葉だけ」で進めていこうと思ったのだ。

逆にそのことで分かってもらえないことや誤解されている部分があるとも
思えるのだが、しかし、やはり「言葉」で進めていくことに自分の可能性を
見出そうと思っている。

そのせいもあるのだが「なるべく漢字を多く使う」
テレビ番組などでも良くやっているがこのごろの日本人はあまりに漢字を
読めなすぎる。・・・そんなことを個人のブログで鍛える必要も無いのだが・・・。

そのことの意味においても漢字を使うことで言葉自体の可能性が広がると
思うからだ。

異常に「」(かぎ括弧)が多い。文章をHTML方式にする気が無いので、
文章のメリハリをそれ以外ではつけようが無いのでそれを多用している。

人によっては「それが嫌い!」という人も(あ、また使っちゃった)居るだろう。
それについてはご容赦頂きたい。

「ブックマーク」に他の人のブログを載せない。これは、単純に「物臭」な
だけなのかもしれないが、他の人のブログに行ったときにコメントを書く時
必ず自分のURLを入力しておけばブックマークの必要が無いと思うからだ。
トラックバックも同様。(あれ、コメントしておけば同じじゃないです?)

当然、アフェリエイトもやる気は無い。ブログを「金儲けに使う」ことの
意味が分からない。

ブログをはじめてから私の生活に「張り」が出てきた。悶々としていた
気分がブログによって解消されたことも度々あったし、それによって
自分自身を見つめなおすことも出来ている。

逆に強迫観念に駆られて「更新せねば、更新せねば~~~!!」と、誰にも
責められもしないのに「締め切りに追われる作家」みたいになってりもしたし、
たった1400文字程度のブログに2時間以上も掛かったりしたが・・・。

昨年の大晦日前の30日にはアクセス数が三桁になって驚いたが、とても
うれしくもあった。そんな奇特な人が居てくれると思うと、たいしたブログ
でもないが、出来る限り続けていこうと思っている。

今回も最後までお付き合いいただきありがとう。
これを読んだみんなが、大いなる2007年に大きくはばたきますように~~。

早いもので今年も、もう364日しか無いですよ。
                                 may










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