完全無欠な「もうすぐ前期高齢男」日記

「もうすぐ前期高齢男」に進級「老いの自覚」を中心にUpしていきます。

早起きは・・・・。      ~桂文枝の新作落語を聞く~

2019年05月19日 | 落語



私は初老男である



最近、生活のリズムが崩れている。



しかし、若いときのように遊びや暴飲暴食による乱れではない。





単純に歳を重ねた故なのだろう。




「寝れない」のである。





いや、正確ではない。





ひどく眠いのである。




しかし、規則正しくないのである。





昼間異常に眠かったり、夜しっかり眠れなかったり・・・。





最終的には今日の朝のように、4:30に目が覚めてしまうこともある。






数年前まで、それでも無理矢理床にいれば6:00頃まで起きることは無かった。





今は、何より「尿意」を耐えられないのである。





仕方がないのでテレビをつけると、某国営放送が園芸番組をやっていた。






        桂文枝の演芸図鑑「桂三度 桂文枝」





                         である。





いろいろ異論があるかもしれないが、桂文枝は上方落語界では随一の新作落語家である。





いまや「色事」で、スキャンダルを取り上げられて評判を落としているが・・・。






ホンの三〇年前ほど前まで、芸人にとって「アソビ(飲む・打つ・買う)は修行の内」と言われていた。





まあ、時代的にもチュチエーション的にもしょうがないって気もするけど。





ということで桂三度「先生 ちゃうねん」である。





申し訳ないことに、途切れ途切れに聴いた上にオチを聞き逃してしまった。





出来は悪くなかったと思う。





しかし、スタジオでの落語でありがちな「お客との相性」があまり良くなかった。





新作落語のむずかしさの中に「時空の壁」というモノがある。





「古典落語も最初は新作落語」と言う言葉があるが、それはこれから先に時間が経っても、聴く側に共感できる価値観がなければならない。





しかし、それは結果でしかない。そんな風にばかり考えていたら新作落語など作れない。






この演目は観覧者の人たちには、少々若向きだったのか「ラクロス」等々の細かいディティールに「?」の雰囲気が丸見えだった。





それこそがこの演目の「おもしろさ」につながっているので、そこに「?」と思われてはウケはしない。




しかし「世界のアベアツ」として爆笑ネタを披露していた彼が、こうした落語家になっていることに感慨は深かった。






そして、文枝の「やさしい言葉」






文枝の三枝時代のキレの良さや、勢いのある芸を知っている者としては・・・。





薄くなった髪や小刻みに震えている様子を見ると、残念ながら今の状況を反映して「衰え・落胆」に見えてしまう。






話芸のうまさは当然増しているし、その存在感はさすがなのだが、私が持っている彼へのイメージ「カミソリのような鋭い切れ味」が薄れている気がする。




演目自体も、三度の時ほどでは無いけれど観覧者との息が今一つあっていない。




収録時間の関係もあるのだろうけれど、もう少し「間」の取り方やひねりを加えればもっとウケただろうに。






当然なのかもしれないけれど、三度のネタより文枝のネタの方が「古典落語」まで残っていく「時空を越えていく」可能性は高いと思う。





落語以外の活躍の方が目立った文枝には、これからの落語家としての活動が、ある意味むずかしいのかもしれない。





今回も最後までおつきあいいただきありがとう。これを読んでいるみなさんも、落語というものの奥深さにふれますように。




          May





スキャンダルによって「桂文枝、人間国宝は絶望」なんて記事があったけれど「芸人には、そんなもんいらんわい!」っていって欲しいなぁ。
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こういうことだったのか・・・。     ~初老男の好奇心を満たすもの~

2019年05月12日 | 



私は初老男である。





この頃特に思うのだが・・・。





60代目の前まで生きてくると







           「なるほど、こういうことだったんだ・・・」






と思うことが多い。







物事の「裏側」を描いた「今だから言える」などの本などを、この頃好んで読んでいる。










その中の1冊








          「1964年のジャイアント馬場」







                       の感想をUpしようと思う。











今の若い人たちには、絶対に分からないほど「プロレスリング」というモノは、我々初老男にとって特別なものだ。







今のプロレスではない。






私が小学生~中学生になるころのそれである。








ただ、私の世代にとっては「日本プロレスの父」的存在の「力道山」はリアルタイムではない。







私が見たのは「ジャイアント馬場(日本プロレス)」と「サンダー杉山・ストロング小林(国際プロレス)」である。







しかも、どちらかといえば国際プロレスが中心である。







笑われると思うのだが、プロレスにおける「格闘技性」をかなり本気で信じていたし我々よりも年上のおじさんたちは、さらに濃厚にその意識を持ってそのことを「討論したり」していたっけ・・・。






アントニオ猪木による「異種格闘技戦」や「タイガーマスクの登場」などをピークとして興奮をもって観戦していた。






全日本プロレス・新日本プロレス・国際プロレスの3団体から、国際プロレスが解散し長州力の反乱等々がありプロレス団体の多様化が進む中で、私は徐々に興味を失っていった。






そこから現在までに「総合格闘技」や「K-1」等々の細分化がなされる中で、私にとってプロレスはほとんど意味を持つものでは無くなっている。







そうした中で見つけたのがこの本である。






もしかすると、平成生まれの人たちには「ジャイアント馬場って誰?」って話かもしれない。







ただ「郷愁」というだけでなく、私たちの世代にとってジャイアント馬場という人は「長嶋茂雄」に匹敵するヒーローであり、それ以後のプロレス界から現在の多様化された格闘技界への変革のポイントになる人であるろう。







この本は、そうした意味において「とても、とても興味深い」内容であった。









私は彼の全盛期を知っているのだが、それでも「それほど凄かったの?」と思わされた。








今更ながら当時の「アメリカのプロレス事情と日本のプロレス事情の差」に驚き、レスラー自身の実力・報酬は、実は本人の「政治力」や「アイデンティティ」によっているということを痛感させられた。








40年近くの時が経って「ああ、そうだったのか・・・!」と腑に落ちることが、多々あった。








長く生きてきて、こうした「裏側」が分かってくることにとても「快感を覚える」今日この頃である。







今回も最後までお付き合いいただきありがとう。これを読んでいる皆さんも「腑に落ちる」ことの快感を忘れませんように。








              May






この「腑に落ちる」感覚の本やテレビ番組を、これから幾つか続けてUpしようと思ってます。










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