私は初老男である
最近、生活のリズムが崩れている。
しかし、若いときのように遊びや暴飲暴食による乱れではない。
単純に歳を重ねた故なのだろう。
「寝れない」のである。
いや、正確ではない。
ひどく眠いのである。
しかし、規則正しくないのである。
昼間異常に眠かったり、夜しっかり眠れなかったり・・・。
最終的には今日の朝のように、4:30に目が覚めてしまうこともある。
数年前まで、それでも無理矢理床にいれば6:00頃まで起きることは無かった。
今は、何より「尿意」を耐えられないのである。
仕方がないのでテレビをつけると、某国営放送が園芸番組をやっていた。
桂文枝の演芸図鑑「桂三度 桂文枝」
である。
いろいろ異論があるかもしれないが、桂文枝は上方落語界では随一の新作落語家である。
いまや「色事」で、スキャンダルを取り上げられて評判を落としているが・・・。
ホンの三〇年前ほど前まで、芸人にとって「アソビ(飲む・打つ・買う)は修行の内」と言われていた。
まあ、時代的にもチュチエーション的にもしょうがないって気もするけど。
ということで桂三度「先生 ちゃうねん」である。
申し訳ないことに、途切れ途切れに聴いた上にオチを聞き逃してしまった。
出来は悪くなかったと思う。
しかし、スタジオでの落語でありがちな「お客との相性」があまり良くなかった。
新作落語のむずかしさの中に「時空の壁」というモノがある。
「古典落語も最初は新作落語」と言う言葉があるが、それはこれから先に時間が経っても、聴く側に共感できる価値観がなければならない。
しかし、それは結果でしかない。そんな風にばかり考えていたら新作落語など作れない。
この演目は観覧者の人たちには、少々若向きだったのか「ラクロス」等々の細かいディティールに「?」の雰囲気が丸見えだった。
それこそがこの演目の「おもしろさ」につながっているので、そこに「?」と思われてはウケはしない。
しかし「世界のアベアツ」として爆笑ネタを披露していた彼が、こうした落語家になっていることに感慨は深かった。
そして、文枝の「やさしい言葉」
文枝の三枝時代のキレの良さや、勢いのある芸を知っている者としては・・・。
薄くなった髪や小刻みに震えている様子を見ると、残念ながら今の状況を反映して「衰え・落胆」に見えてしまう。
話芸のうまさは当然増しているし、その存在感はさすがなのだが、私が持っている彼へのイメージ「カミソリのような鋭い切れ味」が薄れている気がする。
演目自体も、三度の時ほどでは無いけれど観覧者との息が今一つあっていない。
収録時間の関係もあるのだろうけれど、もう少し「間」の取り方やひねりを加えればもっとウケただろうに。
当然なのかもしれないけれど、三度のネタより文枝のネタの方が「古典落語」まで残っていく「時空を越えていく」可能性は高いと思う。
落語以外の活躍の方が目立った文枝には、これからの落語家としての活動が、ある意味むずかしいのかもしれない。
今回も最後までおつきあいいただきありがとう。これを読んでいるみなさんも、落語というものの奥深さにふれますように。
May
スキャンダルによって「桂文枝、人間国宝は絶望」なんて記事があったけれど「芸人には、そんなもんいらんわい!」っていって欲しいなぁ。