完全無欠な「もうすぐ前期高齢男」日記

「もうすぐ前期高齢男」に進級「老いの自覚」を中心にUpしていきます。

「政治と人間の心理」に関する考察   ~大学の卒論みたい~

2007年05月31日 | 時事ネタ
私は中年である。

昨日、藤原紀香と陣内智則の披露宴がテレビ中継されていた。
しかし、本人達には悪いがまったく「披露宴」としての緊張感が伝わって
こなかった。

よくもわるくも二人とも芸能人である限り、避けられないことなのかもしれないが、
披露宴自体がテレビ向けの「番組」になってしまっている。

藤原紀香はK-1グランプリとかのホステスをやっていた時に、散々昨日のような
ドレスを纏った姿を見ているし、となりの新郎もタキシードなので、まさに
K-1武士道の予選大会中継みたいに見えた。

豪華なゲストやお笑い仲間のコメントも、いかにもセリフを「言わされている」
ようにみえるし、全体的な「空々しさ」だけが伝わってきた。

「中年」の私には、結婚に対する真摯な気持ちの不足が「良くない結果」につながる
ように思えてならないのだ・・・。


さて先回のブログで、7月の参議院選挙の前に「何か事件がある」と予想したのだが、
こんな形の「事件」だったとは予想外だった。

松岡農相の諸々の問題は、結果的に言えば昔に比べて「大臣」の地位・役割が
「政治の道具」になったことを意味している。

大臣個人の話が「任命責任」の名の下に、野党が突っ込んでくることが多いので
逆にやめさせないことで責任を取らない。

こんなことが「現職大臣の自殺」につながった気がする。

コイズミ総理がやった「自民党破壊」は「派閥破壊」であったわけで、今回の
ようなことは、昔の自民党ではなかった。

なんだかんだ言っても派閥の長が、党内や社会的常識のバランスを取って
お互いをけん制した中で大臣の数や政策に関係していたが、現在はそれが
とんと薄くなった。

それが証拠にこの頃派閥の長が誰だかほとんど報道されない。

私は昔の「派閥中心」の自民党が良かったなどと言うつもりは無い。
しかし、そこにはまだ「政治家の良識」が生きていたように思える。


・・・なんていっていたら、6月1日には「強行採決」は行われなかった。

しかし、こうしたことは「したか、しないか」は問題ではなく、今の総理が
そういう姿勢で政治に向かっていることが問題なのだ。

本当は簡単に通して良い法案であり野党が駄々っ子になっているのかも
しれないが、私達の目に入ってくるのは「強行採決」によるドタバタだけだ。
そこには無理やり法案を通している与党の姿がある。

安倍ゾウリは「小泉内閣の路線を継承する」といっていたがそれは政治手法を
完全に間違っている。
コイズミ総理は「魔法の力」があったのだ。いっていることがムチャクチャなのに
国民を妙に納得させてしまうという力が・・・。

安倍ゾウリは、自分にはその「魔法の力」が無いことに気が付いていない。

昔の歴代総理の中曽根総理までは、良くも悪くも自分の目指す「日本」が
頭の中にあり、それを実現するまであらゆる方面に気を配った。

しかし、それ以降の人は「目指す日本」の姿を失い、目の前のことに執着
するようなった。日本の先々より「自分の先々」のことに・・・。

コイズミ総理は、中曽根氏までの総理に近くはあったが「郵政民営化」と
いうことがその先の「目指す日本」につながってはいなかった。郵政民営化で
「終わり」だったように見る。

それなのに「本質を見抜けなかった国民」が彼を「有能な総理」にしてしまった。

安倍ゾウリは逆に抽象的な「美しい国」などと訳の分からない事を言い出している。

つまりコイズミ総理のような具体的なものを見つけられない。見つけても
コイズミ氏のような「魔法の力」は持っていない。

だいたい、若くて人気があるというだけの安部氏を総裁にしてしまった自民党も
末期的だね。

政治の話をUpする時はいつも言うことを示して、ちょっと長い今回の記事を
終わりにしよう。

「政治においては”バランス的緊張状態”だけが、政治家を真剣にさせる」

いつ自分の地位が逆転するか分からないから必死で活動するのだ。
安穏とした「自民党独裁状態」をそうした状態にしなければ「良い政治」は
行われない。

7月の参議院議員選挙ではそうした「緊張状態」を作るように、投票には必ず
いきましょう!!

今回も最後までお付き合いいただきありがとう。
これを読んだみんながたまにでよいから「政治」のことを真剣に考えて
くれますように。
                          may

もうこれ以上の「政治的事件」はおこらないだろうなぁ・・・。




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宮本輝著「優駿」読み終わりました。  ~エッ20年以上も前?~

2007年05月26日 | 
私は中年である。

さて、参議院選挙まで2ヶ月となったが、このまま選挙戦に突入するのであろうか?

このままでは、またあまり「争点」のない選挙戦になりそうだ。

「憲法改正」や「年金5000万件行き先不明」「教育問題」なんて、本当はス~~ゴク
大事な事なんだけど、決定的な「論議」を呼びそうに無いもんね。

そうした意味で、かなり状況は違うにしてもコイズミさんの「衆議院解散」での
「郵政民営化」を前面にだした選挙戦は「うまかったなぁ~~」と感心する。

コイズミさんは政治家としては結果的にいえば「大した人」だったのだろう。
しかし、頭の良いタイプの政治家ではなく「運」が良いタイプの政治家だ。

まあ、国民があまり利口でなく、彼のパフォーマンスによって「本質」を
見ることができずに投票しちゃったの感はあるけどね。

あとに2ヶ月の間に「政治的事件」が何か起こるんじゃないかなぁ・・・。

正確に言えば「誰か」が「なにか」を起こすんじゃないかと思うんだけど。

そうしなければまた「利口でない国民」は、こんなヒドイ政治をしている
「自民党」なんかを勝せちゃうよ~~~。

それだけはやめて欲しい「中年」である。


さて、先回Upし損ねたネタを披露しようと思う。

         宮本輝著 「優 駿」 

                     読み終わりました。

ちょうど今日3歳馬の日本一を決める「日本ダービー」が行われてただ一頭の
牝馬「ウォッカ」が牝馬としては64年ぶりに優勝した。

競馬は時に劇的で、数十年に一度「社会現象」になるサラブレットが登場する。

「ディープインパクト」「トウカイテーオー」「オグリキャップ」等々
馬券を買ったことが無い人でも名前を知っている馬が・・・。(若い人は
後の2頭は知らないか?)

そこに「ギャンブル」を超えた「血脈の奇跡」が、人々を感動に与える。

今回の「ウォッカ」はそこまでの馬ではないかもしれないけれど「快挙」で
あることは間違いない。


宮本輝氏は、私の目からは関西人の持っている「もう一つの一面」を感じる
人物だ。

「青が散る」の時もそんな話をしたが、私にとっての関西人のイメージは
「お笑いの本場」で大笑いしているオバちゃんであり、「カネカネカネ~!」と
絶叫している庶民達って感じだ。(関西の人達、気分を害さないで頂きたい)

そうした中で、宮本氏の作品はほとんどが「関西」が舞台となり、話す文体も
「関西弁」が自然に出てくる。

その中に私の持っていたイメージの人たちやシーンではなく、そうした面の
裏側に「物悲しい憂い」みたいなものを感じさせるのだ。

そして「優駿」の話。

普通はどんな小説も「主役」がいて「脇役」が居る。「メインストーリー」があり、
「サイドストーリー」がある。

しかし、この小説はその「主」と「脇」がほとんど「無い」といってよい。

すべて「主」になっているのだ。

物語は主人公(っていえるのかなぁ?)3歳馬の「オラシオン」という名の
サラブレッドなのだが、その馬の生まれた牧場「トカイファーム」の話。
馬主となった和具(ワグ)家の親娘、そして異母姉弟。
馬の調教師とジョッキー「奈良」の葛藤。

この3方向からの物語が見事に独立した小説になっている。

そうした意味では3冊の本になってもおかしくなかったはずだ。

前にどこかのUpで書いた気がするが、この小説は映画化されたのだが、
これほど完成度の高い話を映画にするのは無理がある。

細かいデティールに伏線がいくつもあり、それらを映像として理解させるには
2時間あまりの映画では絶対に無理だ。

それにつけてもこの本が昭和57年から61年にかけて連載されたことを
考えれば26年も前の小説だということに「驚愕」する。(!)

携帯電話はおろか、FAX・パソコンだって珍しい時代だ。
しかし、良い本は「時代」を超えている。一読をお奨めする。

今回も最後までお付き合いいただきありがとう。
これを読んだみんなが良い本に出会い、感動を手に入れますように。

                              may

ちなみにその時の映画のキャストを列記しておく。
渡海親子(牧場主親子)緒方拳・直人親子
和具平八郎・久美子(馬主)仲代達也・斉藤由貴、平八郎の秘書・多田
石橋凌。緒方直人はこれがデビューだったような気が・・・。


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弁護士という名の厚顔無恥な面々  ~光市母子殺人事件の犯人弁護~

2007年05月24日 | 時事ネタ
私は中年である。

昨日、亀田興毅の試合があった。

8回TKOで勝ったという。

決してボクシングファンではない私だが、歴代のチャンピオンの試合は見てきた。

そうした中でも、これほど「バランス」の悪いボクサーも珍しい。

ボクサーというのはどこまでいっても「ボクサー」なのだ。

「肉体」に自信があればあるほど「知性」を身に付けないと尊敬されない。
尊敬などされたくない。といいそうだが、尊敬されないというのは「バカ」と
みなされることだ。

それも物事に真剣に取り組んでいるという意味ではなく、まさに「頭が悪い」と
言う意味で・・・。(この場合本当に頭が良いかどうかは余り問題ではない)

亀田一家が全員そうであるなら、なぜ回りにそれを諭す人間が居ないのかが
私には不思議でしょうがない。良くも悪くもTBSあたりが本当の「商売」に
するつもりなら、そうしなければ最終的には「嘲笑」しか残らないと思うけど。


今日ある事件の差し戻し控訴審が始まった。

            「光市母子殺害事件」
                       である。

この事件はあまりにも有名だから、知らない人は居ないと思うけど
24日付けのニュースが溢れているの読んでほしい。

弁護士が21人になったという。

依頼したわけでも無いのに(個人名を挙げて被告が依頼したとは思えない)
なぜこれほどの弁護士が集まったか?

どうやら「死刑廃止」を世間にアピールするためらしい。


最近、法律関係のバラエティに個性豊かな弁護士タチが登場しているが、
どうやら「弁護士」というのは「職業」であり、やっぱり人間がやっていることに
かわりがないと分かってきた。

それでも私の感覚としては、弁護士という人たちは「頭の良い人」の代名詞の
ように思っていたのだが、結構「バカ」で「人の心」が読めない人たちらしい。

これだけの事件に、21人の弁護士が集まれば「裏に何かある」と考える方が
自然で、本当に裁判に勝つ気ならなるべく目立たない方法を取るべきだろう。

しかも、この事件の本質と関係のない「死刑廃止論」を前面に出すとすれば
事件そのものを「冒涜」していないだろうか・・・。

この事件を利用した「売名行為」にも、私は感じる。

この21人がいかに時間を使って論説を尽くしても、被害者の夫であり父である
本村さん一人が話す数分の話の方が説得力がある。

逆に言えば「法律」がどうであっても、この加害者を一般市民は「感情」として
許せないのだ。

あなたは許せますか?自分の妻を強姦し絞殺し隣で泣いていた娘を床に
叩きつけて殺した犯人を。法律で「無期懲役」とかにされて許せますか?

何とかして復讐したいと思いませんか?もし、この犯人がそうなったら・・・
私は何年かかっても探し出して「処刑」することしか考えないだろう。

この犯人を様々な「虚言」を弄して「弁護」すること。また事件の本質と関係ない
「死刑廃止論」を抱き合わせようなどと考えるなど「弁護士」という職業を
世間的に貶める行為以外の何物でもない。

21人全員が「本当」に加害者の犯行が「傷害致死」であると考えているとすれば
逆に「恣意的なもの」を感じざるを得ない。

・・・少々興奮して書き綴ってしまったが、この事件には随分前から
「思うところ」があり注目してきたため支離滅裂になってしまったかもしれない。

このブログを呼んでいる皆さん、注意深くこの事件を注目していて欲しい。
「法」などというものは元々「不備」にできているのだ。そのことをカバーするのは
人間の感情であり、それが集まった「世論」や「裁判官の意識」なのだ。

「一般世論」としていい加減な「判決」を許してはならない。

今回も最後までお付き合いいただきありがとう。
これを読んだみんなが、「法律」などという脆弱なものでなく、犯罪の「本質」が
見抜けますように。

8年の間、苦しみ続けてきた本村さんに対して、この弁護士達は恥ずかしく
無いのだろうか・・・。

                             may

追記
 
 少々調べてみたが、今回の21人の弁護士は「裁判制度」そのものに対して、
 今回の裁判の手順にたいして、法律上の間違いがあると主張し、更に
 マスコミが死刑を焚きつけている、と言いたいらしい。

 しかし、である。そうしたことを主張するにしては余りに人間としての
 「ある部分」を刺激しすぎる事件ではないだろうか?
 (まあ、だからこそ主張するのだって逆説もあるけどね)
 
 「未成年・性犯罪・乳児殺害」の問題点だらけの事件だが、やはり「本質」を
 見誤ってはならない。そこに「感情」が介在するのは仕方の無いことだと
 思う「中年」である。

  




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やっとこの歳で・・・   ~物の価値を知るむずかしさ~

2007年05月21日 | Weblog
私は中年である。

人間歳を取れば取るほど「運」というものの非情さに気付かずに居られない。

立てこもり事件で殉職した特殊部隊SAT所属の林一歩氏は、防弾チョッキの
数センチの隙間に弾丸が入り死亡したという。

私はもちろん防弾チョッキの構造を知らないが、物理的に最後は「死なない程度」
にしか作れないはずだ。

絶対に大丈夫な防弾チョッキを作ったら、身動きができないものになってしまう。

「死亡」の確率は、それでも10%以下のはずだ。

それでも人間は死んでしまう・・・「運」がない。としか言いようが無い。

果たして私は運がよいのか、わるいのか・・・分からない「中年」である。


唐突であるが「サイフ」を買ったのだ。

俗に言う「大人買い」に躊躇しなくなった。

中年になって「大人」も無いもんだって気もする。

いまでもかなりの部分がそうなのだが、ものを買うときに「値段」で決める。
まあ、安いに越したことはないし・・・。

しかし、物の「価値」と「値段」は、買う人の感性によって決まるといえる。

言い換えれば「買い物」には、その人の「人生」そのものが反映されていると
言って過言でない。

更に恐ろしいことに、我が地域では「男物のサイフ」は本当に種類が売って
いないのだ。

980~1980円なんてサイフばっかりで、値が高いものがあっても「機能性」が
考えられていない。(田舎はいやだねぇ)

年度末には、他の新製品が出し渋られるのか本当に良いものが無かった。

やっとそれなりの物が見つかって手に入ってご満悦である。

価格は4000円。(やっぱ安物ジャン!)

使い勝手は非常に良い。皮が柔らかい。小銭入れがガバっと開く。
カードがいっぱい入る。

何よりもサイフは「消耗品」なのだ。本当は1年ごとに変えるべきなんだろうなぁ。

この歳になって、やっといろんなことに対して、何に価値があり価格はいくら
までが適正なのか、わかるようになってきた。

そういったら悪いけど、女子高校生とかが「ブランド物」を欲しがったり
するのは分からなくは無いが、間違いなく「豚に真珠」だ。

物事には「釣り合い」というものがあり、ある程度の「人格」「年齢」
「収入」「立ち振る舞い」などがそろっていないと、身に着けてはいけない
品があるのだ。

逆にある程度の年齢になったら「それなり」のものを身につけ無ければ
いけないのだ。

そのことを「中年」になってそのことが良く分かるようなってきた。

今回も最後までお付き合いいただきありがとう。
これを読んだみんなが、歳相応の品を身に着けられますように。

人間「無理」が一番良くないです。「自然体」で過ごせばおのずとそれなりの
品を身に着けることができますヨ。           
                              may





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「マニュアル」の先にあるもの  ~どれだけの高さでものを見れるか~

2007年05月17日 | Weblog
私は中年である。

自分の母親の「頭部」を切断して持ち歩き、警察に自首した高校生の男の子がいる。

警察の取調べに対して、素直に答えているが「反省」の色は一向に見えないという。

それが「刑事責任」を問えないのではないかと、警察は対応に苦慮しているらしい。

「猟奇殺人事件」の多発は、日本の現代においての特長であろう。

人間は本能的に「血を流す」ことに恐怖感を抱くようにできている。
しかし、その部分が摩滅していたり、元々持っていない人間が時たま居る。

神戸「酒鬼薔薇聖斗事件」の少年A・大坂池田小襲撃の宅間 守などは、
そうした人間なのだと私は思う。

これは「現代日本」の特徴ではないだろうか。

そしてそれが恐ろしいのは、この人たちはおそらく見た目に「凶暴性」を
纏っていないことだろう。

いかにもそれらしい人間なら、誰しろ注意するし、自衛のための手段を考える。
こうした人が増え事件が続けば、アメリカ並みに「銃の携行」を許可して
もらわなければ表を歩けない。

しかし、それは更なる悪循環を生むだけなのだが・・・。

自分の生きている時代の「病巣」に唖然としている「中年」である。


さて、暗い話をマクラにしてしまって少々気が重いが、私の参加した会議に
ついてUpしたいと思う。

私は「調理人」であるが、お客さんが入って料理を提供するというタイプの
仕事ではなく、ある施設のほぼ固定された人数の食事を作る調理人である。

そのため、客商売としての調理とは違った意味での「諸問題」があり、
それについての会議が1ヶ月に1度乃至2度ほど行われる。

今日がちょうどその日だった。

会議というものは、時々(いや、いつもだな)何のために出ているのか
分からなくなる。

日本人は「根回し」が好きだと言われているが、私も会議というのは「既に
決まっていること」発表・確認する場だと思っている。

その場で意見を求め、それによって「劇的に物が変わる」そんなことが、
そうそうあっては、逆に物事が定まらないのではないだろうか・・・。

ゆえに、会議においては事前にその会議をいかに進めるかを「司会者」が
完全にシュミレーションしておかなければならない。


この歳になるまで(というより停年までずっと)地位が上がるということは
無かった自分だが、そうであるからこそ組織の全体が見えるようになってくる。

そこに「出世欲」が絡んでくると正しい現状が読み取れないのだろう。

会議においての進め方というのは、ひいては「組織の中の会議の意味」を
理解しておかないとうまくいかない。

だからこそこの頃、良く思う。

どんな小さな会議であろうとも「高いと事から全体が見える人間」が
それを進めないと結局「時間の無駄」になるのだということを。

なんにしても、短時間に価値のある会議というのはむずかしいなぁ・・・。

今回も最後までお付き合いいただきありがとう。
これを読んだみんなが、会議に「的確な発言」をして無駄に時間を使いません
ように。

でも、黙ったまま何も言わない人間が多い会議も困るしな~~~。  may







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田植えが始まった  ~今どきの百姓~

2007年05月13日 | 農業
私は中年である。

中国の「ディズニーもどき」遊園地の話が、いよいよ国際問題になりそうだ。

東アジアのことに興味を持つ者として少々コメントしたい。

「著作権」というものは今や「世界基準」となっているが、基本的にアジアに
その意識は存在していなかった。

日本においてこの意識は、明治時代以前ははっきりしていなかったと想像する。
やはり、この権利の根本は「西洋文化」のなかで育ったであろうことが見て取れる。

「知的財産」と「国威」いうものがどう評価されるか?これによって「国際社会」
でのその国の位置が確認されているといえるだろう。

美術・音楽・学説・思想などの創始者に対する経済的評価を、どの程度に扱うか
が、文化的国家の物差しになっているのだ。

前にもどこかで書いたが「中国」という名前は「我こそは世界の中心なり」と
言う意味だ。

そうした中で、これだけの状況になってもあの国はその意識から抜け出せずに
「著作権」なる意識を持てないでいる。

まあ、ああした意識の国はただ「人海戦術」でしか話をすすめられないだろうなぁ。

ちょっと手ひどい目にあったほうが中国のためにもいいと思う「中年」である。


さて、田植えが「終わった」のである。

今回のタイトルが「田植えが始まった」なのだが、それを進めているうちに
ブログで追う方が間に合わなかった。

もっとも、田植えに要した期日は「2日間」でしかない。

我が家は6条植えの田植え機なので、だいたい三反分(30m×100m)の
田んぼが約1時間半で植え終わる。

我が家は三反分田7枚と半端な田んぼが2枚。

その中で植えられる田んぼは6枚とちょっと。(なぜ、全部植えられないのかは
違う機会に説明します)

そうすると6時間あれば4枚植えられることになるので、2日間で終わるのは
当たり前である。

田植えというのは、稲作生産農家にとってはまさに「始まりの日」である。
それを前に「土作り」は丹念にせねばならないが・・・。

これが終わるとずっと気の抜けない作業がしばらくは続くのだ。

しかし、とにかく「ホッ」とするのも事実。

日本一のブランド米「コシヒカリ」は、実は大変むずかしい米だ。
稲丈は長く腰が弱い。害虫などにも強い米ではない。

しかもブランドとしての我が地域は、高地にある上に豪雪地帯、
そのため米の粒が小さく収穫が上がりにくい。

中年の男が40年来やってきて思うのは「なんでこんなことをやっているのだろう」
ということ。

生まれた家が「農家」だったということで、その家業を継がなければならない理由。
それは我々中年の人間は、すべからくこれを探していただろう。

日本全国が「中流意識」であった頃はこのことを、はっきりさせる必要が無かった。

「どうせどんな仕事をやっても、大して変わりが無い」という意識が
                            あったから・・・。

このことが「現在の百姓」のベースになっている。これから先もこれをベースに
話を進めることにします。

今回も最後までお付き合いいただきありがとう。
これを読んだみんなが、今の日本の農業があやういことに気が付きますように。

これから毎日「水見」です。(毎朝晩田んぼの水の量を管理する。朝5時・夕方
6~7時頃ウロウロするのです)
                                                                    may


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電車での「暴行」を止められなかったのは・・・ ~摩滅したのは?~

2007年05月07日 | Weblog
私は中年である。

少し前に電車の中で女性が暴行され、周りの乗客約40人が「助けなかった」
ことが問題となっていた。

とんでもない事件で、犯人に厳罰に処して欲しいと思うのは当然だが、
助けなかった40人の話が気になる。

この事実だけを聞くと、この40人も非難されることが当然に思える。
しかし、私はその状況を聞いて、そこに今の日本のおそろしい現状を見る。

今の日本人は「恥ずかしい」という意識が摩滅してきている。そのことを
実感している人は多いのではないだろうか。

そんな中で「おせっかい」なおじさん・おばさん・爺ちゃん・婆ちゃんが
少なくなっているから、今回のような行為に対して声をかける人間がいなかった
ことも、あながちおかしいこととは思えない。

犯人が「何見てんだ!」とすごんだりしたと言うし・・・。

被害者の女性が「本当に暴行」されているか、恋人同士の「痴話げんか」なのか
見ている方には微妙なところだったと思う。

せめて大声を出して女性が騒がないと「本当に暴行されている」ことを回りに
知らしめることが出来ない。

被害者がそうした行動をとったとは聞かない。


昔のように、そんなことが身の回りで頻繁に(痴話げんかの方のことだよ)
起きていなかった頃は、たとえ「痴話げんか」でも誰かが「いい加減にしなさい」
位の声をかける人間がいた。

しかも日本人は「女性の大声」に、あまり「大事」を感じない。(私だけか?)
欧米においての「女性の大声」は、すぐに人が集まってくるし、誰かが「警察」に
連絡してよい行為なのだ。

今の日本では、それで無くとも「他人の迷惑」と「自分の自由」を取り間違えて
いる奴が増えている中で、下手に注意したりすると冗談抜きに「殺され」かねない
世の中になってしまっているのだ。

こうした場合に、被害者本人が「大騒ぎ・大声」を出さない限りまわりは
助けられないのが現状ではないだろうか・・・。

繰り返すが「日本人の美徳」が喪失しつつある現在、欧米並みに夜の暗い道を
一人で歩かないとか、男と二人っきりにならない。とか、大声を出す練習とかを
女性が自覚しないと「ヒドイ」目にあうことを覚悟しなければならない時代なのだ。

現実この電車での40数人に自分がなったとしたら・・・。

わたしに加害者に注意する勇気は、よほどでないと沸いては来ないだろう。
心配してあれこれ言った挙句、暴力を振るわれたり、本当は二人は恋人だった。
なんて茶番が少なくない状況では、リスクの方が大きすぎる。

「良いか・悪いか」という話であれば、全ては簡単で「加害者」が悪くて
それを止められなかった「乗客」や「乗務員」が「悪い」わけで、それ以外の
答えは無い。

しかし、この事件は現代日本の新しい防犯意識への転換点になるかもしれない。

「給食費未払い」「保育費未払い」に並んで、この「車内女性暴行事件」は
日本の「美徳」が完全に壊れたことを証明する事件になったといえるだろう。

今回も最後までお付き合いいただきありがとう。
これを読んだみんなが、ひどい目にあいませんようにそしてできるならば
日本の「美徳」を取り戻す時がきますように。

本当は「恥」をかいてもいいからその「行為」を止めるべきとも思っては
いるのだけれど・・・。
                                                                    may
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井上靖著「風林火山」読み終わりました。   ~なるほど、そういうことか・・・~

2007年05月06日 | 
私は中年である。

高校野球・高野連がもめている。

日本学生野球憲章が「禁じているスポーツ特待制度」に抵触する高校が続出
しているという。

そんなことを知らなかった人間がどれくらいいたのだろうか?

物事がはっきりしていくのは悪くないが「どこまで」細かく追求するべきか
この頃不安になる。

こうした問題では昔聞いた話が象徴的である。

運動会のかけっこで順位を「確定させない」話だ。
誰が見ても一緒に走った子どもの誰が何位であるかは見て分かったはずだ。

なのに順位もつけずワッペンもくれない。(私等のときは赤・黄・緑のリボン
だった)

ならばテストをやっても順位をつけるな。受験の時もテストの順位によって
合否を決めるなっての。

勉強が得意でなく運動会のかけっこだけが注目を浴びることの出来る「種目」の
子どもだっているはずだ。

「そんなことに・・・」って言う人もいるだろうけど本人には「大問題」なのだ。

今回の「特待生」制だって「推薦入学」とどれだけ違う?

もっと上手に制度を学生憲章を変える方法が無かったのか?
世の中に転がっている「不条理」はもっともっとひどいことがいっぱいあるはずだ。

ひどく細かい部分ばかりが「ギスギス」して巨悪といわれるものが「ユルユル」の
気がして仕方が無い「中年」である。


さて、私が今年の大河ドラマ「風林火山」にはまっているのは、ブログを読んで
くれている人はご承知だと思う。

そこで、随分前に読んだ原作の

       井上靖著 「風林火山」

                 を読み返してみた。

この「風林火山」なる言葉が世に出たのは、この小説に寄るところが大きい。
「山本勘助」が世に知られるようになったのも、この小説による。
(もっとも松本清張のように、その存在自体が「無い」という人も居なくも
 無いが・・・)

改めて読んでみて思うが「歴史小説」としてのこの作品は、有名になった割には
「歴史」の部分の掘り下げが浅い。

有名な「川中島」の合戦が終盤に出てくるのだが、その中で「ライバル」と
目される「上杉謙信」のことなどはほとんど人物描写がなされていない。

重要な登場人物「由布姫」についても、話の中心であるはずなのになにか
非常に「淡白さ」を感じてしまう。

この「風林火山」はもっともっと「厚み」のある小説にできたのではないだろうか。

井上氏のほかの小説を読むと尚のこと、わざと「淡白」に書いた気がして仕方が
無い。ぺージ数も330。有名な本にしては、非常に少ないといえる。

こうして大河ドラマになってみると、逆にストーリー的に「芯」の部分が
しっかりしている分「肉付け」がしやすいという面が強いだろう。

この本を読んでドラマを見ると、随分サイドストーリーがとても多いし、
話の進みも遅いのがよく分かる。(だいいち11話までの話は原作に無いしぃ・・・)

まあ、なんと言ったって書かれたのが昭和20年代後半だから「中年」の私が
生まれる10年近くも前なんだから、いまの感覚で読むには無理が
あるんだろうなぁ・・・。

薄い本だし一読を薦める。

今回も最後までお付き合いいただきありがとう。
これを読んだみんなが、ゆっくりと「時代小説」を読む余裕が生まれますように。

「山本勘助」って、小説上では50代半ばを過ぎてる設定なんだよ。
                                                                    may






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今どきの「お百姓さん」  ~満を持してUpします~

2007年05月03日 | 農業
私は中年である。

・・・ひどいゴールデンウィークの始まり方だ。

金曜日の夜に、ふとしたことから自分の顔をじっくりと鏡で見ることになった。
それも顎の辺りをアップで見るような方向から・・・。

年度末をすぎ歓送迎会などがあると普段は撮らない「写真」を撮ることが
多くなる。
そして貰った写真に写っている自分の「たるみ」具合に愕然とした・・・。

なによりも「あごから下」の肉がたるんで二~四重顎に見える・・・。
「本気のホンキ」で「締めねば!」・・・。

その夜酒の肴にビーフジャーキーを噛んでいたら前歯に挟まったので楊枝を使った。
すると「ポロリ」と何かが落ちた。

虫歯を治療した詰め物が抜けてしまったのだ。

・・・いろんなことでドタキャンもあったり、気持ちが理由も無く落ち込んだり。

何とかGWの中ごろには「明るく」ならないかなぁ・・・。


さて、私がブログを始めて1年余り。ほとんど「農業」のことについては
Upしなかった。

それは、そのことについて「冷静」に語る自信が無かったからである。

中年になった今でも、自分がそれをやっている理由に納得できずにいる。
それは情けないことなのかもしれない。それによって、これを読んでいる
人たちに「誤解」を与える可能性がかなり「大きい」と思える。

では、誤解されない自信ができたのかといわれれば、今もってその自信は無い。

それでも、やはり「日本一の米どころ」といわれる地域の農業が、いかに
進んでいるかを記す必要があるのではないだろうか、と考えたのだ。

そうした意味では、話は長くなることが必至である。

まあ、面白くない内容になるかもしれないがお付き合い願いたい。


現在の状況からお伝えしよう。

GWに入った今頃が「我が地域(日本一のコシヒカリ産地)」にとって、
「米作り」の始まりである。

雪深い地域であるからこそ「うまい米」ができるというのは、それなりの意味が
あるらしい。(雪解け水が関係しているらしいが、詳しくは知らない~いっと)

これから「ああ、百姓が始まるんだ~~」という「期待」とも「ゲンナリ」とも
感じる時である。


前段でもUpしたように、冷静にいけそうに無いがまず自分のやっている
農業の量を記しておくべきだろう。

   自作田21ha・全田「コシヒカリ」作付け・小作1.6ha
       (三反分田{30m×100m}7枚+α)

これがどれ位の「農家」かは、徐々に説明して行こうと思う。

「農業」のことをUpするについては「前提」となることがある。

それは、わたしが「中年」だということだ。(わかっとるワ!とツッコミが
入りそうだ)

そして、中年であるわたしは「近代農業」の過程をほとんど見てきたことに
大きな意味がある。

だからこそこのカテゴリーでUpする気にもなったのである。

このままだと「ダラダラ」と長くなるので、今回はこれくらいにしておきましょう。
すぐにまたUpするからね。

今回も最後までお付き合いいただきありがとう。
これを読んだみんなが日本の農業がいかに「危うい」かを考えてくれますように。

今日は「憲法記念日」日本の現体制が決まった日。現在の農業体制の危うさも
60年前の今日決まったのかも知れない・・・。
                                                                    may

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