私は中老男である。
北海道での観光船沈没事件での話。
事件後かなりの日が経ってから記者会見。
会見の最初と最後に。
社長が「土下座」をしていた。
「土下座」というは・・・。調べてみると
「申し訳ないという気持ちを表すために、地面や床にひざまずいて謝ること。」とある。
日本人の感覚の中では「土下座」は、最高の「謝意の現れ」ととらえられている。
しかし・・・。
いまの日本人において、本当に土下座は「最高の謝意」になっているだろうか?
土下座が「屈辱である」という感覚がなければ、実はあまり意味がない。
江戸時代の参勤交代時には、その行列に通行人・百姓は「土下座」を強要されたという。
それに土下座をしていた人々は「屈辱」と感じていただろうか?
けっこう「は~~~あ、また来た」とか「めんどくさいなぁ」とかの意識だったのではないだろうか。(庶民なんてそんなもんだろう)
「社会的地位の高い人」が(なんで「俺が」こんな格好せねばなる!)と思ってすることに意味がある。
逆に言えば。
「そうした意識の薄い人」がする土下座には
あまり価値を感じない・・・。
つまり、それを行う人間の人となりが「価値」をきめるのだと思う。
そうした意味で私観で申し訳ないが。
今回の沈没事故における社長の土下座には。
「ある種の軽さ」を感じてしまった。
その会見内容から見て取れた彼の人となりは。
「人の命を預かる観光船」を運行する会社の取締役の重みが「軽く軽く」見えた。
「社長」とか「取締役」の存在理由は。
こうした危機や不祥事の時の「謝罪のため」に存在すると私は思っている。
経営において「社会的な意味・意義」を薄く考えている人間の記者会見は。
こんな形になるのだろう。
今回も最後までお付き合いいただきありがとう。これを読んでいる皆さんも、自分の存在理由には「社会的意味」が少なからずあることを自覚しますように。
May
記者会見ってのには、会社のあり方・社長や取締役の人格とかが「如実」に現れるねぇ。