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Fish On The Boat

書評中心のブログです。記事、それはまるで、釣り上げた魚たち ------Fish On The Boat。

『「正義」を考える 生きづらさと向き合う社会学』

2013-03-21 23:44:58 | 読書。
読書。
『「正義」を考える 生きづらさと向き合う社会学』 大澤真幸
を読んだ。

より良い社会を作るにはどうしたら考え、行動したら良いか。
そういうことを論じて、提示してくれる本だと思って読んだのですが、
そうではなくて、あくまで「正義」を「考える」という体裁です。
つまりは、より良い社会を作るための土台としての知識、勉強を
この本を通してしようじゃないかというもの。

「物語」というものが失われがちな現代というところからはじまって、
これまで考えられた、「正義」を位置づける数々の思想の紹介と論考。
そして、それらに足りなかった資本主義社会というものの構造から受ける力の解説。
後半には、キリストの言葉から考える、現代思想を補うものの説明。
といった感じの本です。
まぁ、キリストはなかなか深いなぁと思いました。
一瞬、親鸞の悪人正機と通じるのかな、
なんて思えるキリストの言葉もあり、
脳みそをくすぐられる体験をしました。

読みやすく、後半はちょっと難しいのですが、面白かったです。

以下、ネタバレを含む、感想に代えた僕の考えをツイートから。

___

現代人の病んでいるゆえんは物語の喪失だとか言われますが、
情報化社会になったがために許容しなければならない物語が多様で大量で大きくなったので
無意識的に拒否している部分もあるんじゃないかと思った。

本にも書かれてたことだけれど日本人としての物語には、
アジアで最初の近代化に成功した国民であり戦後の復興をとげた国民であり、
被爆国であり、太平洋戦争でいろいろな国に迷惑をかけてもいるなどがある。
それに細かい歴史だとか個人的だとか共同体的だとかがあってオーバーフローするんじゃないでしょうか。
そういう「物語の喪失」「物語の拒否」もあるんじゃないかなと思う。

目的があって、それに向かうことで意味のある人生になったら、
物語のある人生になる。そっちのほうの物語の喪失には、
夢も希望もみにくい社会が原因だとも考えられていて。

ひきこもりの心理は、「何かをしたり、しようと思う自分」の土台になる、
「存在する自分」(アイデンティティ)が傷ついたためだと解説されていたし、
なるほどなあと思った。土台が壊れちゃ何もできない。
物語を支える屋台骨が壊れているともいえる。ここにも物語の喪失が。

震災もそうだけれど、天災やテロや通り魔だとかの、
理由なき暴挙を受けるような事柄による心的外傷っていうものもありますよね。
そういう暴挙ゆえんの傷は物語化しにくくてただ拒否感や否定感、
もしくは恐怖感しか湧いてこなかったりする。

でもやっぱり社会構造が物語を消しているんだと思うんですよね。
映画「レ・ミゼラブル」でもあったけれど、
革命の学生たちの屍が街にたくさん転がっていたりして、
それを片づける市民がいた。彼らはその行為で物語を失ったりしないけれど、
現代人が同じことをしたら物語を失うでしょう。

現代社会においての、自然的・人的の問わない暴力性や死とか汚いものだとかに対処する精神性が
科学の名のもとに消されたような気がする。または技術革新によって。
天災は神さまが怒ったためだとかあったわけです、昔は。良くないことの前兆だとか。
そんな捉え方で安定したのが人間の心だった。

死というものだって、宗教的なデコレーションがしてあって近づきやすかったり、
そもそも昔って死とか死体が身近だったんじゃないかな。怖いとか汚いだとか、
ちょっとは思うかもしれないけれど、生物ってそういうものでしょ的な、
前提としての認識が今とは違っているような気がする。

バーチャルだとか、やんややんや言われたことがありますけれど、
やっぱりそれには理由があって、生々しさというものを、
たとえば死でもエロスでもなんでもいいけれど、感じた方があとで
「生きやすい精神構造」になりやすいってことだったんじゃないかな。

肉を得るためのと解体だっていまや分業で、
まるで隠ぺいされているかのように切り分けられてスライスされたものしか見る機会がないし
誰も見たいと思わない。魚すら解体するのを見てグロいってことになる。
そうやって、現代人が視界から排除していったものに物語と人を結びつける何かがあるかな、なんて。

という一連のツイートから導き出されるのは、
死も汚物の処理も身近にあらざるをえなくなるペットの世話と交流が、
人の物語性の喪失にあらがう手段になるんじゃないかということです。
今身近な手段としてはこれですよね。

以前、葬儀屋、死体洗い(湯灌)のアルバイトを急に始めて
サイトに書いて本になった若い女の子がいましたが、
これって彼女なりの物語の喪失からの抵抗だったのかなぁと思ったり。
檀蜜さんが葬儀屋の専門学校に行っていたというのも、物語が関係しているよなぁ、たぶん。

エロ・グロ・ナンセンスって、
物語喪失の現代のその理由を感覚でキャッチして出したものなんだろうかね。
はっきりわかってないからとがった表現だったりしてさ。
今みたいに解説書が出ていて研究が深まっていると、
もっとやんわりした表現作品が「あり」になりそう。
エロ・グロ・ナンセンスの文学って、その時代の人のわめきかな。
なんかヘルニアみたいな。

___


こんなことを考えるようになる本です。


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