読書。
『雪国』 川端康成
を読んだ。
川端康成の本を読むのは初めてです。
ノーベル賞作家ということで、どんな難しい小説かと思いきや、
その深みについていけていないのかもしれませんが、
それでもけっこう面白く読めました。
そこかしこに美がちりばめられています。
風景などもそうだし、ヒロインの駒子もそうだし、葉子もそう。
主人公の島村というフィルターというか鏡というかを通して、
美しいものが表現されている。
そして随所にでてくる「徒労」という言葉。
駒子が日記をつけていることやその生き方などに対して、
無為徒食の島村は「徒労」だと感じ取っている。
こういった徒労感って、中学生くらいのときに一番感じていたことです。
勉強も部活も、骨身を削って打ち込むことに徒労感を感じた。
あのときの気分を少し甦させられました
徒労、無駄。
僕が高校生くらいのときには、徒労と感じる心と
対極にあるような心理で過ごしていました。部活だけだけども。
冷たい視線でそういった、汗をかいたり涙したりする真剣さというものにたいして、
断ずるというのかな、そういう気持ちは楽しくないと感じたんだと思います。
20歳くらいのときには、「無駄が楽しいんじゃないか」という気になり、
今となっては、徒労なんてどうでもいいやというような基本姿勢になっている。
でも、仕事の一場面などで、徒労感が生まれることがたまにあることも否定できません。
中学生のころからワンランク上がったのか下がったのかわからないような
気もしますが、やっぱり上がったんだと思います。
シニカルに物事をみつめるだけで何もやらないっていうことの反動のほうが
正しかったんだと思います。正しいというか、そのほうが生きやすいのかもしれない。
島村はたまに儲からないような翻訳の仕事をしたりしていますが、
無為徒食の身ですからね、そんな下っ端な身分じゃないんだっていう気持ちが
ベースに置かれているのかもしれない。
というか、そうなってしまっているんでしょう。
生きることの激流を知らない身で、そんな姿勢に心が侵食されているような感じがする。
また、その当時の文化人とか知識人とかの階級の人は
よく持っていた感情の可能性もあります。
そういう人たちに、徒労から見える美しさを問う小説なのかな、
なんて思ったりもします。
解説なんかを読んでいると、そんな深くまで読み込んでいるのかと驚いたりします。
この作品のラストの締めくくり方なんかも、もっとはっきりと書いてもいいんじゃないか
という気持ちになりますが、ふわんとした示唆で終わっていきます。
昔の人は物事の裏とか深さとかを探るのが得意だったのかもしれませんね。
今のご時世だと、「土足で人の心に入り込んで」という嫌われ方をするような
詮索の仕方に通じるものがあるかもしれません。
それとも、鈍感な人が増えたってことなのかな。
けっこうみんな鈍感だからここまで書いてやらねばならないっていうのが
最近の書き手には出てきたっていうことなのかな。
そんなだったとしても、やっぱり読書を重ねることで、少しは敏感な情緒が
育つんじゃないかな。
『雪国』 川端康成
を読んだ。
川端康成の本を読むのは初めてです。
ノーベル賞作家ということで、どんな難しい小説かと思いきや、
その深みについていけていないのかもしれませんが、
それでもけっこう面白く読めました。
そこかしこに美がちりばめられています。
風景などもそうだし、ヒロインの駒子もそうだし、葉子もそう。
主人公の島村というフィルターというか鏡というかを通して、
美しいものが表現されている。
そして随所にでてくる「徒労」という言葉。
駒子が日記をつけていることやその生き方などに対して、
無為徒食の島村は「徒労」だと感じ取っている。
こういった徒労感って、中学生くらいのときに一番感じていたことです。
勉強も部活も、骨身を削って打ち込むことに徒労感を感じた。
あのときの気分を少し甦させられました
徒労、無駄。
僕が高校生くらいのときには、徒労と感じる心と
対極にあるような心理で過ごしていました。部活だけだけども。
冷たい視線でそういった、汗をかいたり涙したりする真剣さというものにたいして、
断ずるというのかな、そういう気持ちは楽しくないと感じたんだと思います。
20歳くらいのときには、「無駄が楽しいんじゃないか」という気になり、
今となっては、徒労なんてどうでもいいやというような基本姿勢になっている。
でも、仕事の一場面などで、徒労感が生まれることがたまにあることも否定できません。
中学生のころからワンランク上がったのか下がったのかわからないような
気もしますが、やっぱり上がったんだと思います。
シニカルに物事をみつめるだけで何もやらないっていうことの反動のほうが
正しかったんだと思います。正しいというか、そのほうが生きやすいのかもしれない。
島村はたまに儲からないような翻訳の仕事をしたりしていますが、
無為徒食の身ですからね、そんな下っ端な身分じゃないんだっていう気持ちが
ベースに置かれているのかもしれない。
というか、そうなってしまっているんでしょう。
生きることの激流を知らない身で、そんな姿勢に心が侵食されているような感じがする。
また、その当時の文化人とか知識人とかの階級の人は
よく持っていた感情の可能性もあります。
そういう人たちに、徒労から見える美しさを問う小説なのかな、
なんて思ったりもします。
解説なんかを読んでいると、そんな深くまで読み込んでいるのかと驚いたりします。
この作品のラストの締めくくり方なんかも、もっとはっきりと書いてもいいんじゃないか
という気持ちになりますが、ふわんとした示唆で終わっていきます。
昔の人は物事の裏とか深さとかを探るのが得意だったのかもしれませんね。
今のご時世だと、「土足で人の心に入り込んで」という嫌われ方をするような
詮索の仕方に通じるものがあるかもしれません。
それとも、鈍感な人が増えたってことなのかな。
けっこうみんな鈍感だからここまで書いてやらねばならないっていうのが
最近の書き手には出てきたっていうことなのかな。
そんなだったとしても、やっぱり読書を重ねることで、少しは敏感な情緒が
育つんじゃないかな。