拝島正子のブログ

をとこもすなるぶろぐといふものを、をんなもしてみむとてするなり

第九のエンディングはトルコ行進曲!?

2024-09-03 07:51:29 | 音楽

私(横野好夫)が子供の頃、第九のレコードの名盤は、フルトヴェングラーがバイロイト祝祭管弦楽団を振った演奏と相場が決まっていた。怒濤のエンディングでは狂気に陥った指揮者が猛烈なアッチェレランドをかけ、アンサンブルは空中分解、もはやカオスであった。が、名演とされていた。フルトヴェングラーと入れ替わりにヨーロッパ楽団の頂点に立ったカラヤンの第九は打って変わって、この人はテンポが速いことに定評があったにもかかわらず、件のエンディングは妙に落ち着いて整然としたものだった。

このエンディングのスコアは、熱狂の末、ぶち切るようにいきなり終止する。この音楽について、フルトヴェングラーを神と仰ぎ、カラヤンを商業主義の申し子のように言い続けた某評論家氏は、「ベートーヴェンは第九の最後で天を目指したが、ベートーヴェンも人の子、力尽きた。だからいきなり終わるのである」みたいなことを書いていた。よくできたストーリーである。このようなストーリーにフルトヴェングラーはぴったり符合し、カラヤンは相容れない(つうか、フルトヴェングラーの演奏からこのストーリーを編み出したのであろうか)。私を含めた当時の子供は、このストーリーについても、フルトヴェングラーが神様でカラヤンが商人であるということについても洗脳されたのである。

とうにその洗脳が解けたワタクシの現在の解釈はこうである。件のエンディングには、当時の交響曲には普通使われない打楽器、すなわちトライアングル、シンバル、大太鼓が加えられている。

鐘太鼓がシャンシャン鳴るのはトルコ行進曲である。行進曲は正しいテンポを守らなければならない。アッチェレランドは禁物である。行進する人がつんのめる。そのように考えると、シャンシャン鳴るなかで平然とテンポを守るカラヤンの演奏は実に曲に即していると言える。この様な解釈は某氏からすれば「不都合な真実」であり、「なにも分かってない」と仰いそうである。なにも分かってないのは仰る通りである。その点、カール・ベームをつかまえて「オペラが苦手」とお書きになった同氏とどっこいである。

ベートーヴェンが第九を作曲した当時、ウィーンはトルコ文化が流行だった。オスマン・トルコ軍によるウィーン第2次包囲はこの100年前。包囲されたとき、城壁の中にいたウィーンの市民は、城外のトルコ軍の鐘太鼓に生きた心地もしなかったろうが、包囲が解けて100年も経つと、今度はそれを楽しむようになったわけである。

トルコ民族はもともと中国の北方民族の一つである。だいたいわれわれを含めたアジア人は鐘太鼓が好きである。日本の球場で応援と称して楽器の音が鳴り響くのもその現れである。もしかしたら、日本のファンも、メジャーの試合みたいにキャチャーミットにボールが吸い込まれるときの音とかを聴きたいのかもしれないが、球団は雨の日も風の日も応援してくれている私設応援団に止めてとは言えないのだろう。

トルコ行進曲と言えば、モーツァルトのピアノソナタの第3楽章だとか、ベートーヴェンの劇音楽「アテネの廃墟」の中の音楽(これもピアノ用に編曲されている)が有名だが、モーツァルトのオペラ「後宮からの誘拐」の中の音楽も、いたるところで鐘太鼓がシャンシャン鳴ってトルコっぽい。映画「アマデウス」にはソプラノ歌手の発声練習がそのままこのオペラのコンスタンツェのアリアに移行するシーンがあって私は大好きである。因みに、この映画のディレクターカット版には、モーツァルトの妻コンスタンツェが夫の便宜を図ってもらおうとサリエリの家に行ってトップレスになるシーンがある(劇場公開版にはない)。

冒頭に書いた「フルトヴェングラーのバイロイトの第九」は、アンサンブルが崩壊するが名演なのはたしかである。だが、当時の子供に「アンサンブルが崩壊するのが名演」という誤ったメッセージを与えたきらいはある。正しくは「崩壊しても名演」である。

整然としたカラヤンもときに白熱するときがある。1960年代に作成した第九の映像は、音を先に録って後から画をかぶせたようだが、当のカラヤンが自分自身の音に合わせて指揮をする(真似をする)のに四苦八苦している。おいおい俺!速すぎるよ、と言ってる風である。さらに、1940年代にウィーン・フィルを振ったCDを聴いたときは、あまりに白熱してて、アンサンブルもところどころほころんでたからフルトヴェングラーか?と思った。フルトヴェングラーとカラヤンを間違えるなんぞ、肉と魚を間違えるようなものだから、これは決死の告白である。ただ、最近は、大豆で作ったハンバーグがほとんど肉と遜色ないそうだ。

ウィーンを包囲したトルコ軍が残していったのは鐘太鼓の音楽だけではない。潰走したトルコ軍の置き土産の中にコーヒーがあり、誰かがこれを拾ってコーヒー店を出したのがヨーロッパでコーヒーが広まったきっかけだそうである。バッハがコーヒーカンタータを書いたのはトルコ軍によるウィーン包囲の半世紀後であり、この頃既にドイツにもコーヒー文化が広まっていたわけである。このカンタータを聴くと、当時のコーヒーの人気のすさまじさが分かる。カンタータに登場するコーヒー好きの娘は父に「男を連れてきたらコーヒーを止める」と言うが、それでも隠れてコーヒーを飲み続けると告白してるから、コーヒーと男の好き程度はいいとこ勝負のようである。