「いのちへの礼儀(国家・資本・家族の変容と動物たち)」(生田武志著)を読む
2006年に起きた、坂東眞砂子氏の新聞連載のエッセイで子猫殺しの話題で炎上したことが記されています。私は知らなかったのですが、生まれた子猫を崖の上から落として間引きをされたことを書かれた内容だったそうです。
坂東さんは、罵倒されようが鬼畜といわれようが、あえてこのことを伝えることを選びました。案の定、相当に叩かれたそうです。
避妊というやり方は、自然にそぐわないという理由で拒んだそうです。昔は避妊などなかったですから、多くは間引きされていきました。(人間の赤ん坊も間引きされていましたから)
それでいて、現代では犬猫の殺処分は数十万匹されています。坂東さんはあえて叩かれ役を買って出て、こうしたことを作家として伝えたかったのかもしれません。
競走馬もそうですが、現役を退いた馬たちの多くは肉となったしまいます。多くの人たちはそういったことには目をつむってしまいます。犬猫の殺処分もしかりです。
そして、スーパーなどで肉や魚を買い求めて、私たちは何も殺していないといった顔をしています。肉を食べるということは殺しているということと同意語で、我々も確かに動物や魚を殺しています。
鶏をしめるという行為は、昔の家庭では多く見られたそうです。沖縄では1950年代まではヤギ、豚、犬なども家庭でしめて食べたそうです。それが普通の風景だったそうです。
我々はそういったことからは目を背け、善人面して暮らしています。私たちは多くの命を奪って暮らしているのです。著者の言いたかったことは、こういったことだと思います。
ペットロスについても書かれていて、ゆがんだ愛情でペットとの別れをした場合は、時間では解決せず抑うつになる可能性があるそうです。内田百閒の「ノラや」という作品のことが紹介されていますが、猫が迷子になってしまいペットロスになってしまった百閒先生のことが描かれていますが、猫がいた時には虐めていたという記述があり、後ろめたさがペットロスを長引かせてしまったのかもしれません。
現在のチェルノブイリは、野生動物の楽園になっているそうです。放射能は別として、人間がいなくなった世界でうまくやっているそうです。Fukusimaでも野生動物の楽園になっていくのかもしれません。