港区まち創り研究会(まち研)ブログ

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小さい頃の想い出(1)

2021-12-20 10:33:28 | 個人
戦時中の記憶
私は1942年生まれで、最初の記憶は母に負ぶわれて、空襲警報の中、暗い夜道を走って防空壕に行くシーンであった。
1945年8月、終戦になったのでおそらく2才、青森八戸市に疎開していた頃の記憶であろう。B29(アメリカの空爆機)の単語は鮮明に記憶している。その前後の記憶は全くない。
高輪に移り住んで
八戸市から東京の一時父の知人の家に間借りして下落合に住んでいたらしいがあまり記憶がない。
5歳の頃、高松宮様のご好意で、戦災に遭って住宅を失った家族のために、高松宮邸の一部を住宅地として、開放していただいた。
うちの家族も何万倍という抽選にあたり、運よく住むことができた。
ボロボロの家であったが、当時住む家があるということで、恵まれえていたと言える。
当時はまず、食料を確保することが第一で、どこの家も庭に、野菜や果物などをびっしり植えていた。私の家の庭も一面トマト畑にしていた。近くの森(今の高松中学校)に行ってはシイの実などを拾ってたべたり、バッタ、いなごを捕まえてたべたりした。(縄文時代みたいですね)ぎんなんが実る頃は、大勢の人がぎんなんの実を拾いに来ていたのを覚えている。
食べれるものは何でも食べていた時代であった。
近くの年上の子ども達と一緒に、ゴムで作ったパチンコで雀に石をぶつけて落として、それを捕まえて、家で焼いて食べたりした。
当時の雀はやせて肉がなくあまりおいしくなかった。

子ども時代の遊び
当時、保育園も幼稚園もなく、親も忙しかったので、ほとんど近所の子と外で遊んでいた。
子ども同士の遊びは、今から考えると危険が伴うものも多かった。高松中学校の校庭は当時大きな池があり、池の上を板を浮かべて、いかだのように乗ってあそんだり、急な崖の斜面を板に乗って滑りおりたりしていた。
15mある崖を登り下りしていたので、絶えず擦り傷などが絶えなかった。
ベイごま、メンコなどもよくやったが、賭博性があり勝てばよいが、負けると全部とられたりした。
夏は蝉取り、とんぼ取りをした。棒にべたべたするもちをつけ、それを振りまわしてとった。
とんぼは「シオカラとんぼ」、「ムギワラとんぼ」がほとんどで、たまに銀やんまなどがとれた。
蝉はあぶらゼミがほとんどであった。

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