今日は、この街にいます。

昨日の街は、懐かしい記憶になった。そして・・

611 上北(青森県)見慣れないエネルギー村のカザグルマ

2014-11-25 07:53:53 | 青森・秋田
「下北」は半島の名前だから昔から知っているけれど、青森には「上北」という地域名があることをこの旅で初めて知った。県東南部と、下北半島のマサカリの「柄」の部分にあたる横浜町・六ヶ所村を含めた地域で「上北郡」というのだそうだ。そういえば青森のローカル天気予報では「三八上北」という風変わりな呼び名がアナウンスされる。三は三沢、八は八戸、そして上北ということなのだろう。つまりは昔年の「南部藩領」である。



陸奥湾にはもう一つ半島がある。湾の奥に遠慮がちに突き出している夏泊半島だ。青森から下北半島へ行く途中、半島先端近くにあるという椿の北限地に立ってみたい思いはあったが、時間を惜しんでショートカットした。すると野辺地町の標識が現れたあたりで「藩境塚」という看板を見つけた。南部藩と津軽藩の藩境に塚があるとは聞いていたが、思いのほか大きな丸い土盛りが二個ずつ、湾に注ぐ細流を挟んで向き合っている。



塚はまるで両藩を代表する力士であるかのようにどっかりとあぐらをかいて、「ここから先はわが領土」と睨み合っている。南部と津軽の仲の悪さは日本中に知られた話で、その睨み合いは21世紀まで持ち越されているらしい。根っこは「津軽が南部の土地をかすめ取った」ということらしいが、今では酒席で非難応酬することが青森県人の楽しみなのではないか。いっそこの藩境塚で、末裔たちの綱引き合戦を恒例行事にしたらよろしい。



夏泊と下北の二つの半島に抱かれて、湾の中の入り江といった具合に荒波から幾重にも守られている海岸線の街が野辺地だ。江戸からまっすぐ北上して来た奥州街道は、野辺地湊で海に繋がる。南部藩の重要な交易拠点であった湊は、回船問屋と千石船で賑わったという。海岸に出てみると、往時の「浜町の常夜灯」が建っている。1827年、地元の廻船商によって関西から運ばれて来たという常夜灯は、バランスのとれたいい姿をしている。



古くから水陸交通の要地であるこの地が、なぜ《野辺地》と呼ばれたのだろう。辞書には「辺地=交通不便な遠く離れたところ。僻地」などとあり、「野」がそれを強調している。町のホームページによると「初めて文献に見えるのは南北朝時代」だというから、関東あたりの人々がこの海辺にたどり着き、その《遥かさ》を慨嘆したのだろうか。地名は土地の《標識》だ。瑞祥文字で飾る以上に、住民が愛し誇れる標識であるならそれが尊い。



お隣の六ヶ所村の由来も調べると、明治期に6つの村が合併したから六ヶ所村なのだそうだ。群馬に同じように6村が合併して「六合(くに)」と名乗った村があったが、上北は実に即物的だ。東通村から六ヶ所村へ、太平洋岸を南下していると、人の立ち入りを拒むフェンスが延々と続き、この辺りが日本の原子力利用の一大拠点であることを思い出す。「むつ小河原開発計画」の頓挫に翻弄されて受け入れた石油備蓄基地や核燃料サイクルだ。



ヤマセの通り道らしい冷涼な風景の中に、原発も再処理工場も隠されている。ただ巨大な風車が林立する山野を、備蓄基地に向けたまっすぐな道が拓かれているだけである。「日本の風景」の中で、下北半島の「柄」は特異な存在だといえよう。こうした土地のおかげで、エネルギーの安定供給が確保されていることになるが、しかし半島の人々が、これからも閉ざされた景観に寛容であるとは思えない。原発はもう止めたらいい。(2014.10.3)

















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